斉藤次郎と湯田伸子 暇刊!老年ナカノ日報⑦ 2018.9.25
物語と人間が出会っている
斉藤次郎という(ごく一部できわめて有名な)人がいます。まんが評論家であり、真崎守の「共犯幻想」の原作者であり、「共犯の回路」の著者であり…途中からは子供問題に軸足が移り、まんがについてはあまり発言していないのではないかと思います。
40年ほど前、ぼくは古本屋で萩尾望都の「続・11人いる!」という本を買いました。小学館が出していた漫画文庫の1冊で、有名な「11人いる!」の続編にあたる「東の地平 西の永遠」が収められています。
物語はかなり複雑です。「11人いる!」の試練を経て宇宙大学に入学したタダとフロルは、かつての学友であるマヤ王バセスカに招かれ、アリトスカ・レ(東の地)に旅立ちます。ところがアリトスカ・レとアリトスカ・ラ(西の地)の間に紛争が勃発し、加えて背後に存在する大国ドゥーズの思惑が重なり、タダとフロル、バセスカ、やはり学友であるアリトスカ・ラのソルダム四世は絶体絶命の窮地に追い込まれ…といった具合で、文句なしに面白いので、ぜひ「11人いる!」とあわせて読んでみてほしいと思います。
その「続・11人いる!」の巻末に、「少年の悲哀と救済」という解説を書いたのが斉藤次郎です。この豊かなファンタジーに斉藤次郎が読み取ったのは、愛でも友情でも死でも出会いでも社会でも戦争と平和でもなく、というかそれらすべてを包み込む「自分であること」「自分であり続けること」「自分を選び取ること」とその痛みでした。少し引用します。
「タダとフロルもまた、そのとき安全なシミュレーションの世界をあとにする。戦争をやめさせ、平和をとりもどすなんの手だても方策もないまま、ただ、逃げることを拒否するために、彼らは危険を選ぶ」「少年たちにとって、自分になにが可能なのかは、常にどうでもよい。彼らが息つめて心に念じるのは、自分がもっとも自分らしくあることだ。タダの帰りを待つよりは、タダといっしょに旅立つことの方がふさわしいと感じる、その確信に反論する力はだれにもない」「それぞれの一回きりの人生をぼくたちは、ぼくたちらしくあろうとする決意によって、選びつづけなくてはならない。そして、安全圏を放れた少年にとって、救済があるとすれば、唯一この確信の深さだけだろう」
決して物語の場を借りて自分の考えを展開しているのではなく、主人公たちがもらす言葉、選び取る行動、向かっていく場所、それが斉藤次郎にはありありと体感できてしまう。おそらくここで展開されている思考のある部分は「東の地平 西の永遠」によって導かれたものだし、しかしこの物語はそのような思考を導こうとして書かれたものではない。言ってしまえば物語自体が作り物ではなくて生々しく生きていて、斉藤次郎はその物語と共振しながら、物語自身の無意識を読み解いていった、と思えます。それはまるで、ある日出会った二人の人間が、お互いの中に自分を見つけていく体験のようです。物語と人間が、ここで出会っている。まんがや音楽に関する文章をぽつぽつと書いていた僕にとって、この文章は聖典でした。
ひたすらに恋い焦がれる
もう一つ、忘れられない文章があります。同じく40年ほど前に湯田伸子という人が「ぱふ」というまんがの専門誌に書いた「大島弓子グラフィティ」という文章です。もともとは「ぱふ」の前身である「だっくす」の1978年6・7月号に「大島弓子特集」の一つとして掲載された文章ですが、同号の品切れと再発要望の激増に応える形で「ぱふ」の1979年5月号に再掲され、ぼくが読んだのはその再掲時です。
これはまた斉藤次郎の文章とは全く違って、自分が大島弓子の作品が好きであったこと、友達と大島弓子について夢中で語り合ったこと、ファンレターを出して返事をもらったこと、大島弓子を語り合った友達とは遠く離れてしまったこと、などが切々と書かれています。分析も解読も論評も一切ない、ただそれだけなのです。全文引用して読んでいただきたいくらいなんですが、そうもいかないのでいくつかの文章を引用させてもらいます。
「一九七三年の話をしよう。そんな昔のことではない。しかし私には十年も前のことのように思われる。あの年の大島弓子熱と、それがための大騒ぎは、あの頃の大島弓子のマンガを見るたびによみがえってくる」「『雨の音がきこえる』を読んだときは、世界が一瞬変わってしまったような気がした。風の音も前とはちがったふうにきこえ、日ざしも違った色に見えた」「その日ばかりは学校に行かなかったWが、「珍しい人から手紙がきてるよ。」という。自分の部屋に行くと、戸の間に、大島弓子の名のある手紙がはさんであった」「小包を武蔵野郵便局止(「つぐみの森」という作品に出てくる場所…中野注)にしたWのセンチメントに胸がいたんだ。もう一九七三年は戻りはしない。(中略)実在していた武蔵野郵便局で小包をうけとりながら、私は悲しかった」
大島弓子が好きだということ以外に何一つ書いていないこの文章は、ぼくの憧れでした。最後は湯田伸子が「だっくす」の編集部に連れられて大島弓子の家に行ったところで結ばれています。「あれも言おう、これも聞こう、と思って出かけた大島弓子先生のお宅で、私はひとこともしゃべれなかった。二時間半、ただ黙っていたのである。それでもよかったような気がする。それしかできなかったような気がする」
ぼくはこの二つの文章を読み、なんとかしてこんな文章を書きたいと思いながら、自分の文章を書いてきました。この二つの文章は間違いなく僕を支えてくれてきたし今も支えてくれている、これからもそうなのだと思います。ぼくはいまも、斉藤次郎のように出会い、湯田伸子のように恋い焦がれたいと思っています。
(ウィキペディアを調べたら、湯田伸子がその後まんが家になり、おととし亡くなっていることを知りました。残念です)