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「死にたいときとは?」対話カフェそもそも レポート#42

【開催日時】
2024年8月24日(土)
12:00~14:00

第42回のテーマは「死にたいときとは?」です。

もう死んでしまいたいと思ったことはありますか?
どんな経緯で?
どうやってその思いを振り切りましたか?

「消えてしまいたい」や「逃げてしまいたい」とは違う気持ち?

私たちはどうして死にたくなるのか?
どうして今、生きているのか?

10代・20代で対話したレポートです。

はじめの問い、テーマに思うこと

まずはテーマについて抱いている問いや、思うことを挙げていきます。

「死にたいとき、皆さんどうしていますか?」

「どういうときに、死にたいと思ったか?」

「逆に「生きていきたい」と思うのはどんなとき?」

「なぜ死にたくなるのか?」

「死ぬとは、生きるとは?」

「自傷行為とは?」

「自傷と死の関係性は?」

これらの問いが挙がりました。

死と自傷について

問い出しから、そのまま自然と対話に移行しました。

「死にたいと思っても、死ぬっていう動作を本当にしたい人はいないと思う。「死にたい」は「生きたくない」なんじゃないか」

「本当に死んだ人からは、もう話が聞けない。死ぬことを目的として本当に死ぬ人は、いると思います」

「確かにそうですね」

「自傷行為の延長線上に死ぬこともある」
「究極の自傷行為が死なんじゃないか」

「「生きたくないの死にたい」あるけど、積極的に「死にたいの死にたい」もある、ということですね」

「はい、でもその人たちから話は聞けない」

「なるほど」

「死から遡ったところに自傷行為があるとも言えます」

「自傷行為の意味は何があるんでしょうか」

「ささくれを剥いたりとかも、人によっては自傷行為にあたるみたいですね」

「爆買いや買い物依存も自傷行為? 自傷行為の範囲は?」

「買い物依存は脳からドーパミンがドバドバ出る。気持ちよくなっちゃう。だからやめられない」

「では、気持ちいいことはなんでも自傷行為になる?」

「自分が不利益になるとわかっているのに行っていることは自傷行為になるのかもしれない」

「依存という大きなカテゴリの中に自傷行為があるイメージ」
「だから、依存してるから自傷か?というのは、そうではない」

「他にも、心を傷つける自傷もある。わざわざ嫌いな人と会話して、嫌な記憶をフラッシュバックしたりとか。一人反省会して鬱になるとか。このあたりは心の自傷行為と思ってます。わざわざ嫌な気持ちになることを自分でしてる」
「自傷の対象は心も体も含んでいる」
「なぜ自傷するのか気になります」

「自傷行為と死の関係性も気になります」

「自傷行為が主で、その先に死があるのか。それとも、死が目的で、その初歩として自傷があるのか」

「私は後者です。自傷には死がよぎる」

「死にたくはないけど、自傷行為をしている人も多いイメージがあります」

「分けられるのかもしれない。依存として自傷する人と、死を見つめて自傷する人と」

「死を目指して自傷する人は、死にたいという気持ちがあるわけですよね」

「そうですね、タネがあるというか」

「そのタネが、死にたいなのか、生きたくないなのか……たぶん「生きたくない」のほうじゃないかな」

「死にたい、だったら一気に死にいきそうですもんね」

「生きていたくない、から徐々に死にたいに移行していくイメージがある。最初から積極的に死にたいって行動をしたいわけではない」
「自傷も、始める段階で生きるのがつらいと思っているのであれば、たぶんそれは「積極的に死にたい」ではない」

「死ぬと、生きていたくないは別? 消えたい、というか」

「そうそう、「いない」を目指している感じ」

自殺は社会のせい?

社会との因果はある?

「途上国より先進国のほうが自殺率が高いと聞いたことがあります。もしかしたら自傷行為も同様に比例するかもと考えていて」
「自殺は社会的な産物なんじゃないか?と考えました」

「GDPと自殺率に相関があると聞いたことがあります。全体は発展するけど格差が広がって、格差で不幸になって死んじゃう、みたいな」

「みんなが同じ状態だったら病まないんですかね? 社会主義国では自殺者が出ないことになっちゃう?」

「でも、外国と比較をされてしまうから……」

「隣の資本主義国の情報が入ってきちゃうと」

「ブータンみたいな」

「ブータンは幸福度が下がったんですよね」

「人と比べるから死にたくなっちゃうんですかね? この考え方はあまり納得できないですか?」

「私はそうではなかったから」

「なるほど」

どんなときに死にたいと思う?

どんな状況、どんな条件で?

