能力で人を分けなくなる日~第1章~
「人間」という文字は「人と人とのあいだ」つまり人が互いに関係しあっている場所をさす。つまり、一人の「人間」が存在しているなら、相手という存在が、自然にそこにあるということだ。
これは僕にも経験があって、僕は全日制高校から通信制高校に移ってから、人とかかわる機会がなくなった。
もちろん自分の病気(躁鬱病)が理由としてもとても大きいのだろうが、周りに関わる人がいなくなって、まったく動けなくなってしまった。(実際には家族とはつながっていて、大学進学して一人で暮らしていると、そのときもつながっていたんだなと感じる)
そこで、通信制高校に移る前までは自分は、自分一人である程度生きていられるんだという感覚があったのが、たとえそれが挨拶を交わすくらいの関係であっても、その関係が尊く、まさにその人に支えられていきているんだという感覚が生まれた。それから自分という人間は、ほかの人がいることで生きていけるんだと思うようになった。それからはできるだけ多くの人に、できるだけ深く頼り、頼られるように生きているつもりだ。それは大切な話をするだけでなく、馬鹿話をしたり、遊んだりそういうことも含めてだ。もちろん学問とか、自分の悩みに関わるものとか、そういう話は大事だけれど、どうでもいい話をしているとき、そういう関係性にあるときに僕は生きている意味を見出すことができる。
話すことこそが自分の人生を豊かにしてくれている感覚があるのであり、話すことによって自分が助けられる、まさにそれが人に頼ることなんだと思う。だから、人を助けるということは、その人と話すためにやっているし、普通に誰かに頼るということも、もちろん自分ができない部分を補う目的もあるが、話すこと自体のためにやっている部分がある。
頼ることも頼られることもその人とコミュニケーションをするためにやっているということだ。頼る、頼られることを通して僕が助けられている。だから人に頼られる、助けるということは自分のためにやっているといってもいい。
この本の著者が言っている「頼ることと頼られることはひとつのこと」ということは頼ることも頼られることもその人とコミュニケーションをとるためにあるという意味だと僕の中で考えた。
じゃあ星子さん(重度障害をもっている方で言葉を発すること、見ることができない)のように話せない人は僕にとってどのような意義があるのか(上から目線であまりいい表現ではないが)という話になる。正直僕はそのような人に関わったことが少ないので、あまり深いことは言えない。ただそこに一つこの本で得たことがある。
第一章のコラムで「相手の話を聞くとき、相手の話を熱心に聞かなくても、ぼーっとしているだけでいい」という趣旨の話がある。たしかに僕はこのNoteの文章を誰に向けて書いてるわけでもないし、いつも自分の雑な言葉で、しばしばほかの人にとっては興味のない内容を書いているので、理解しようとしてもらっているわけでもない。でも誰かが、見てくれる可能性があること、ただそこにいるだけで書こうという気持ちになる。そうやって、実際相手が聞いていなくても、少しだけでも聞いてくれている可能性があれば、話す気にもなるなと思った。星子さんが、家族が話したことを理解しているかどうかは分からないが、相手がいるだけでこちらも生きている心地がするのはそういうわけだと思う。
さらにいえば、第二章で脳死状態だったり、植物状態の完全に話すことのできない人は自分にとってどういう意味付けをすればいいかという話になる。それはまた第二章で考えていきたいと思う。
またこの本の中でこういうことが述べられている。「星子に頼り、あるいは星子がいることでほかの色んな人に頼り、頼られながら昨日と変わりがあろうはずもない今日という日が過ぎている」
まず、上で述べたように相手(星子さん)がいることで自分という人間は生きていられる。そして、星子さんを”助ける”過程で、ほかの障害をもつひととか、その家族とかと出会い、その人たちを頼り、頼られるようになっていく。たしかに、障害というものは、この社会で生きる上では、ないほうがいいものかもしれないし、他人に疎まれたりするものかもしれない。一方で、障害を持っている人の強みがある。それは星子さんとその家族がやっているように、ほかの障害や苦しみを持っている人に頼り、頼られるという関係を築くということだ。「できない」ことをもっていることで、「できる」ことが増えるわけである。障害単体ではそれは生きるのが大変になるだけかもしれないが、他に同じように苦しんでいる人がいる以上、そこに障害をもっていても生きる意義が生まれるのではないかと思う。