「とほ宿」への長い道 その10:旅好きの仲間
仕事のほうは冴えない日々
サラリーマンとしての筆者のことを再び書く。前回はこちら。
新卒で国際電話会社に入り、大阪に転勤し、2001年に再び東京に戻ってきたわけだが、パッとしない日々が続いた。
もともとは伊藤忠商事とトヨタ自動車の合弁会社「国際デジタル通信」に入社したのだが、インターネットが普及し、国際電話市場そのものが大幅に縮小してしまった。
競合であるKDD(国際電信電話)はDDI(第二電電)と合併し、ITJ(日本国際通信)は日本テレコムと合併した。そして筆者が勤めていた会社はNTTへの売却という方向で話が進んでいたのだが、当時筆頭株主の一つだったケーブル・アンド・ワイヤレス社が敵対的TOBで殆どの株を取得、気がついたら外資系のサラリーマンになっていた。英語ができる人間が重用される。
ケーブル・アンド・ワイヤレス社は買収するとき、「リストラはしない、コミットする」と断言していたのだが、3年経たぬうちに人員整理が始まり、二回目で筆者も対象となった。買収するときには「日本人に本当の経営を教えてやる」的なことを言っていたのだが・・洋の東西を問わず大言壮語する手合いというのはだいたいアテにならないものだ。
部長と面談する。当時筆者は33歳だった。「自分の人生だ、自分で決めろ」という。一週間考えた。入社した時にあった高揚感は既に消え失せ、30数人いた同期もこの時点で半数以上が転職していた。このままサラリーマンを続けていていいものだろうか?あらためて自分は何をやりたいのかを考えた。そして、20代の頃旅宿を泊まり歩いた日々のことを考えた。このままジリ貧の人生を歩んで良いのか?むかし泊まり歩いた宿主みたいな人生もあるのでは?割増退職金も出るし今がチャンスなのでは?一週間では簡単には結論は出ない。とにかく会社を辞めて旅に出て考えよう、そしてどこかで宿をやろう。そう思い部長に早期退職に応じる旨返事をした。
ところが部長は、「ウチの何が不満なんだ!」と逆ギレした。自分で決めろというあのセリフは何だったんだろうか。「僕は本当にやりたいことを見つけたいんです!」と応じたが、「何が本当の自分だ!」と更に激高される。サラリーマンとは理不尽なものだ。
結局後輩たちから慰留され思いとどまってしまった。会社に対する愛着のようなものがまだ残っていたのかもしれない。この時会社を辞め、どこかで宿を始めていたら20年近く開業が早まったわけで、今ごろはもっとラクに宿を経営できていたのかもしれないが・・・他の会社に転職してまだサラリーマンをやっていたかもしれない。人生「たられば」を言っていてはキリがない。
しかしながら、他の宿主たちの生き方を見ていると、自分には決断力が無かったというか人生の芯がこの時点では無かったのだとしみじみ思う。そんな状態でビジネスを興していてもうまくいくのだろうかとも思う。
そして転職
黒船の如く日本の通信業界に乗り込んできたケーブル・アンド・ワイヤレス社だったが、2004年の秋には日本法人の株をソフトバンクグループに売却する。またしても会社名が変わり、少し前にソフトバンクグループの傘下に入っていた日本テレコムの社員になった。
このあたりの経緯を話し出すと長々しくなるので割愛するが、翌年10月に転職した。営業支援システムの会社だった。当時営業活動の非効率さにうんざりしていて、これを改善することに意欲を燃やしていたのだ。
しかし、入社前に聞いていたことと会社の実態があまりにもかけ離れていたし、仕事内容も全然違っていた。今はコンプライアンスが重視されこういう会社はネット上で晒されるようになったが、当時はこういう話というのはあちこちにあった。日本は衰退したという話をあちこちで聞くが、こういうことの積み重ねの結果なのではないかと思う。