「私は、生きる目的がわからなくなったときかもしれない。生きていくには目的が欲しいと思う」
「なんで生きているんだろう?と考えてしまうと、わざわざがんばって生きるのも面倒だなと思うときがある」

「私は、日常的に独り言で「死にてえな」って言うことがある。それは何か?と自分で考えてみたら、今の自分の否定だな、と」
「現在の自分が、自分で受け入れられなくて。今の自分が死んでほしい、それが「死にてえな」って言葉になる」

「変わりたい、に近いですか?」

「そうですね、かなり近い」

「じゃあ、「死にたい」はかなり誇張した表現?」

「そう、でもそれに「死にてえ」って言葉を自然にあててる自分がいる。「変わりてえ」じゃなくて「死にてえ」って言うのは、強いネガティブな自己否定が表れている気がする」
「「生きたくない」とニュアンスが被る部分もあって……今の自分の生を認めきれてない」

「新しい人生を生きられるなら、生きたいですか? 転生しちゃいたい、みたいな」

「いや、そう言われると別に転生したいわけではなく……今を全否定はしていない」
「「死にてえ」と言った自分を客観視して、「それくらいならまた生きるか」となったりする」

「それって、裏を返せばポジティブですよね。「変わりたい」が強いわけだから」

「確かにそうですね」

「「変わりてえ」が近いとしても、「変わりてえ」と言わず、「死にてえ」と言いたくなるのはなぜなんでしょうか?」
「独り言としては「変わりたい」より「死にたい」と言う人の方が多い気がします」

「思うんですけど、「死ぬ」ってものすごい曖昧な言葉ですよね。意味が広すぎる」

「質問です。「死にてえ」をもし違う言葉に言い換えるとして、「自殺してえ」はハマりますか?」

「いや、ハマらないです。本当の、物理的な死を全く想像してない」

「変わりたい+変われない=死にたい、みたいになってますか?」

「なるほど……それは検討の余地がありますね」

死にたくなりやすい状況とは?

環境要因があるものなのか?

「私が死にたくなるときは、夜ずっと一人で起きてるとき。例えば、昼に皆と一緒にいるときや、こうやって対話しているときは死にたいと思わない」
「孤独感とか、日の光を浴びてないとか、自分の環境が影響を及ぼしている気がします」
「特に孤独は重要なファクターなんじゃないかな」

「オキシトシンが足りないのかも」

「死ぬって、ほんとに死にたいのか、他の言葉に置き換えられるのか、逐一吟味したほうがいいんじゃないかと思っていて……その場合は、本当に死にたいんですか?」

「ガチで死にたいです」

「どうやって死のうかとか、想像するんですか?」

「想像し始めるとだんだん恐怖心が出てくるから、実行まで行くのは結構たいへん。でも、実行を考えたことはあります」
「夜一人でぼーっとして、将来のことを考えると……あ! 将来のことを考えると死にたくなります。今思い出しました」

「私は、私の死にたいを言葉を換えると、「やめたい」なんですよ」

「自分もそれ思いました」

「人生ストップ!って感じで」

「ゲームからログアウトする感じに近い?」

「そうですそうです。ただ、二度とつけられないゲームなんで」

「一番嫌なのって、「ずっと同じ」って感覚じゃないですか? 将来や未来がまったく変化しない、成長しない。そうなるとつまらない」

「将来のことを考えると死にたくなるというのは、どういうことを想像してるんですか?」

「年金もらえないんじゃないかとか、親の介護とか、結婚できるか、とか」

「めっちゃ幸せな家庭を築ける保証があるなら、死にたいとは思わない?」

「その可能性はありますね」
「見通しの立たない状態で死にたくなるのかも」

「いろんなことがめんどくさいって感覚はあります。疲れた、というか」

「休みたい、みたいな」

「人生って、ストップきかないじゃないですか。80年間ノンストップで休めない」

「一時停止したい感覚もわかります」

「そういうのも、やめたいって感覚に近いですね」

「でも、やめて解決する問題じゃないことのほうが多い」
「具体的な将来の不安とか、一旦ストップしても戻ってきたら同じ問題がある。いつかは向き合わなきゃいけない。そもそもストップできないし」
「そうなると、ああ、死にてえな、ってなるかもしれないです」

「死ぬしか止まる方法がない、みたいな」

「一種の逃避ですね」

「私は、私という生命体の中には、ご飯を食べたいとか夜寝たいとかのように「死にたい」があるんじゃないか? と考えてます」
「もしかしたら生命っていうのは、死への憧れが潜在的にあるんじゃないか?」
「他の生物、ワンちゃんネコちゃんにも実は……みたいな」

