「とほ宿」への長い道 その8:信州の旅宿
長野県には100回以上行った
1989年7月、大学のワンダーフォーゲル部の夏合宿でJR大糸線の信濃常盤という駅に(今でもはっきりと覚えている)降り立ち、北アルプスを縦走して上高地まで歩いた。以来長野県には多い時には年に5~7回、通算で100回以上は行った。最近では昨年「とほネットワーク」の本州ブロック会議で野辺山高原の宿「こっつあんち」に泊まった。
長野県は日本を代表する山岳地帯である北・中央・南アルプス、昔ばなしで富士山と高さ比べをしたという八ヶ岳、美ヶ原や霧ヶ峰、戸隠などの頚城山塊、木曽御嶽山などを擁し、山登りをする人間には非常に馴染みが深い。
また、白馬や志賀高原などスキー場も多い。
そして地域別ブランド調査や移住希望先調査などで常に上位に来る。早い時期から軽井沢などリゾート地が開発されたこともあり、爽やかなイメージが定着したからではないかと思う。
「日本百名山」の深田久弥先生も「美ヶ原」の章で、「白樺という、それまで雑木扱いされていた木が、ロマンティックな風景として役立ち、農耕牛馬の放し飼いの荒涼地が、牧場という新しい言葉で呼ばれ・・・」と記している。今回は長野県;信州の旅宿について書いていきたい。
「一人旅大歓迎の宿 白馬風の子」
まずは、老舗のとほ宿「白馬風の子」。まさに信州の爽やかなイメージをそのまま体現した宿だと思う。建物はウッディで、庭はいつも花で溢れている。宿主の大畠さんとは昨年ブロック会議で再会したが、相変わらず癒し系というか爽やかな人だった。それでいて几帳面で、「るんるん」という白馬のガイドブックを手書きで出版していたこともある。
ニセコ同様白馬もインバウンド客が押しよせて色んなものの値段が上がっていて宿泊料も高騰しているようだが、ここは良心的な価格。
筆者が最初に訪問したのは長野オリンピックの年、1998年の冬だった。当時はまだスキーブームの余韻が残っていてほぼ満員だった。その後もGWや夏に訪れたが、いつ行っても安定していたというか、期待を裏切らない宿だった。当地にはペンションというの数多あるのだろうが、一人で行って、なおかつ宿主や他のお客さんと交流できる宿というのは今でも多くはないのではないだろうか。開業は1988年。当時はバブル絶頂期だったし、清里のようにペンションというものが隆盛の時代だった。当時あった宿で今も残っているのはそれほど多くないだろう。
九死に一生を得た宿主が開業した「旅人宿ぱすてる」
菅平高原といえばラグビーなどの合宿のメッカ。標高が高いので涼しく高地トレーニングにもなる。筆者が大学生の頃は「二度と来るもんか!」とバックプリントされたTシャツがこの界隈で売られていたものだ。
2002年この地に「ぱすてる」という宿が開業し、「とほ」に加わったので開業間もないころに筆者も行ってみた。年末だったがお客さんは自分1人で、こんなんでやってけるのだろうかと思った。宿主さんは宿をやる前はパティシエだったとのことで、夕食そのものよりも食後のスイーツに力を入れていた。「オレ脳腫瘍になったんだけど奇跡的に助かったんだ〜 これからは好きなことをやるよ!」と語っておられたのを今でも覚えている。その後数年は何度か泊まったのだが、それっきりになっていた。
自分も宿を開業後にネットで調べてみた。いきなり「閉業」の文字。調べてみたら、10年ほど前に宿主さんが亡くなられていたようだ。しかしその後も、毎年あちこちの宿で「ぱすてる会」を開催し宿主を偲んでいるらしい。
大丈夫か?と思っていた宿は宿主がいなくても集客できるほどになっていたのだ。自分も集客に悩んでいるが、あの閑散としていた「ぱすてる」のことを思えば、いつかは自分の宿も・・と励まされる。
宿主亡き後、宿を引き継いで営業していた人がいたようだ。しかしその人も先日亡くなられていた。。
あるじはいないが、この宿のホームページはまだ残っている。切ないものがある。若い頃は人生ダラダラいつまでも続くみたいに思っていたが、このごろは人の訃報聞くのが珍しくない。人生は有限。やろうと思ったことは今すぐやらないと、実現する機会は二度と来ないかもしれない。
究極の古民家宿、和田宿「みんなの宿だいすき」
2000年代前半は上信越道にすぐアクセスできる浦和に住み、レガシィGT-Bという無茶苦茶速いクルマに乗り、そして自分の人生の中ではいちばん金銭的に余裕のある時期だったので、山にスキーに旅に、信州には行きまくった。
なかでも回数的にはいちばん多かったのは、美ヶ原の近く、中山道和田宿にあった旅宿「みんなの宿 だいすき」だろう。
当時、「とほ」だけでなく、「旅情報誌FREE」という旅宿ガイドがあり、そちらに載っていたのだ。
