能力で人を分けなくなる日~第2章~

植物状態や脳死にある人の価値というのはどこにあるのか。
その問いは「人間」の価値とはなんなのかということだと思う。なぜかそうなのかというと、それはいずれ我々が、高齢者になって、人に支えられることが多くなるときに、生産性がない自分に対して直面する問題だからである。僕に関していえば、障害者である自分、人より能力で劣る自分にはどんな価値があるのかという問題だからである。もっと多くの人に当てはめるのであれば、こういう言い方もできる。みんな学校や社会の中で競争にさらされてきているが、ある場所で「勝者」になっても常に勝ち続けることはできないだろう。大体の人が能力主義の中で「負ける」ということを経験するのである。僕たち私たちは、そこで負けた人にはいったいどんな価値があるのかという問題に直面する。そこで生産する能力のない脳死や植物状態の人の価値とはなにかということが自分たちの問題として繋がってくる。

 植物状態、脳死の定義というのはとても難しいだろう。しかし、それは一旦ここでは重要でないだろうから置いておく。「脳が働かなくなった人たち」の価値というのはどこにあるのだろうか。そういう問題は答えが出るものではないが、この本の中でも述べられているように人の生きる、死ぬということは大きな問題だから答えのないままではいけない、ということもよくわかる。僕は運転免許証の裏に、脳死状態になったら自分を「殺して」、臓器移植をしてほしいということを書いてある。一方でこれもこの本で書いてあるように「自分がもし脳死になったら」という語り口では、ほかの人にあてはめることができなくなるというとても難しい問題だ。また、家族の許可が下りたら、脳死を「死」として扱ってよいという決め方も、その人と家族という一つの関係性の中で決められてしまう乱暴な決め方でもあると思う。その人には家族の間以上に大切な関係性があるかもしれない。

 第一章の感想で、人と話すことが人間の価値という内容を書いた。今振り返ってみるとこれもまた暴力的なことだと感じる。話すことができない、相手に応答することができない、意識もない人に価値がないといっているようなものだ。そこで私は本当に「話す」ことによって周りに生かされているのかということを考えていきたい。私は話すことができない人と関わったことがないので多くのことは言えないが、おそらく「話すこと」だけに意義を感じているのではないということに気付いた。話すことができなくても、いっしょにいるだけでやる気がでるとか、生きているという心地がするとかそういうことだ。論理的ではない、曖昧な意見かもしれないがこういう感覚は大切にしていきたい。多くの人が、家族、恋人、友達には、たとえ意識がなくなってしゃべれなくなっても生きていてほしいと思うだろう。自分の周りに事故が起きて、意識がなくなってしまっても自分はその人を愛し続けられるだろうかと不安もあるが、、、
それでも愛するのは僕だけじゃなくていいような気もする。みんな少しずつその人を必要として、その人が生きていればいいのではないか。

 ひとまず、先述したとおり答えは出さなければならないと感じるので、僕の中で一旦、強引にでも答えを出しておきたい。僕はやっぱり脳死や植物状態は死ではないと主張したい。それはやっぱり個人的な語り口になってしまうが、能力がないことを理由に人を殺すというのは、障害者として生産性が低い自分を認めないことになってしまうからである。さらに、学校のテストの点が低い人、お金を稼げない人は、「必要ない」「殺してしまえ」という考え方に容易に転ずるからである。
テストの点が低い人もお金を稼げない人も、お金を稼げない人は僕にとってそうではない人となにも変わらない。同じ人間であって、困っているなら頼ってもらいたいし、その関係性の中で頼りたい。脳死や植物状態の人たちも同じである。周りの人たちは養ったりすることが必要だが、その人に助けられている部分も多くあるのではないか。
このように意見は述べたけども、やはり「自分はこう思う」という語り口からは抜け出せないみたいだ。

また、それは理想論でもある。患者の周りにお金と余力があって、社会にそれを認められなければ、そんなことはできない。脳死や植物状態の人を支える人全員にそれを強いるというのもできないだろう。一方でそういう人間の価値を守るということは、全員が豊かに生きられる社会を創るために最も必要なものだと感じる。

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