見出し画像

「とほ宿」への長い道 その7:サラリーマン生活

宿主の新入社員時代

北海道大学を落ちた筆者が、ワンダーフォーゲル部で戸隠の山小屋に入り浸り、北海道を自転車旅して、当初はライダーハウスだったのが「とほ宿」を泊まり歩くようになったことを書いてきたが、少し時間を戻して、社会人になりたての頃の事を書いていきたい。
1992年、バブル景気は既に去りつつあった(当時は「失われた30年」が来るなんて夢にも思っていなかった)頃に就活した。前年とは比べ物にならないくらい就職戦線が厳しいという情報が飛び交っていたが、とはいってもGWに山スキーで北アルプスオートルート(新保高温泉~黒部五郎~薬師岳~立山雷鳥平~大日岳~富山地鉄立山駅)行って日焼けで顔真っ黒になってからOB訪問しても間に合ったし、インターンだ何だという今の時代に比べたら牧歌的だった。
40社ほどエントリーして、6月の末に小学生でも知ってるカップラーメンの会社と「国際デジタル通信」という国際電話の会社から内々定を貰い後者を選んだ。
従来は国際電信電話(KDD)という会社が独占で国際電話事業をやっていて通話料金も米国向けで3分1,000円超だった。宿主が入社する何年か前に新電電と言われる会社が2社参入したのだがそのうちの1社だった。大株主は伊藤忠商事とトヨタ自動車、そして創業1852年の英国の老舗通信会社「ケーブル・アンド・ワイヤレス」社で、それ以外にもNECとか富士通とか新日鉄とか日本興業銀行とか、日本の錚々たる会社が株主に名を連ねていた。
1980年代中頃までは外国に行ったことのある人というのは日本人の中でもごくごく少数で「アメリカ横断ウルトラクイズ」みたいな番組を見て憧れるだけの対象だったが、昭和の終わりからの円高で海外渡航のコストが下がり格安航空券とかも出てきて自分も卒業旅行でアメリカに行った。世界というものが身近な存在になってきていた。
一方、家の黒電話がコードレスになって「電話は一家に一台」が「一部屋に一台」になり、1970年代は物質転送装置の如き夢の機械だった「FAX」がどこの会社にも置かれるようになるなど、慣れ親しんでいた「電話」がいずれは新しい何かになるのではないかという予感があり、これから起こるであろうワクワクしていた。
会社は東京の浅草橋という下町風情のある場所にあった。独身寮が江戸川区の西葛西にあり、地下鉄を乗り継いで秋葉原まで行き、そこから10数分歩く。交通至便な場所とは言い難かったが、西宮の山の中で大学の4年間を過ごした筆者にとっては牧歌的で良かったと思う。
一か月ほぼ遊んでいた楽しい導入研修が終わり人事部に配属された。トヨタ自動車から来た人事担当役員の机の上には「ネオダマの時代」という本が置かれていた(ネットワーク・アウトソーシング・ダウンサイジング・マルチメディア の略)。IIJが日本で初めて商用インターネットサービスを開始したのはその年、1993年の11月だったが、今思えばインターネット社会の萌芽はあった。
配属されて「とりあえず過去の稟議書とか読んどいて」と言われていたが、3日もしないうちに学生から面接エントリーの電話がかかりまくり、しばらくはセミナーや面接の手伝いをした。社内のあらゆる部署と接点があり、退社して秋葉原に行く途中で他の部署の人たちから呼び止められそのまま飲み屋に行った。花柳界が近い土地柄でもあり良い店が多かったと思う。「サッポロラガーを置いている店は肴が美味いんだ」と教えられた。学生時代はカネが無くて360円のランチと自炊飯ばかり食べていたので何を食べても旨かった。この頃は社内の雰囲気も緩くて楽しい日々だった。

会社の近くにあった「佐竹商店街」

その後営業部門に移り、国際電話の会社らしく海外にも出張した。自分の担当エリアは中国と東南アジアで、当時は日本円が1ドル80円程度で、出張規定の範囲内で5つ星ホテルに泊まれた。街中の見栄えのいいレストランやホテルで夕食を食べても日本の居酒屋と同じかそれより安いくらいだった。しかし、1週間もすると和食が恋しくなってくる。
当時の上司と仲違いし1996年に大阪支店に転勤した。大阪環状線で大阪駅から1駅乗った福島という街にあった。今では若者の町みたいになっているが当時は本社同様下町という感じだった。行きつけのお好み焼き屋から金曜日の夕方になるとそこのママから電話があり、「男3人おるか?」と言われて行くと同数の女性がいて合コンになった。でも5年間通って飲み食いしたお金が1人3000円以上になったことは1度たりともなかった。楽しい街だった。