「それは希死念慮とは違うもの?」

「私は、どうして自分が死にたいのかわからないです」
「ごはんを食べておいしいと感じる、のように、呼吸したから死にたい、のような。バッと出てくる」

「質問です。そのスイッチになるのはどんなことが多いですか?」

「まったくわからないです。昼に外を歩いてるときでも、突然死にたくなります」

「法則性がまったくないんですね」

「そうです。「やあ!」って感じで」

「それはどれくらいつらいですか?」

「リアルタイムのときは「困ったな、また来たよ、だるいなあ」みたいな」

「それは、どれだけ細分化してみても、リアルな死を求める感情ですか? 本当に、死にたいのか」

「言葉にするなら、「死にたい」の4文字がぴったり当てはまります」
「「やめたい」のときの「死にたい」もあります。でも、「本当に死にたい」の「死にたい」もあります」

「それってあれに似てませんか。「会社爆発しねえかな」みたいな」

「そうなのかもしれない」

「自分は、「死にたい」は言い換えられるんじゃないか?と、どうしても思ってしまう。どれだけリアリティのある死なのか」

「リアリティとしては、用意までしました。でも、悲しむ家族の顔が浮かんできて、思い留まりました」

死にたいと思うときこそ正気?

どちらが「正気」なのか?

「質問です。死にたいと思っているときのほうが正気になってるって感覚はないですか?」
「自分もさっきのお話に思い当たるフシがあって、自分ではそういうときのことを「正気に戻ってしまった」と言うときがある」

「逆に、死にたくないときのほうが夢を見てるみたいな?」

「そうです、普段は人生を見つめることで目を逸らしているイメージ。ふと我に返って、正気に戻ると死にたくなるという感覚」
「さっきのお話はそれに近いのかな?、という気がしました」

「動物は自殺しないですよね。自殺するのは人間くらい。人間にしかないものと考えると、未来を見通す能力、メタ的に見られる視点、それが必然的に「死にたい」を引き起こしているのかもしれない」
「だから、正気に戻るというのは言い得て妙というか」

「そうか、理性的な側面があるのが「死にたい」で、普段死にたいと思ってないほうが感情的に動いてるのかも」

「理性的に死にたい、ということ?」

「つまり、具体的に将来のことを見据えて、「あ、これはもう手詰みだな」と。楽しみよりも苦労のほうが多いだろうな、とか。そういうことを冷静に考えてしまったとき」
「詰んでいる、というのがデフォであって、それから目を逸らして暮らしているのが普段の自分」
「覆い隠している、ハリボテにしている感じ」

「もし、理屈で「詰んでない」と理解できたら、「死にたい」と思うことはなくなりそうですか?」

「その通りだと思いますけど……究極的には、人生に目的って無いじゃないですか。そのあたりが根本にあるんですよね」
「人生の目的なんて、外から与えられるものは何もなくて、自分でどうにかしなきゃいけない問題。そこが核心。そこから出てくる結論のひとつで「目的ないなら死ねばいいじゃん」がスッと出てくる」
「その、スッと出てくるところを、感情で否定して、普段はごまかして生きてるんじゃないか」

「頭が良くなればなるほど、自分の存在ってちっぽけになるじゃないですか。子どものころは死にたいと思ったことないですよね。頭が良くなってきたからだと思う」

「幼少期って、死ぬことは選択肢にない。選択肢の中に、死ぬことのカードが入ってくると、とっても魅力的に見えちゃうのかも」

「死ぬことを知らないから、選ばない。確かにそうかも」

「初めて死にたいと思ったときのこと、覚えてますか?」

「本当に嫌だ、って感情ですよね。親に散々怒られて、泣きじゃくって、もうこんな家族嫌だ、みたいな……」

「私は、保育園児のときに思ったんです。母が仕事からなかなか帰ってこなくて、このまま母が帰らないなら生きてる意味がない、って思えて。それがすごい記憶に残ってます」

「自分は8、9才のころ、親に突き放されて家から追い出されたときに、公園の水たまりを見て「ここに顔突っ込んで死んでやりたい」って思ったことを覚えてます」

「自分も、場面は強く覚えてます。食器棚の裏だったな、って」

「最古の記憶だと、小6のころに中学受験したんですけど、最後のほうで受験するの嫌になっちゃって、塾に行くのも嫌になって」
「だけどやんなきゃいけない現実が来たとき、自分の部屋で体育座りしながらしくしく泣いて「死にてえな」って思った記憶があります」

「子どもの死にたいと、大人の死にたいはたぶん違いますよね」

「違いますか?」

「昔の死にたいは、今ほど理詰めで死にたいとは思ってなかったと思います」

「自分の感覚では、同じかなと思いました。子どものころとつながってます。今の現実が嫌で……」

「中学受験のときはもうある程度感情が大人に近かったのかもしれないですね」

「確かに、知能としては連続性があるかも」

幸せと苦しさの比がいくつなら生きていきたい?