今思えばなのだが、、、この会社、社員100人程度なのに儲かりそうだという理由で色んな商材に手を出していた。お互いに相乗効果があればよかったのだがどれも関係が無い。そして、どの事業もうまくはいかなかった。儲かりそうなビジネスには誰もが手を出す。しかし競争を勝ち抜くためには強みが無ければいけない。儲かるという理由だけで商売をしてはいけないのだ。自分はこれをやりたいという強い思いがないと競争に敗れるだけだ。今でもこの考えは変わっていない。儲かりそうだという理由で経営方針を決めるのは破滅への一歩だ。もちろん適正利潤を得ることは大事なのだが、それはまた別の話。レッド・オーシャンに足を踏み入れてはいけないのだ。だから「ねこばやし三原則」の1つとして「他の宿との比較をしない」と決めている。(こちらのページの最後のほうを参照)
そして業績不振を理由に賞与は7期連続で不支給となり、年収は30代前半の最盛期と比べて半分くらいになった。以前のようにちょくちょく旅宿に行ったり登山やスキーに行くわけにはいかない。保有していたレガシィGT-Bも手放した。このころには電車で旅することが多くなっていたのでほぼ未練は無かったのだが・・・
代々木公園でビールを飲む会
このころSNSが急速に普及し、特にmixiは殆どの人が使っていた。今まではメールでやりとりしていたのが、mixiに日記を書いてそれにコメントがつくという形にコミュニケーションが変質していった。そして、友だちだけでなく友だちの友だちとも繋がり、同じ志向の仲間がどんどん増えていった。
旅宿に行かなくても、旅好きの仲間の家に集まって鍋パーティーをして楽しい時間を過ごした。また「代々木公園でビールを飲む会」なる催しに誘われてちょくちょく行った。mixi上で開催の告知があり、ひとり料理一品と自分が飲む酒を持ち込む。昼くらいにボチボチと集まって夕暮れまでダラダラと飲む。誰かが来るたびに「よよビー!」と叫んで乾杯した。参加者が知り合いを連れてきて話が弾む。旅行に行っていた頃と比べるとお金はかからなかったが、以前と比べても侘しい日々を過ごしていたという感じはしなかった。
30代前半までは毎晩のように飲み歩いていたのだが、この時期はお金が無かったので自炊することが多くなっていた。こうやって自分の作った料理を持ち寄り、食べてもらうことでもっと美味しく作ろうという意欲が湧く。
宿では今年から食事を提供していて、自分で作るのだが、この頃の経験が多いに役に立っている。料理スキルの習得はもともとは収入減に端を発しているのだが、人生万事塞翁が馬だ。
「旅人500人説」
こうやって東京で旅好きの人間が集ってほぼ毎週旅宿の談話室のようなパーティーに興じた。みんなお気に入りの宿があり、自分が行ったことのない宿の情報も入ってきていた。
以前に比べ旅人の数が減っているという。宿で知り合い交際を重ねゴールインしたカップルも数多くいたのだが、家庭を持ち子どもができるとなかなか旅行には行けなくなる。旅宿を使う人はライダーが多いのだが、1980年代のバイクブームの時に青春時代を過ごした世代以降はバイクに乗らなくなっていた。今よりも日本の物価が高かったので、海外に旅する人は増えていた。国内でも沖縄に安い宿が増えていて、北海道や信州には若い世代の旅人が少なくなっているとも聞いた。そもそもこの頃から少子化が進み若い世代の人口自体が減っている。
以前はユースホステルの公式本や、「Outrider」「ジパングツーリング」などのバイク雑誌くらいしか情報源が無かったのが、インターネットが普及し宿泊予約サイトに登録することでゲストハウスの集客手段の幅が広がった。二段ベッドとシャワーだけを備えたゲストハウスは増えていたのだが、それらの多くは旅人同士の交流とは無縁だった。
仲間の家で吞みながら、旅宿を泊まり歩く常連、いわゆる「旅人」は全国に500人くらいしかいないのではないかという説が誰からともなく語られた。いつかは旅宿をやりたい、という人もいたが、旅宿を立ち上げて継続するのは無理と仲間たちに諭されて諦めていった。(昨年末「とほネットワーク」の総会でキャンペーンの抽選で集まったハガキの数を見て、500人というのはいくら何でも少なすぎる数字だというのを知ったが)旅好きの一人が高円寺でバーを立ち上げ、毎日のように通う旅仲間もいたが、何年も経たずに店を閉めた。自分などがやって続けていける世界ではないと思った。
サラリーマンとしては冴えない日々を送り、一方で旅宿とそれに関わる人たちに惹かれる思いはあったのだが、この時期、旅宿を開業するという思いはどんどん離れていく。(続く)