明治初期に建てられたという養蚕農家を、台所以外はほぼそのまま活用した宿。だいたい「古民家宿」というのは長き年月を経た空間の趣は残しつつ、エアコンやウォッシュレット等の快適設備を入れ、家具は新たにスタイリッシュにするという所が大半なのだが、この宿は本当に一切手を入れていなかった。ガラス戸すらなく、冬でも日中は外と隔てるのは障子一枚。畳もかなり年期が入っていて、い草が硬くなっていたが交換せずにそのまま使っていた。まさに明治時代にタイムスリップした感があり、痺れるほどの非日常性があった。
宿主さんご夫妻はもともと北海道の小学校で教師をされていたそうで、当時の教え子だったというお客さんとも何人か会った。中には小学校当時殴りかかってきた子もいたという。宿主さんはその後大病を患い生死の境を彷徨ったそうだが、自然食を食べて健康を取り戻したそうで、娘さん3人を連れて和田宿に移住したとのこと。宿でも地の食材を使った豪勢な手作りの料理がずらりと並んだ。
食事の時間になると電灯を消してランプの灯りだけで宴会が始まる。
そしてそのまま夜更けまで宴会となり、興が乗ってギターを鳴らす人もいた。不便な部分ばかりだし、夏行くと虫に刺されまくったが、普段の東京での殺伐とした日々から逃れようとひと頃は旅のロマンの結晶のようなこの宿にしばしば入り浸った。
当時はかなり人気がありいつも宿はお客さんで一杯だった。行くとほぼ毎回顔見知りの人がいた。しかし、そのうち不定期営業となり自分も他のことに関心がいき足が遠のくようになった。家庭の事情で奥さんの実家の横浜に住んでいて、連休やお盆などだけ親しいお客さんだけ泊めていると風のたよりで聞いた。今はこの宿のサイトもSNS投稿も無く、どうなっているのかはわからない。
みんなで食事を作った、中綱湖畔「カナメノイエ」
後で書くことになるが、筆者は2012年に東京から福井にUターンする。あらゆる交通機関の中心である東京と違い容易に行けるところは限られるので、相変わらず長野県にはよく行っている。北アルプス北部、白馬岳の周辺によく行ったのだが、帰路はキャンプしたり旅宿に泊まったりした。
かつては無かったBooking.comなどの予約サイトやインバウンド旅行客の増加によりゲストハウスそのものは増えたが、お盆時期は値段がかなり高くなったり、旅人同士の交流があるのはごく一部なので、いわゆる旅宿は2000年代初頭と比べそれほど多くなったとは思わない。
ある年にたまたま立山黒部アルペンルートから信濃大町に下山し、付近にゲストハウスが無いか調べて見つけたのが、大町の近くで「塩の道」の途中の中綱湖畔にある「カナメノイエ」だった。リゾートとは縁遠い集落の中にある。
古民家ではあるが、前出の「だいすき」ほどは古くなく田舎のおばあちゃんの家という風情であった。定員10人の当宿(ねこばやし)より若干小さかったが、そもそも満員になったことがない。高邁なポリシーを掲げるわけでも、インテリアに凝っているわけでも、集客に血眼になっているわけでもなく、自然体にやっているという感じだった。宿主のカナメさんとそのダンナさんのワカメさんで運営されていた。
しかし、この宿が他の宿と決定的に違っていたのは、宿泊者全員で協力して食事を作ることだった。それも、普通のメシではなく、極力地ものの素材を使った、ある意味贅沢な料理だ。
作業を分担し、お互いが気遣いながら作っていくことで旅人同士の距離が縮まっていく。そして自分たちで作った食事というのは、心に染み入るものがあった。
自分も宿をやってみて思うことだが、これは非常に難しいことだ。
まず、ある程度の宿泊客がいなければいけない。
そして、食事希望でかつみんなで調理することに同意する客ばかりでないといけない。
さらに、ある程度の調理スキルのある客ばかりでなければいけない。
自分も何度か泊まったが、毎回適度な人数と、この宿の方針を受け入れる人ばかりであった。どれをとっても当宿には難しい。
夜はみんなで作った料理を肴に語り合い、朝はゆったりとした贅沢な時間を過ごす。今まで100を超える旅宿に泊まり、どの宿が最高だったかと言われても簡単には言えないが、ここの運営は旅宿の理想形の一つだと思う。
しかし、前出の「ぱすてる」「だいすき」同様、今は営業していない。
強烈な光というものは長くは続かないーこの宿に限ったことではない。
理想を追い求めれば経営効率とは相容れない、現実に妥協すれば魅力を失う。しかし、自らの色を出しながらも続いている宿は続いている。それは決して偶然ではなく、続けられるだけの理由があるのだろう。
今思えばだが・・自分の心の奥の奥の部分で旅宿というものに憧れがあり、いつかは自分の旅宿を持つんだという微かな思いを捨てきれず、この20年くらいの間、どうすれば理想と現実を妥協させながら宿を持続できるのかをずっと自らに問いかけていたような気がする。(続く)