「とほ宿」への長い道 その4:とほ宿を泊まり歩く
1996年9月、初めてのとほ宿「ニセコ遊牧民」
北海道を自転車で旅して、安価な宿「ライダーハウス」に泊まり、ライダー達と酒を飲みながら北海道の情報を語り合う中で「とほ宿」という言葉が多く出てきた。1泊500円程度であった「ライダーハウス」に比べると激安というほどではないが、それでも1990年代当時は1泊2食付きで3,000円台の宿が多かった。せいぜい1週間程度なので大したことはない。
そして、寝袋持参のライダーハウスと違いフトンで寝れるし、食事が豪勢なところが多いとのこと。「ライダーハウス」だとスーパーで惣菜を買うか、自炊するとしてもあまりいいものは食べれないし、結局そこそこお金がかかってしまう。そして、「アルコール飲み放題」の宿もあるとのことであった。社会人になって金銭的に余裕が出てきたということもあり、次北海道に来るときは「とほ宿」に泊まろうと思った。
1996年9月、当時は関西に住んでいたのだが、舞鶴から小樽行きのフェリーに乗り、翌々日の早朝に着くという学生時代と同じルートで旅に出た。この頃になるとライダー向けガイドブックなどを読んで地元の情報をそこそこ知っている。当時、「鱗友市場」というのが小樽港の近くにあり、そこでウニいくら丼を食べて景気付けをしてからニセコに向けてペダルを漕いだ。
大学を出て体重も増え体力も落ちていたのでニセコへの坂は長く険しい。そして尻が痛くなる。必死の思いで昼頃にニセコのとほ宿「遊牧民」に着いた。
何故この宿を選んだのかというと、後方羊蹄山(しりべしやま)に登りたかったのだ。確かライダー向けのガイドブックで「後方羊蹄山登山送迎します」と書いてあったからこの宿を選んだと思う。如何にも高原風の雰囲気のあるウッディな宿だった。
翌朝後方羊蹄山登山口に行く段取りを宿主さんと話をしたのだが、ちょうど同じく後方羊蹄山に登るというライダーの人がいて、そのリアシートに乗せてもらうことになった。ずいぶん適当だなと思った。
実はバイクに乗ったことが無く、リアシートに座るのも初めてだった。BMWの大きなバイクで、タンデムシートも広めではあったが、振り落とされないようにするので必死だった。(だから覚えているんだろうが)
登りながらライダーさんと色んな話をする。お坊さんだった。
「小林さん、この世界で上の地位に行くためにはどうすればいいと思います?」
「仏教のことをより勉強して、徳を積むことですか?」
「違います。上の地位にいる僧侶をキャバクラとかで接待して、引き上げてもらうことです。」
どこの世界も同じだ。
しかしそのお坊さんは、自分は檀家さんたちのカウンセラーを自任していて、上の地位に行くことよりも、ひたすら悩み事や愚痴を聞いたりして慰めるのが仕事だと思っていると語っていた。ふだんは会社の人間とばかり顔を合わせている毎日だったので、このような話は新鮮に感じた。
「遊牧民」は最近まで存続していたのだが、「ねこばやし」の開業から間もない時期、昨年の2月に残念ながら閉館した。
ニセコ遊牧民は2023年2月末で廃業いたしました1987年12月より35年間ありがとうございました。
祖母の家のような「セキレイ館」
それでもこの年は野営道具一式を積んでいたし、ライダーハウスにも泊まった。ニセコから支笏湖、そして日高に抜けたのだが道中「とほ宿」が無かった。襟裳岬を超え、大樹町の「セキレイ館」という宿に泊まった。
ここも写真は残っていない。たまたま宿主が不在なのと当日の宿泊客が自分1人だったのであまり強烈な印象が残っていないのだが、「遊牧民」と違って普通の民家な建物だった。祖母の家と同じような雰囲気というか匂いがした。こういうのも良いなと思った。自分の宿の物件を探す時に、ログハウスとか古民家とか非日常性が感じられる空間にこだわらなかったのは、思えばこの時の体験に端を発していると思う。
「セキレイ館」は今も営業中。私が泊まった翌年に二代目宿主に交代したらしい。
北海道十勝のゲストハウス民宿・セキレイ館♪
宿主の思いが伝わる「ワインの国」
翌日は池田町の「ワインの国」に泊まった。夕飯に出るというステーキに釣られた。この日は6人くらい宿泊客がいて、宿主さんが開業の時の苦労話や夢を語ってくれた。古びた建物を買い取り、2年がかりで修繕して宿にしたそうだ。