北海道への移住を少しだけ考えた

一方で仕事のほうはパッとしなかった。入社して数年は最大手の国際電信電話(KDD)、新電電の日本国際通信(ITJ)の三社だけの競争だったが、そのうち規制の網をかいくぐって格安通信事業者が国際電話市場に参入してきた。途中で切れたりはするが通話料金が安い。攻める側だったはずが気がついたら防戦一方、だんだん顧客を奪われるようになった。憂さを夜の飲みで晴らすという日々が続く。
夏休みには北海道に自転車旅に出て「とほ宿」を巡ったわけだが、大阪で同じように北海道のファンの人たちと集まるようになった。インターネットでホームページを見たりメールでやりとり出来るようになりつつあり、「掲示板」なるものを使い始めた時には興奮した。直接会ったこともない人間同士ネット上で盛り上がるという前代未聞の時代。ダイヤルアップ回線で今と比べると信じがたいくらい遅かったが、新しい世界にのめり込んだ。
そうしてできた仲間たちが1人また1人と北海道に移住していった。そのたびに「とほ宿」での夏休みの談話室の夜のような日々が毎日続くのかと夢想して心底羨ましくなった。大阪で縮みゆく業界の中で悶々としていて良いのだろうか?しかし、自分には北海道に行って具体的に何をやりたいという考えは無かった。「とほ宿」の宿主たちから飲みの場で宿運営の苦労話を散々聞いていたし、もっとあちこちに旅行をしたかったので宿をやりたいという考えは当時は微塵も無かった。そして北海道での仕事を探してみると給与がべらぼうに安い。うだつが上がらなかったとはいえ20代後半で給与が年々上がっていたので、このポジションは捨てたくないと思ったのだ。不満を抱えながらも会社勤めを続けた。
会社は国際電話からインターネット事業に軸足を移しつつあり、それまではオモチャみたいな扱いを受けていたインターネットというものが企業の業務にも少しずつ浸透し、自分のようなダメ営業マンでもまあまあ契約をとってきたものだ。しかし東京本社の営業マンと比べると成果に乏しいと言われ、同期には給与で差をつけられていた。不満はさらに募り、東京に戻してくれと言い張り2001年にまた転勤した。

再び東京へ、南浦和に部屋を借りた

30歳までは借り上げの独身寮で過ごせたがその期限は過ぎ、自分で部屋を探すことになった。当時車を持っていたのだが5年前までいた西葛西でも駐車場代が月3万とバカらしい。いろいろ探すと埼玉方面はけっこう安いことがわかった。その中でも浦和市と与野市と大宮市が合併してできたばかりの「さいたま市」は県庁所在地だし、京浜東北線を使えば30分くらいはかかるが乗り換えなしでオフィスのある秋葉原まで行ける。始発電車の出ている南浦和に部屋を借りた。

部屋の目の前を武蔵野線が走っていた

社会人生活も9年目で家財道具が増えたので2DK、駅から10分以内、南向きで2階以上といろいろ難しい条件だったが、賃料78,000円の部屋を見つけた。東北や上越や信州に山登り・スキーに行くのにも便利。目の前を武蔵野線が走っていたが(だから安かった)、近くに広々とした貯水池の公園もあり、そして和室で畳を張り替えたというのが一番気に入った。南向きのベランダで布団を干し、なるべく扇風機を使って外気を取り入れて暮らす。天気の良い休日に畳の上で寝転がっていたら心の底から充たされた。冬はコタツで温まる。あちこちのとほ宿を巡っているうちに、太陽や風を取り入れた生活をしたくなっていた。この部屋に10年間住むことになる。

仙人のような宿主夫婦の「ゆきの小舎」

その年の夏休みは東北に行った、それまで5年連続で北海道だったし、東北の山には学生時代に蔵王に行ったくらいだった。八幡平、岩手山、鳥海山と巡る計画を立て、前の2つにはとほ宿「ゆきの小舎」を拠点にすることにした。

1992年版とほ本より

渋滞を避けるため土曜の夜に浦和を出たがそれでも十分車が多かった。東北道をほぼ1日かけて「ゆきの小舎」に着いた。ちょうど開所パーティーの日で多くの旅人で賑わっていた。

2001年の時点で26年目という老舗の旅宿

そして宿の人たちと一緒に八幡平・岩手山と登った。やはりこういう宿の旅人たちとは波長が合うと思った。

日本百名山・岩手山山頂

ちょうどお盆の時期だったのだが、三泊して帰る頃にはお客さんは数人にまで減っていた。ものすごい山の中にありアルバイトなどをするのも容易ではないだろう。冬の間は雪に閉ざされて訪れる人も稀だろう。それでも宿を続けていけるのはどうしてだろうと今でも思う。東京のサラリーマンで「年収〇〇万円」という感覚で生きている人間には想像もつかない。畑で作った野菜と米を食べて仙人のような暮らしをしているのだろうか。「とほ宿」の宿主たちがどうやって生計を立てているのかは今でも不思議に思う。

この「ゆきの小舎」、つい最近まで営業していたようだが、本当に残念なことに本年2月をもって閉館したそうだ。一度きりだった宿とはいえもう二度と行けないと思うと切ないものがある。2001年の時点で26年目、半世紀続けられたのだからかなり長く続けられたのだと思う。(続く)

いいなと思ったら応援しよう!