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「自分のこと、好き?」対話カフェそもそも レポート#40

【開催日時】
2024年7月27日(土)
12:00~14:00

第40回のテーマは「自分のこと、好き?」です。

自分のことは好きですか?
それとも嫌い?
何も思わない?

自分のどんなところが好き?
どんなところが嫌い?

自分自身への思い。
10代・20代で対話したレポートです。

はじめの問い、テーマに思うこと

まずはテーマについて抱いている問いや、思うことを挙げていきます。

「自分のことを好きだと思うようにしています。自分を好きだなと思うときと、好きじゃないなと思うがある。自分の中身はめっちゃ面白い人間だと思っていてすごい好き。外見は好きじゃないな、って」

「人から評価されて、「本当は違うのに」って思ったとき……例えば「やさしいね」って言われても、自分がやさしく見せていたり、本音を隠していたり。よく見せる自分を嫌ってしまう」
「本音言えてない、心開けてないな、って自己嫌悪してしまう」

「私は自分のこと大好きだと思っているけど、裏を返すと大嫌い。周りと比べて「なんで自分は」とか考えてきたけど、それはずっと自分に矛先が向かっている状態。だから、自分のこと大嫌いだけど、自分のこと大好きでもあるのかなと思う」
「疑問なのは、自分より好きな人がいるのかな?ということ。大切な人たちより自分を下げて生きてるのかな? 自分を優先しているのでは?」
「誰と話しても、相手のことよりも「自分はこの人にどう思われるか?」を意識してしまう」
「皆さんは、周りの目を気にしていますか?」

「私は、自分のことをうっすらどこか好きで、うっすらどこか嫌いみたいな状態」
「何をするにしても自分が「もっと自分は○○だったら」と思う。そこが足りたとしても、また「もっと○○だったら」と絶対出てきてキリがない。完全100%大好きな自分が完成することはない、という気がしています」
「何か好きなことのために行動するとき「好きだからやりたい」と思うし「私のキャラじゃないのでは? 変に思われるかも?」とも思う。内から外に出ていくまでに何か1枚余計なものある感じがして、気持ち悪いというか……モヤモヤします」
「自分の好きなように自分を好きになることは、意外と難しいのかもしれない」

「自分のことは好きになりたいですか?」

「なりたいわけではなく……なれるし、なれないような感覚。自分を否定するよりは好きなほうがいいけど、それってすごく難しいな、ってところで止まってます」

「100%好きになるのは難しそうですか?」

「はい、そんな気がしています」

「好き嫌いの割合ってどんな感じですか? 5:5?」

「嫌いの方が多くて、6:4とか7:3くらい。時と場合によっては濃淡があります。ネットをやってるときには自分の外見を気にしなくていいとか」

「自分のことを好きと思えるときはどんなときですか?」

「人から褒められているときとか……自分は間違ってない、大丈夫なんだと思える」

「自分のこと好き?というテーマで、他人からの視線や、他人からの評価がこんなにも話題に上がることが興味深いです。自分から見た自分の話だけではなさそうですね」

「自分のことを好きかどうかなのに、なぜ他者の評価を気にするのか? 気になります」

「いろんな自分がいる、という話を聞いて……個人はindividualという意味で、それ以上は分けられない。でも皆さんは自分の中にいろんな自分がいると思いますか?」

「自己肯定とか、「私かわいいよね」とか言いづらい風潮があると感じている。自己評価なので、個々のことでいいと思う。どうして「自分のこと好き」と言いづらいのか」

「私は自分のことが好きで、結構衝動的に動いてしまう。自分のこと好きという気持ちをどこまで持っていていいのか?」
「自分のことが好きという気持ちがあふれて、初対面でも気にせず声をかけたりとか、行動にも出てしまう」
「自分のこと好きという前提で、どこまで行動していいのか?」

「質問です。自分のこと好きと他者からの評価は関係ないように思っていた。自分の中で閉じる話題だと思っていた。人からどう思われても、自分が自分のことをどう思うかの話。どういうときに他者の評価が関わるのか、具体的なエピソードを聞かせてもらえると」