何対何なら生きていこうと思える?

「皆さんに質問です。幸せと苦しさが、何対何くらいだったら、この先も生きていこうと思えますか?」

「それは未来も含めてですか?」

「そうです。自分の死ぬまでの人生の中で」
「私は、8対2くらいで幸せです。めっちゃ幸せです」

「感覚的には、少しでも幸せがあれば。1対100でも」
「基本的に生きるのは苦痛だと思っているので、デフォが苦痛100。一個でも幸せがあるならお得だから、いいんじゃない?と」

「さっき、将来のこと考えると死にたくなると仰ったのは……?」

「将来が100苦痛だと思ってるからです」

「なるほど」

「他の方はいかがですか?」

「幸せって、何ですか?」
「成功とか?」

「例えば、ごはんがおいしい、でもいいですし」

「自分も、さきほどの「少しでも幸せなら」と同じかな」
「今決めていいのか?とも思っていて。今幸せに感じていることが、後になったら不幸せになることもある」

「自分は割合では考えてなくて……ものすごい過度なストレスで死にたいと思わされない限りは、たぶん生き続ける」
「その瞬間、限界を超えてしまうかどうかの問題のように思います」

「これまで死にたいと思ったときはどういう割合だったんだろう?と振り返ってみると、7対3で苦しく不幸なときだった」
「一方で、人は幸せになるために生まれてくるのか?という疑問がある。みんなが幸せになりたいお思っているのは、たぶんそうだとして」
「そもそも幸せになるために僕たちは生まれてきたのか?」
「幸せだったら生きたい、幸せじゃなかったら生きたくない、というのは、ある種の身勝手のような、エゴのような感覚がどこかにあって……」

「自分はむしろ、何のために生きてるんですか?って質問にみんな「幸せになるために」って答える人が多い気がしていて」
「現代は、幸せになるために生きてるイデオロギーに毒されてるとは思います」
「個人よりは、社会が幸せになるためのイデオロギーが広まりすぎてて、幸せという視点から外れた生き方が無くなりつつある」

「その裏返しとして、「自分はこんなに幸せなんだ」と自慢したり比較し合う気持ちが生じているのかもしれない」

「「幸せなら生きたい」は、裏を返せば「不幸せなら死にたいになる」ということですね」
「でも、そんなシンプルじゃないでしょう?ということで」

「そうです、そうです」

「1:100の方に質問です。未来まで苦しさ1で幸せが100だと確定させられたら、生き続けるということですか?」

「生き続けるかはわからないけど、それですぐ死ぬことはないと思います。だから今生きているということでもあります。1対100でも、1対10,000でも、苦痛はあるからしょうがないよね、という感じです」

「幸せが砂漠の中の砂金くらいになってますね」

「そうそう、そんなイメージです」
「基本的に、望んで生まれてきたわけではない、というのが元々あって。気づいてたら生まれてたし、しょうがないから生きるか、みたいな」

「そこなんですよね、感覚として、望んで生まれてきたわけじゃない」
「自分は死にたいではないけど、今まで立脚してた大地が急にふわっと無くなるような感覚に襲われることがある」
「別につらいときでもなく、街を歩いているとき不意になんです」
「自分はこういう理由で生きていたんだと思っていたものは、実は仮想的に組み立ていただけであって、それが取り除かれる感覚」
「自分で「浮遊感覚」と名付けてるんですけど……何のために自分は生まれてきたんだ?と」

「我に返ってしまうんですね」

「そう、これがさっきの、正気に戻る、正常になる、ということに近いんじゃないかなと思います」

「そうですね」

「生きる目的が無いってことを認識するってことですよね」
「生きる目的はふんわりしていて、人生に意味なんてない、というか」

「ふと気づいてしまう」

「家族のために生きる、仕事のために生きる、とか皆さんそれぞれあると思うんですけど、地表の部分ではそういった目的を作れる」
「でも、そもそも生まれてきたのって自分の意思に基づいてないよな、って気づくと、地下のレベルではふわっとなる」
「それが「死にたい」という4文字で表れるかどうかは、人によって違うと思います」

「自分の生を相対化しすぎた結果、すべて無価値に感じられて、虚無のような感覚に陥る感じですかね」

「相対化っていうのは、他の人と比べるとかですか?」

「いや、俯瞰で見る、メタ的に見るみたいな感じです」
「自分はこのために生きていると絶対的に信じていた状態から、絶対じゃないんじゃ?と相対化すると……意味なんてどこにも根ざしてなくて、虚無感に襲われる」

「目的が選択可能になったことで、逆に見失うというか。洗脳されて「こう生きろ」と言われていたら、死にたいという感覚は無くなると思う」
「自由になったことで、目的を見失ってしまう。目的が選べるからこそ、目的を見失うこともある」

「自由のせいで、ある意味苦しんでいる」

死にたいとき、どうしていますか?

