【随想】 コインの裏表〜智者の慮は、必ず利害を雑う
かつて某精密機器メーカーに勤務していました。当時、事業部として何とかして食い込みたい業界王者・世界的大企業があったのですが、同社内で実績がない高額精密装置には新規参入の余地がありません。同社が新工場を建設するにあたり、同社でも実績豊富な既存メーカーが独占受注しましたが、同社から1台だけなら納入させてあげよう、そして性能評価してあげようとの提案があり、当時我が社は議論の末に提案に応じました。
提案に反対したのは現場サイドに近い技術者や営業たちで、問題発生時に同一環境の中に複数台の装置がないことで生じる原因特定のための切り分け作業の困難さ、問題解決の長時間化、現場サポート技術者の技術向上も進まない、といった難点を挙げて複数台受注ありきを主張していました。しかし、難攻不落の世界的企業に風穴を開けれる、売上げも計上できる、性能評価が好評なら追加受注も夢ではない、複数台なんて贅沢言って好機を逃すなという意見が勝り提案に応じ、結果的にはこの1台が最後の1台でした。
合理的判断の積み重ねだけでは必ずしも組織に良い結果をもたらさない。パッと聞けば非合理な要素も組み入れると全体的な業績向上に大きく寄与する。日本経済新聞の名物コーナー「経済教室」に掲載された、目の覚めるような寄稿の筆者は競争戦略論で著名な楠木建氏です。要約してみました。
<要約>
収益の源泉は、事業立地(どの業界か)と事業戦略(どう独自の価値を築くか)で決まる。AIや半導体のように市場の成長性が高く参入障壁が高い業界なら、果敢な投資で先行者優位を構築できる。だが流通小売業は難しい。参入障壁は低く、市場は成熟し、規模の経済が効きにくく、非連続な技術革新も期待薄で、差別化が容易でないからだ。
必然的に流通小売業は戦略勝負になる。儲けること以上に難しい「儲け続ける」困難に打ち勝つ企業の背後には、一体どんな戦略が隠れているのだろうか。その核心は「部分の合理性」と「全体の合理性」とのギャップにある。
「普通の賢者」は合理的な対応策を積み上げて合理的な全体を作る。だが合理的であるが故に他者に真似されやすく、同化競争に陥り、いずれ「合理的な愚か者」に堕す。「賢者」の盲点を突く戦略とはその対極にあり、優れた戦略の妙味というべき、一見すると非合理な要素を組み込む。
競合他社が真似したくとも、模倣が困難な障壁があるため競争優位が持続する。これが従来の競争戦略論の考えだ。ところがもし、相手の戦略の中に「非合理」な打ち手が含まれていたなら、競合他社はこれを真似しないし、むしろ模倣を避けて意図して真似しようとしないだろう。競合他社が真似しないから、業界内の地位を長期的に維持するのも容易だ。
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例をあげよう。アイリスオーヤマは問屋機能を取り込んだ「メーカーベンダー」という独自の立場をとる。ホームセンター等の小売業者に直接商品を納入し、自身が売り場作りや販促を担い、そこで得られた情報を基に製品改良を続けている。流通経路の過程で生じる情報の歪曲を排除し、真のユーザーニーズを把握できる利点がある。だが、問屋相手ならケース単位で出荷できるのに、ホームセンター毎に製品出荷するとなれば、製品1個単位の出荷となり手間はかかる。しかも迅速な供給が求められるから、アイリスは物流を考慮し国内生産拠点を9つに分散させている。生産効率だけを考えれば実に非合理な体制となっている。
またアイリスは設備稼働率を意図的に7割以下に抑えて生産能力に余裕を持たせている。これも非効率である。しかも部品は内製化。コストや機動力を考えれば市販の標準部品を使う方が合理的だ。自社生産すら表面的には非合理だ。だが、この非合理的な判断の積み重ねにより、コロナ禍では即座にマスクを増産し、東日本大震災の直後にはLED照明を大増産して、市場を支配したのだった。
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ユニクロは、圧倒的なスケールで強固な参入障壁を築いている。しかし競争の激しいアパレルで障壁を構築できたのは、ユニクロが初期の成功の後も、長期間にわたり同社の戦略を模倣する競合が現れなかったからだ。なぜか。
それはユニクロの服作りが、業界主流のファストファッション企業にとってありえない非合理さを含んでいるからだ。年々変化する流行を追うファストファッション業界では、週単位で商品構成を組み替え、小ロット生産する柔軟性の確保が生命線。ユニクロが手掛ける長期的視点のもと素材開発にまで踏み込むやり方は、彼らの生命線を根底から覆えす。だから彼らは意図してその真似をしない。そしてユニクロは粛々と障壁を築き上げてきた。模倣障壁の半分は競合他社がつくると言ってよい。
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模倣障壁と模倣忌避、この2つの論理は排他的ではない。長い時間軸の中で、競合他社の模倣忌避の結果として模倣障壁が出来上がることが実は多い。「賢者」の盲点を突き、局所的な非合理を組み込み全体のなかで合理的なものに転化する。ここに究極の持続的競争優位のメカニズムがある。
(原文2709文字→1498文字)
組織の成員が秀才揃いになる連れ衰退していく、と言われます。会社組織も同様で、経営判断の大部分は論理的なものであらねばならず、論理的思考力と言語能力に優れた秀才たちが重宝されるのは自然なこと。でもそれだけで物事は上手くいかないのが世の不思議です。
洋菓子店「シャトレーゼ」創業者は、あえて借り入れを増やし、無理な設備投資に踏み切る決断を幾度と下したといいます。高学歴ぞろいの銀行員・コンサルが好む「美しい」財務諸表をあえてアンバランスにしたのは、社内従業員に良い意味での緊張感を持続させるためだったと回想しています。この指摘を目にしたときは「目から鱗」でした。
物事には常に両面あり。ただ、非合理に潜む利点に気づくに、自身の経験を顧みるだけでは限界があります。多彩な人との話し合いでしか限界を越えられません。ここに多様性が大事とされる所以があります。
そしてもうひとつ気づかされるのが、組織の命運はリーダーで決まるという陳腐な帰着です。
本文中の事例2企業には、いずれも「創業者」という組織の誰もが一目置かざるを得ない強力なリーダーがいたという共通点があります。一見非合理な判断を押し切れる背景をもった「賢者」がトップにいた。では、「中興の祖」と後に呼ばれる非創業者は、いったい周囲から一目置かざるを得ない敬意を如何にして得たのでしょう。なかなか面白そうな研究テーマだと感じます。