「自分がなりたい自分があって、それになるために俯瞰して見ている自分がいる。その俯瞰の視点に、他者の視点が入っているのかも」

「なるほど、その他者も実は自分。理想的な自分と、今の自分と、それを見ている自分の3人いる感じですか?」

「私は、そのイメージが近いです」

「私も似たようなことを考えていて……評価する自分とされてる自分がいて、その時点で隔たりがある。例えば、自分のある側面を記憶から取り出して、今の自分が評価しているイメージ。ただ、その「今の自分」は評価できないから、それの一種なのかな」

「すごくわかります」

「今のお話を聞いていて、そういう他者もあるんだ、と思いました。私が思う他者は、外見で差別してきたり、人によって対応変えたりする存在」

「友達の嫌なところって付き合いが長くなるとだんだん気づいていく。自己評価も、めっちゃ知りすぎてる他人の評価というか。他の人よりも自分は自分のことを見てるから、嫌な面に気づいちゃう」
「だから、周りからそんなことないよと言われても、いや私はこういうところがダメなんだ、ってところがどんどん出てきちゃう」

「自分のことを24時間見ていて、本心まで見透かしているのは自分だけですものね」

「自分は自分の嫌なところを知っている。人に自分のいいところしか見せていないと、罪悪感が湧いて、そんな自分を嫌いになる」
「いい面ばかり見せてしまうと、本当の自分はこうじゃない、申し訳ない、という気持ちになる」

「今のお話を聞いて……私は、いいところを見せられなかった自分に後悔することがあります。自分の長所ではなくて、場に適した親切なことをするべきだという思いがあって、その行動が取れなかったら後悔をする。むしろ、悪い面を見せずに済んでよかったと思うこともある」
「さっきのお話と逆なような……でも一周回って近いような感じもしたのが新鮮でした」
「あと、自分の醜いところを相手に見せないように気をつけていても、「私の知らない私の悪いところ」を相手は見つけてしまうだろうなと思っておくと、逆に楽になる」
「どんなにいいところを見せようとしても、相手がいいと思わなければいいところではない。それが、嫌いなところにも当てはまる。自分の「こう見せたい」がそのまま伝わるとは限らない」
「そう思うと、どうしたらいいんだ?とも思うし、気が楽にもなる」

「自分のことを一番わかっているのは自分、それは間違いないと思います。でも、自分でもわかってない自分は結構大きいんじゃないのかな?とも思う。自分でも気づいてない自分の側面を含めて、自分の評価ってできるのかな? どうしたらできるんだろう、と思いました」
「自分の知らない自分をどうやって知ることができる?」

これらの問い、テーマについて思うことが挙がりました。

周りの目は気になる?

どれくらい周りの目は気になりますか?

「私は基本、気になります。気にしていないときもあります」

「気にしていないときはどんなときですか?」

「家に一人でいるときとか。友達と遊んでいても自分が飽きてしまったら気にせず帰ります」
「安心する場にいたら周りの目は気にしないかな」

「私は特に気にしてないと思います。周りの人にどう思われているかは周りの人しか知りようがないことなので、想像をもとに行動したところで終わりがないし、不安は取り除けない」
「だから、基本気にしないようにしている」

「質問です。周りの目を気にしないということは、TPOとかも気にしないということですか?」

「自分に実害がなければ気にしないです」

「自分にメリット、デメリットがあれば周りの目を気にしますか?」

「周りの目を気にしているわけではなくて、明らかに自分に不利益があることはやらない」

「じゃあ、周りを気づかっているわけではない?」

「そういうことになるかも……ただ周りを気づかったほうが一般的にそのあと得をすることが多いので、気づかうことは大切。周りの目が気になるからではないです」
「周りが自分をどう見るのかを仮定して、それを良くするために行動する、というのは私はしない」

「ありがとうございます」

「外見については、自分の勝手でいいじゃんと思えるようになってきている。普段はもっと違う服を着ているんですが、好きな服を着るのは私がどんな格好をしても誰にも害はないから」
「内面だと、私の発した言葉や考えが相手を傷つけてしまう、誤解させてしまうのか怖くて……発言が気になってしまう」
「100%、自分が思う通りには伝わらないと思ってしまっています」