実際に心が揺らいだとき、どうやって対応していますか?

「では問いを変えます。そうやって、虚無に陥ったり、死にたいと思ったりしたとき、どうしていますか?」

「どうやって解決していますか、ということですか?」

「解決でもいいですし、凌いでいるか、でも」
「自分は「耐え」です。波が過ぎるのを待つ。正気から夢に戻るように」

「自分も同じです。正気に戻ったんなら正気を失えばいいので、他のことを考えたりとか、寝る、ですね」

「24時間356日その感覚ではなく、気づけば地表に戻ってるので、戻るのを待つ、のが回答になる」
「ただ、自分の存在が揺らぐのは、必ずしも悪いことではないと思っています」

「まあ、死なないんなら、生きるしかないし……」
「正気になったら死にたくて、正気を失えば死にたくないというのは見方の問題とも思っていて……本当に人生に意味はないなら、そこからやっていくしかない」

「無意味であることを、無意味なまま受け入れる?」

「そういう感じです。無意味であると設定するなら、その手札で生きていくしかない」

「でもそれは生きることが前提になっている?」

「それは、そうです」

「無意味に生きるのは、何でできないんだろう?」

「無意味に生きてもいいと思うんですよ」

「そうそう、そういうことですよね」

「無意味に生きてもいいし、自分で目的を設定してもいい」

「そこに、幸せと苦痛の割合の話が出てくる。幸せの割合が多いんだったら、特に意味がなくても幸せだから生きる、で話は終わる」
「苦痛が多くて「意味が無いですよ」と言われたら、生きていこうとはならない」

「なるほど」

「苦痛が多いんだったら、それに耐えるだけの意味を求めてしまうのかな」

死にたいとき、気晴らしは効果ある?

一般論でよく聞く方法について。

「一般論としては、よく「気晴らし」が対処として言われがちですけど、気晴らしは効果ないですか?」

「気晴らししてる状態が、普段の正気じゃない状態、かな」

「気を紛れさせるとか、対処療法みたいなのを繰り返しても、どうなんだろうと思いますよね」

「根本的に解決しない」

「でも本当に意味がなかったら解決しようがない」
「意味が無いを受け入れて、どうしていくかを考えるしかないのかな」

「正気に陥ってしまったとき、気晴らしをして日常に戻ることもできるけど、一方で「命の根源」みたいなのを覗いているような気がしないですか?」

「しますね」

「何のためにこの世は存在するのか?に触れてるような。触れずに生きることも可能だけど、触れて生きるのも良いような……」
「「無意味だと気づいても、生まれちゃったら生きていくしかない」という意見を聞いて、印象的だった」
「仮に意味が無いとしたら、なぜ私たちは意味が無いことを始めさせられるのだろう?」

「人間だけ頭がいいから、考えちゃうんですよね」
「でもそれも才能だと思って生きていく」

「生まれたのも、結局は事象としてあるだけじゃないですか。死ぬのも事象。宇宙があるのも、人間があるのも」
「事象があるだけで、そこに価値や意味を見出すのは、人がそれを行うかどうか」

「例えば、犬は「生まれて、生きて、死ぬ」ことを、その言葉で認識できず、ただ事象のままに生きる」

「そうです。ただ、そういうことが起こるってだけ」

「そこに意味を求めるのは人間特有の何かってことですか」

「はい、そうです」

「目的を考えること自体がナンセンス、という気もしてきますね」

「意味とか目的を求めること自体が、あまり意味が無い、と」

「目的のあるなしで生きるか死ぬかじゃなくて、先に生きるか死ぬかがある。生きるとした場合、目的を持つかの選択がある」
「前提として、先に生きるか死ぬかを決めてしまう」

「たぶんその選択で「死ぬ」が選ばれることは無いですよね」

「今の私たちは「生きる」を何の意味もなく選択しているから生きている。だから目的が無くても生きているし、目的が無くて悩む」

「なるほど……そうなると疑問なのが、意味が無く、苦痛な人生を歩むことができるのか?が気になります」
「意味や目的を考えるのはつらいときだと思う。それで自分を納得させて耐えている。仰る通り、意味や目的を考えるのは基本意味のないことだし、そもそも意味なんてないし」
「と思う一方で、それによって何とか心を支えている側面もある……」