もちろんステーキも美味しかったのだが、宿主さんや他のお客さんとの会話が本当に楽しかった。今ほどはネットが普及していなかったので、同好の士同士で集まるというのは簡単ではなかった時代だ。しかし、こういう宿に行けば旅好きの人間は集まっている。夜に酒を飲みながら語らうというのが決まっているので、その時のメンバー次第というライダーハウスやキャンプ場と違い楽しい時間が約束されている。
そして、もうテントや自炊道具を積んで走るのはしんどいと感じていたので、次回からは「とほ宿」を泊まり歩くことにした。
小さな建物にロマンが詰まった「ぼちぼちいこか」
翌1997年も例によって小樽に上陸。たまたま米国海軍の空母が寄稿していて、1時間くらいそこでロスした。札幌の北、石狩の海沿いの道を通る。海沿いならアップダウンは無いだろうと思っていたら完全に裏切られた。一番高いところで標高100mくらいある。
小さい漁村をいくつも通り過ぎた。こういうところで過ごす人生はどんなのだろうと思いながらペダルを漕ぐ。9月初旬の北海道だったが気温が30度近くあり、自販機すら無いので脱水症状になりかけた。
そして「雄冬」という町に着いた。高倉健主演の映画「駅」の舞台だ。孤島でもないのに1981年時点では自動車が走れる道が無く、少し北にある「増毛」という町から連絡船が出ていたのだ。健さん演じる主人公は年末年始に雄冬に里帰りしようとするのだが、悪天候で増毛に足止めを食ってしまう。そしてぶらりと入った居酒屋のおかみと・・・という話だ。
前年に買った「とほ本」とツーリングマップルを読みながら宿を探すのだが、、見つからない。倉庫らしきものはあるが・・・と思ったらそこが「遊ing人の宿 ぼちぼちいこか」だった。自分はその後100軒近い旅宿を泊まっり歩いたが、ここほど小さいところは無かった。
風呂は無いので近くの日帰り湯へ・・・は、車で来ていた人に同乗させてもらった。その人も特に文句を言うわけでなく快く同乗させてくれた。「遊牧民」でもそうだったが、宿の不完全な部分を客が補う。しかしそれがむしろ心地よく感じた。何せ食事含めて3000円台の宿である。
食事は地元で採れたという甘海老など海の幸が出た。そして、部屋の灯りを消してランプの灯りだけになり、宿主の一休さんがギターを弾いて歌いだした。大阪でサラリーマン生活をしていた自分にとっては、遠くに来たんだなあとしみじみ思った。ボロは着てても心は錦。やはりここでも宿主の身の上話と将来の夢が語られた。今は学校の用務員をしながら生計を立てているが、将来は宿一本で食っていくのが自分の夢だと一休さんは語った。日々、給料のために面白いとはいえない仕事をこなす自分と比べて、夢を追いかけて生きている一休さんが眩しく見えた。
因みのこの宿はこのすぐ後に、高倉健と倍賞千恵子がしっぽりした海辺の町「増毛」(ましけ)に移転し、「ぼちぼちいこか増毛館」になった。2000年のお盆の時期に訪問し、「無人島ツアー」に参加した。(無人島といっても雄冬の奥まったところだが)。その日はお盆ということもあってか20人くらい泊まっていた。
2006年には雨竜のとほ宿「ゆき・ふる・さと」に泊まり、日本第二位の高層湿原(一位は尾瀬)「雨竜沼湿原」を経て暑寒別岳に登頂し、山頂から一休さんに電話して下山口まで迎えに来てもらった。(両宿とも事前予約)
前回来たときは記憶に残らなかったお子さんたちが小学生くらいになり、一休さんの子煩悩さが印象的だった。
遊ing人の宿 ぼちぼちいこか増毛館
そして更に17年の月日が流れ、昨年秋に「とほネットワーク」総会で、会の代表をしていた一休さんに再会し、「とほ」のプレートを一休さんから授、していただいた。その後の飲み会でも一緒だったが、ピーターパンがそのまま年をとったという感じだった。因みに還暦を過ぎた今でも郵便物の仕分けのアルバイトをしているという。自分も宿の先行きに不安を抱えていることを話したのだが、「小林くん、お金が無かったらバイトすればいいじゃない。」と、「パンが無ければケーキを食べればいいじゃない」的なノリでアドバイスをいただいた。まあ、あの小さな小さな雄冬の宿から始めた一休さんが30年以上も宿業を続けているのだ。不安は多々あれどなんとかなるのかもしれない。
宿を立ち上げる時、いろんな人から「維持するの大変やよ、やめときね」とか「ちゃんと事業計画を立てて、それを忠実に実行して」と言われたが、こんな個人の零細ビジネスなんて、見込みが10あったとしたら実現するのはせいぜい2か3かくらいだ。そこで立ち止まってもあまり意味はない。それよりも、今の自分と同様もしくはそれより厳しい局面に立たされていた先達たちが今も継続しているという事実が何よりも頼りになるものだ。(つづく)