「今日、いちばん好きな服で来なかったのはなぜですか?」

「暑すぎて着れないなって。生きることを優先しました」

「なるほど、納得です」

「私は、周りに気にしなくていいじゃん、という段階には行けてなくて。そこの踏ん切りがつかず、行ったり来たりしているような。気にしなくなったきっかけとかはあったりしましたか?」

「私の場合は元々そうでした。周りの目を気にすることが悪いこととは思ってないし、周りを気にすることで良い行動が取れるのであれば、それはいいことだと思う」
「ただそれで、自分を自由に解放していない感覚があって、もしそれが嫌なのであれば、やめればいいんじゃないかな、と」

「ありがとうございます」

「周りの目を気にするのがいいときもあれば悪いときもあると思うんですが……私は「その場に合わせた良いことをすべき」というのがある。人からの評価も含めた先に、良い自分があると思う」
「自分がやりたいことをやる、では閉じてしまう。多少なりとも人から、白い目で見られたり、いいねと言われたり、それを含めた先に……あんまり好きな言葉じゃないですが自己実現があるのかなと思う」
「周りの目は気にせざるを得ないような気がします」

「周りの目は切り離せない?」

「切り離してしまうと、たぶん自分は満足できない」

「周りの目を気にすることは悪いことではないと思う。ファッションを気にして、逆にダサい服で歩いてみるとか楽しいこともできる」
「周りを気にするから気づかえることもあるし、周りの目を気にすることを悪いとは思わないでほしいな……と思います」

「ありがとうございます」

自分の中に、いろんな自分はいる?

複数の自分がいると感じる? どんな自分?

「私は一対一で会話するとき、相手に合わせる。テンション高い人にはテンション高くしたり。静かで話題を振った方がいいんだろうな、って人には話題を振ったり。相手にとって都合の良い自分で対応してしまうので、自分って何個いるんだろう?みたいな感じになります」

「質問です。そういう自分は、好きですか?」

「人に合わせたり理解しようとするのは、良いことでありつつ、自分の芯がないと思ってしまうこともあって。そういうのがちょっと嫌だなって思う部分もあります」

「私がこの問いを出したんですが、「分人主義」という、人は人によっていろんな自分がいるという考え方があるんですね。欧米ではindividual、個人は個人で一人しかいないという考え方だから、どの人にも自分で接する。分人主義は、相手によって自分の態度が変わるのは普通だとする考え」
「今の話はそれに似ていて、他者に影響されて自分が作られていると私は思うので、芯がないということではないんじゃないかな、と思いました」

「私は、ある時点での自分は一人しかいないという考え方。一方、昨日の自分と今日の自分はたぶん違う人。共通しているのは同じ記憶を持っていることくらいで、昨日と今日で違う考えを持っていてもおかしくない。いろいろな自分がいるか?という問いに対しては答えにくいんですが、同時に二人いることはないです」「ある程度スパンを置けば何人かいてもおかしくはないし、「人」で区切れるとも限らない。常に変化しているイメージです」

「常に変化している、一人の人間、ということですよね?」

「そうです。もしかしたら全部変化するかもしれない。そういう意味で、昔と今が同一人物というのはなかなか難しい」

「さきほどの分人主義と繋がりがあるんですが、「見られているときしか自分はいない」という考え方があるような気がしていて、じゃあ家にいるときの自分って何なの?と思いました」

「量子力学的な?」

「そんなイメージですね、観測されて初めて存在が確定する。じゃあ見られていないときは重ね合わせ状態なのか?」

「分人主義を学んだときに私も同じ問いが出て、そのときに私が考えたのは、いろんな分人が集まった自分がいるんじゃないかな、って思いました」
「他者に影響を受けて作られた自分が混ざり合った、グラデーションの自分が存在していると私は思います」

「他の人と接したときに作られていく自分がたくさんあって、それが合体してニュートラルな状態になるような?」

「そうです、そういうことです」

「元からあった自分から切り分けられて分人になっていくのではなくて、逆なんですね」

「その通りです」

「なるほど」

なぜ「自分のこと好き」と言いづらいのか?