「そうなってくると、実質的な問題は苦痛になりますよね。苦痛が無ければ無目的でも生きていける」
「例えば、南国で牧歌的な生活ができるなら、無目的でものんびりしてれば生きていけそうだな、と思う」
「苦痛をどう取り除くか?という問題になってくる」

「ただ、目的がない、ってことも苦痛ですよね」

「そう、そういう人もいるんですよね」
「苦痛を取り除いて幸せに、というのも分かるんですが、なんでそこまでしてがんばって幸せに生きなきゃいけないの?と思ってしまう」
「動機づけができなくて嫌なのかもしれない」

死後の人生、天国について

死んだら天国に行ける、来世があるという考え方について……

「以前、家族がすごく苦しかった時期があって。その後に家族が言っていたのは、死にたいくらいつらかったときに、韓国の逸話を聞いて感銘を受けたらしいんです」
「今の人生が1回きりだと思うから幸福にならなくてはと思ってしまうけど、「人生は4回ある」と言うそうで」
「最初の人生は種まき、次は水をやる人生、次が花を見る人生、最後が花を摘み取る人生」
「私の今の人生は何も楽しいことがなくても、種をまいているからなんだ、と思ったらすごく楽になったと話してくれた」
「それは意味づけが成立したから生きていけるようになったってことなのかな、って」

「未来は今より良くなるだろう、という希望ですよね」

「今の自分の苦しみは、次に生まれ変わったときのために意味があるんだ、と思えたら納得できた、と」

「苦痛に耐えるのは、いつかいいことがあるから?」

「そういうことですね」

「それってやっぱり生きてみないとわからない」

「仏教とかは良い行いしたら天国に行けるって言うじゃないですか、あれって苦痛に耐えながら生きるのを助ける意味があるからそういう教義になったのかもしれない」
「実際、死んだら天国に行けるんだと思えたら、つらくても人生がんばれる気がする」
「意味づけをすると、つらくても耐えられる。その意味が何かと言えば、ご褒美がもらえるとか、苦痛のぶん誰かが幸せになるとか」
「苦痛が本当に無意味だったらやってられない」

「さっきの花の話は、人生を今の現世だけで捉えない見方ですね」

「宗教はそういう役割があった?」

「三大宗教のなかでは、イスラムが一番その考えに近い。現世は、死んだ後の楽園に行くための準備期間と捉えていて、楽園に行くために徳を積んだり寄付をしたりする」
「メジャーな宗教には、今の苦痛を耐えるためのライフハック機能があると思います」

「さきほどから出ている、人生は苦痛でしかないという考え方、すごい仏教に似てますよね。四苦八苦、とか」

「仏教に限らず、宗教関係は勉強したので影響もなくはないですが、元々そういう性格というところが大きい」

「なぜ死にたくなるかは、究極のところ、希望があるかどうか?」

「生きてることの無意味さに耐えられないことが、死にたいに繋がる」

「結局、意味とは将来のリターンがあるかどうか、という意味で言うのなら、そうですね」

「さっきの「正気」になったときとかに、究極的には人生に意味がないと仰っていたんですが……究極的に意味はないと思いますか?」
「意味のないものが、意味もないのに生まれてくることなんてあるのか?と思うんです」

人生に意味はあると思いますか?

究極的には無意味なのでしょうか?

「意味は無いです」

「無いと思います。事象があるだけです」

「でも、幸せになりたいっていうことですよね」

「そうですね、もちろん幸せなほうがいい」

「では意味があるのでは?」

「別に幸せにも意味があるわけじゃない」

「幸せになること自体が、生きる目的として成立しちゃってるかな、と」

「幸せになるために生まれてきたんじゃないと思うんですよね。ただ、両親が私を産むことを選択したから生まれた」
「生まれた個体としての私はどんな状態になるか、例えば風邪を引くでもいい。その同列にしあわせがある」

「不幸になるよりは幸福の方がマシ、みたいな?」

「今のは、生きる意味というより、生まれてきた意味?」

「そうです。どうせ生きるんなら幸せの方がいいんじゃない?みたいな」

「相対化していくと「意味はない」という結論にならざるを得ない」

「自分が幸せになるためにこの世は存在してない、ってことですよね」

「そうです」

「ということは……意味ってなんですか?」
「社会にとっての価値とか?」

「意味はないという結論にならざるを得ない、というのがすごく気になるんですが」

「意味って実体がないじゃないですか。思考の中でしか存在しないから、思考の上で意味があると思えるなら、逆に意味がないとも言語的に思えて」
「どんな意味にもそれが設定できる以上、意味がない状態を想像できるから、どこまでもいける」