心理的にどんな障害があるのか?

「自己PRを書くときとかに、みんな「自分の長所なんかないよ」とか「私にいいところなんてない」とか当たり前のように言ってて……それが一般論になっている空気がある」
「でも私は自分のいいところを出すのは抵抗がない。面接とかで長所を話したりとか」
「自分のいいところを話すのはそんなにダメなことなのかな?と思う」

「私は、子どものときは自分を好きと言いづらかった。今はSNSでかわいい女の子たちが「自分かわいい」って動画上げたりつぶやいたりしていて、自分好きなほうがかっこいいっていう波が来ているんじゃないかな、って思います」

「私もすごくそう思います。そっちのほうが逆にかっこいいっていうか……その空気は昔よりはあるのかな、って」

「その価値観は自分の中にもある感じですか?」

「でもそれも一周回ってきて……「自分好きな方がかっこいい」が逆に言いづらいのを今は感じてます」

「メジャーになりすぎるとダサくなるみたいな?」

「自分が勝手に思ってるだけかもしれないですけど……わからないです」

「コミュニティが違ったら全然違ったりしますもんね」

「私もSNSよく見るんですが、自分を高く評価できててカッコいいインフルエンサーさんは結構いる。その流行りの始まり方が逆張りだなと思っていて。最近「逆に王道」みたいな表現を見て、王道は逆じゃないよ、と思ったりとか」
「他人と違うことをカッコいいとしていて、天秤の軽い方に乗っかるのが良いみたいな流れです」

「カウンターとして出てきた文化が流行りすぎてメジャーになってしまったとき、それはもうカウンターじゃなくてメジャーじゃない?みたいなのもありますね」

「前に「自己嫌悪してしまう自分も愛しましょう」みたいなのを見たとき、自分を愛せてるなら自己嫌悪じゃなくない?ってずっとぐるぐるしちゃって……。自己嫌悪してもいいよね、って思ってるなら自分を肯定してることになって……わかんなくなってきます」

「好きって言いづらいかは、環境によると思っていて。日本人か日本人じゃないかとか。日本人の謙虚さが海外で評価されることもあるし、ダサいと言われることもある。同じことでも環境によって、肯定されたり否定されたりするなと思います」

「自分好き」前提でどこまで行動していいのか?

どこまで踏み込んでいい?

「自分のことが好きだから、相手も好きになってくれると思って、ついつい距離を詰めすぎてしまう、というお話がありました。結構困ってることですか?」

「はい、困ってます」

「私は、どこまでも行動していいんじゃないかなと思いました。自分のことを好きが前提で行動できるのは、私から見るとすごいことに思えて。遠慮するのはもったいないなと思いました」
「自分に不利益があるなら時と場合に合わせてとは思いますが、そうでないならどんどんいっちゃっていいと思います」

「自分は、すごいな、と思って聞いてました」

「私は話しかけられない人で……私が話しかけられない理由は、自分に自信がないからだ、って」
「話しかけたことで結果的な相手が嫌な思いをしても、その人がそういう人だっただけで、話しかけた行動自体はすごいことだと思います」
「そうやって心開けるのは羨ましいというか……そういう人になりたいなって思います」

「絶賛ですけども、どうでしょうか」

「じゃあ、ほどほどに……」

なぜ他者評価が気になるのか?

自分のことを考えるとき、どうして他人の視点が気になるのか?

「自分を評価する視点に、他人の価値観は評価を含めてしまうという話がありました。なぜ含めてしまうんでしょう?」

「自分から見てる自分も好きになりたいし、相手が見てる自分も好きになりたい」
「他者に波長を合わせることも、揺るがない自分を持ってることも、どっちも持っていたい。それには他者の評価が切り離せない」

「全方位から好かれたい、くらいですか?」

「そうなのかもしれないです」

「自分が他人に興味があるからなのかな?と思います。きれいな子を見てかわいいなと思ったり、やさしい人にやさしいなと思ったり、いいことも悪いことも無意識に他人を評価している。ということは「私はどう見られてるんだろう?」ってなる」
「自分が周りの人を見ているから、周りからどう見られるか気になるのかな、って思いました」

「私は、自分で自分を肯定するのが難しいからだと思いました。とくに根拠なく良いと思うのは難しいので、他の人の視線を取り込んで補おうとしてるのでは、という想像です」

「さきほどの他者に興味があるから他者評価が気になるという話は、確かに説得力があると感じていて。私はあまり他の人に興味がないんです。だから他者評価が気にならないんだな、と。妙に納得しました」
「少なくとも私は、他人を見てかわいいなとか迷惑だなとか思うことがないので、自分が周りからそう思われているという発想がないんです」

「自分は周りから結構見られてるな?って、どこまで思うか、ですね」

「それは相手によって変わってくると思っていて。自分は、この人には良く思われたいけど、この人にはどうでもいいやって思っていまうところがあるな、と」
「どうでもいい人には何を思われてもいいのかな?って」

「それは私も、正直言ってすごくあります。この人と仲良くしたいと思ったら、良いと思われたいからそういう自分を出そうとする。逆に、嫌いな人に対して良い自分を見せない。嫌いな人には嫌われてもいいと思ってる。無意識に使い分けてると思います」

「嫌われてもいいや、って自覚はないですけど、たぶんそのジャッジはしちゃっている」

「私は嫌われてもいいと思う人に、よく好かれます。だから、空回ってるんだと思います。それに気づいてから、ある日全員「鬼」にしようと思って。みんな鬼と思って接したら、結構うまくいきました」

「他者を全員、均一に設定したってことですね」

「そうです。好きな人にこそ好きになってもらいたいとは思うんですけど、それだとうまくいかないことが多いので……何も考えずにフリーなほうがうまくいく」

「相手によって自分を使い分けてる方に質問なのですが、それは上手くいっている実感はありますか?」

「うまくいく場合と、いかない場合があります。それこそ好きな人に対して、めっちゃ好きだ、って言って成功したこともあるし。逆に、どうでもいい人に好かれるのもめちゃめちゃあります」

「私は小さいとき、全人類にやさしくしなきゃと思ってました。いじめてくる人にも悪口は言っちゃいけない、とか。善人みたいな感じで生きてたんですけど、それをやめて、好きな人は好き、嫌いな人は嫌いって使い分けしたほうが人間関係が……うまくいってるのかわからないですけど、やりやすくはなりました」

自分の知らない自分をどうやって知るのか?

どうすれば、気づけるのか?

ジョハリの窓で言うところの「盲目の窓」。これに気づくためにはどうしたいいのでしょうか」

「私は人見知りで、絶対接客業とかできないと思ってたんですけど、高校入ってからすごく忙しいレジ打ちのバイトを始めて、そのときに「意外と私、人と話すの好きなんだな」って気づいたり」
「すっごい暗い性格だと思ってたけど、お笑いを好きになってお笑いを見るようになって、「こういうわちゃわちゃしたの好きなんだな」とか」
「行動に移したことで、自然と出てくる自分に、こうなんだ、って気づいた」
「何かやってみる。新しいこと、向いてないと思うことをやってみたら、気づくのかなって」
「うまくいかなかったら、やっぱり苦手なんだ、と理由がつく」

「私も一度、居酒屋のバイトをしたんですけど、すごいマルチタスクで、何もできなくて。自分はマルチタスクができないんだなって思ったので……。やっぱり、他者と関わることで自分の知らないところが知れるのかなって思います」

このあたりで時間いっぱいとなりました。

第40回の板書

ファシリテーターの思うこと

自分のことを好きと思うか、の判断材料として挙がった、他者からの視点。

好きに値する自分かどうか?という問いに置き換えたとき、その価値判断は他者からの評価や、社会的に評価されているかなどの視点を求めてしまうのかもしれません。

どれも難しい問いでしたが、全員で協力しあって、じっくりと掘り下げられた対話だったと感じています。

参加してくださった皆様、ありがとうございました。

次回の開催案内

次回は2024年8月3日(土)開催。
テーマは「親のこと、好き?」です。
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