「意味があると言うこと自体にも、意味はないって可能性を与えるから、意味があるのがデフォルトだと宗教的に信仰しない限りは、意味は存在しないとしか言いようがない」

「論理的に立脚する前提を置けなくなる」

「希望もそうですよね、最終的には信じるしかない」

「天国に行けるとか、人生の後半で幸せになれる、とか」

「幸せになれるかも、っていうのはある種の信仰?」

「信仰ですね」

「そういえば、1%も自分が幸せじゃないのは許せないって言ってたじゃないですか、風邪引いたときは?」

「腹立ちますよね」

「でも、風邪引く状態には耐えて、死にたいとは思わないですよね」

「ああ、確かに」

「それは風邪引いてもきっと良くなるってわかってるから……でも良くならない可能性もありますよね」

「そうなると、なんでも死因になっちゃいますね」

「耐えられないことがそんなにない……わけでもない。ちゃんと意味があれば、苦痛にも耐えられるし」

「私が死のうとしたとき、死ぬことがめちゃくちゃ怖くて。だから、その余韻で生きてるみたいなところがあって」
「苦痛があったら死ぬとは言ってるんですけど、結局死ぬことが怖いんですよ」
「そっちの怖さに耐えられないから生きてるに過ぎない」

「究極はそこですよね、人間としては」

生きる意味を担保するモデル

信じられる「生きる意味」得るには?

「生きる意味の話に戻していいですか。一人ね自己完結して生きる意味を肯定し続けるのは、たぶん無理。もう一人、人が必要」
「つまり、「あなたの生きる意味は私が担保します。私の生きる意味はあなたが担保してください」と、相互に意味を与え合える複数人のモデルがないと無理な気がします」
「自分で自分を理論武装はできない、理屈を知ってしまっているから。いくらでも自分を否定できる。だから、ふと我に返ってしまう」
「二人いれば、相手の言う生きる意味とか、あなたが必要ですと言われたら否定はできない」
「複数人で、お互いのために、という関係性を組むしかない」

「自分の一番いい人生モデルは、小さいときは親孝行して、自分の子が生まれたら子どものために生きる。今のお話のように、意味を外に預ける」

「そう、生きる意味を預けるようなイメージです」

ヴィクトール・フランクルっていう、アウシュビッツから生還した精神科医が「究極的に、意味は外にある」と言っている」
「生きる意味となったら、外部、社会、他人に求めるしかないんじゃないかな」

「フランクルは「人生に何を求めるかではなく、人生が自分に何を求めるかを考えなさい」とも言ってます」
「でも、さきほどのお話がフランクルと少し違うのは、他者との間に生じるということ。一人では完結できず、他者との並行関係に意味が生じるのは面白いと思いました」

「さきほどの、死にたいと思ったときに母の顔が浮かんだというお話を想起しました。これも相互モデルの話と繋がるんじゃないか」
「母のことで死ぬのを思いとどまったなら、その命は、本人の所有物では無くなったのでは。本人の命は、母親の命でもあるように思えました」

「ただ、このモデルは都合が良すぎるな」

「ちょっと綺麗すぎますね」

「たぶん正しくて、実際に社会はそう成り立っているとは思うんです。親子、夫婦、友人関係。お互いに承認しあって、どうにかやりくりしてる」
「ああ、だから自殺はダメって話になってくるのか……」

「自殺は誰の問題か?という話で、
養老孟司が言っていたのは、「死は3つある。第一人称の死は、自分の死。第二人称の死、近しい人の死。第三人称の死は、赤の他人の死」」
「第一人称の死は存在しない、自分が死んだら自分はいないから。一番悲しいのは近しい人、親や友人の死」
「ここから問いになるんですが、死ぬのはそんなに悪いことなのかな? 自殺は悪いことという前提で言われますよね」

「さきほどの相互モデルの場合は、複数人いて成立するので、軽率に自殺してはいけない、という結果の話だと思います」

自殺するのは悪いこと?

参加者はどう思っているのか。

「すみません、一度整理させてください。自殺するのが悪いことか?、という問いが出ました。ここにいる皆さんはどう思っているのか、一度確認してからのほうが対話しやすいと思います」
「自殺が悪いことだと思う方は?」

(誰も挙手せず)

「ということで、この前提でどうぞ続けてください」

「社会通念としては自殺はよくない、とされていますよね」

「さきほどの相互モデルでも、その社会通念は説明できてしまう」

「そうですよね、他者がいて初めて「自殺はよくないこと」となる」

「じゃあ別に死んだっていいんだ、ってことですよね?」

「まあ、一人だとそうなりますよね」
「そうか、だから前半に出てきた「孤独だと死にたくなる」っていうのは、そういうことなんだと思います」

「生きる意味を考えると、話題が社会に発展するのか……面白いなあ」

「大昔、群れで生きていたような社会の時期の自殺率と、今の単身世帯が増えている自殺率を比較したとき、愕然とした差があるような気がします」

「大昔は自殺なんてないでしょうね」

「自分は一人で生きてるって感覚が、現代人特有なのかも」

100年前の社会の死生観

私たちの曽祖父母の時代について。

「関連したことで確実に出せるエビデンスを話すと、100年くらい前の日本は、子どもが成人まで生きる割合が60%。5人子どもが生まれたら、2人は死んでしまう社会」
「だから、今とかなり違うのは、兄弟の死や、近所の子の死が身近にあった」
「そういう社会と、今の社会もまた死に感する感覚が違うのではと思います」

「成人しただけで、生き残った者、サバイバー感覚みたいなのはあったかもしれない」
「だからこの命を大切にしよう、という思いは強かったかも?」

「戦争の時代とかも、そうですよね」

「そうですね、理不尽な死がたくさんある社会ですね」

「サバイバー的な感覚は、今の私たちにはまったくない感覚ですね」

「生そのものへの価値観が、少し昔でもかなり違うのかな、とは思いました」

「確かに、身近で死を経験してないと、自分自身には響いてこない」

「私は祖母が数年前に亡くなったんですけど、祖母が死んだから自分が死にたくなったってことはなくて、むしろ生き生きしてきたというか」
「自分は生きてるな、っていう気持ちになりますよね」

「質問です。本当につらかったとして、親が死んでほしくないって言ったら、死なないですか?」

「余裕で生きますね」

「そういうことですよね」
「自殺を考えると、やっぱり社会の問題になってきますね」

最後に話しておきたいこと

対話もまもなく終わりです。

「残り2分くらいです。何か言っておきたいことがある方はどうぞ」

「自分は、なぜ人は地球に一人ぼっちじゃなくて、他の人たちと一緒に生まれさせられるんだろう?ってことが今まで疑問だったんです」
「これまでのお話を含めると、何らかの意味を互いに探すためなのかしら……と思いました」
「意味を預かり合うために、何十億人も一緒に、同じ土台に生まれさせられてるのかな……」

「だいぶ前半で出た、突然死にたくなる感覚、生は死に向かっているんだってお話は、もうちょっと掘り下げたかった」

「どういうお話でしたっけ?」

「水の中にぶち込まれたみたいに突然死にたくなる、そういう衝動は生命として根源的にあるんじゃないか?って」

「そう、それは全然別の文脈だなと思って」

「もしかしたら、私が人生で一番生きていたいと思ったのは、死のうと思って一番死に近付いたときかもしれない」

「死にそうな体験をしたときに、やっぱり生きたいと思いますよね」

「キャンサーギフトとかもそれに似てるのかもしれないですね。がんを患った人が、がんが治ってからすごい生きる活力がわいた、とか」

「なるほど」

「死に面することで、逆説的に生が輝く」

「この社会には危険が少ないってことなのかもしれない。突然死ぬかもってことはないじゃないですか」
「そういう機会に生きたいと思うのであって、平和では……」

「兄弟が何人も亡くなるとか無いですもんね」

このあたりで時間いっぱいとなりました。

ファシリテーターの思うこと

そもカフェがこれまで扱ったなかで、もっとも重く、かつセンシティブなテーマでした。

難しいテーマでしたが、心理的安全性が保たれた深い対話に発展しました。
参加者の皆さんが他者に敬意を持って対話してくださったおかげです。
感謝いたします。

本当は死を望んでいない「死にたい」。
本当に死を望んでいる「死にたい」。
言葉は同じですが、当人の内面はかなりそれぞれのようです。

「死にたい」を対話していくと、実にさまざまなテーマに発展していきました。
生きる意味、生きたさの弱さ、私たちの社会、平和であること。

先人が苦労して作った安全な社会のなかで、なぜ私たちは生きる意味を探してしまうのか?
また、対話してみたいと思います。

参加してくださった皆様、ありがとうございました。

次回の開催案内

次回は2024年9月14日(土)開催。
テーマは「自分の存在価値とは?」です。
詳細はこちら

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