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【対話で紡ぐ対話のJourney #001】――思考がつくり出す「私」というアイデンティティ

私たち「対話の木の葉」は、どんな感情もどんな声も、相手にも自分にもあるものとして大切にする〝対話のまなざし〟を、誰もが持ち得る社会になることを願って対話の体験や学びを届けています。
私たちが日々対話について探求している内容を、『対話を探求するJourney(旅路)』としてシェアすることで、読んでいただくあなたも一緒にこの旅を楽しんでいただくことへお誘いしています。

今回の旅路を歩むふたり、対話の木の葉の長井雅史(まさ)と田口良子(りょうちゃん)


今あるものを言葉にしていくことで、気づいていなかった自分に気づいていく

まさ(長井雅史):じゃあ、声が出てくるところから出していきますか。

りょうちゃん(田口良子):さっきチェックインでも言ったけど、ダイアード瞑想がとても木の葉の対話で起きてることに似てるなって思ってて。ダイアード瞑想はまさに二人でする瞑想なんだけど、この間シェアした体験過程療法の表があったと思うんだけど、あれの深まりを起こすような環境がつくられている場だなぁと思ってて。

形としては一人5分間問いに対して答えるっていうことをしていって、それを黙ってただ聴いている人がいるっていう。5分の問いを交互にやって4問ずつ答えていって、40分で終わりっていう形なんだけど、その、ただただ黙って聴いてくれる人がいるっていうことと、問いに対して答えていく、で、5分間表現し続けるみたいなことから、ほんとに体験過程の深まりが起きていくし、問いがそもそもすごく内側に向けた深い問いがなされているから、木の葉で起きてることとすごく似てるなって思うんだけど。

今日感じたのは、やっぱり言葉にしていくっていうことの意味とかエネルギーみたいなものがあるなぁって思っていて。言葉にしてみるとちょっと違うなぁとか、逆に、言葉にしてみて自分はそんなこと思ってたんだって思ったりとか、言葉にすることで、もう一段深く入っていったり、次のものが手繰り寄せられるみたいな、そんな感覚があって。それがすごく、本当に広いスペースに自分がいる感じになっていくんだけど。
一緒にダイアードをやる相手によっては、全く言葉にしないっていうことを選択をする人もいて。言葉にしたくない気持ちがあったからしなかったって、そういう選択をする人もいる。
多分考えてるのかな、その人は。で、まとまったからしゃべるみたいな形でしゃべると、すごく思考的というか、人ごとのようにしゃべるというか。その時湧いてきている今あるこの感じを実況中継するように話すというのとは、全然質感が違っていて。なんかこう、「そういうことがありました。以上」みたいな感じになっていくというか、瞑想的ではなくなってしまうなぁっていう印象があって。

言葉を出す時に、今自分のほんとに体の感覚としてあるものとか、湧いてくるものとか、目の前にあるように見えるイメージを実況中継していくみたいに言葉にしていくっていうのが、すごく、次の言葉を手繰り寄せていったりとか、自分が気づいていなかった自分に気づいていくとか、そういうことを起こさせてくれるなぁっていうのを今日すごく感じて、木の葉の対話にも通じるなぁって思った。

ちょっと続けてしゃべっちゃうんですけど、さっき、木の葉の願いの詩のようなもの(対話の木の葉のHPに掲載)を書いていて、声を聴くことがすごい大事だって言っていたり、声を聴くことが私たちが全体になれる、私自身も全体でいられるっていうことを書いていて。声を聴くことの大事さは自分でもすごく感じているんだけど、『<責任>の生成(國分 功一郎・熊谷 晋一郎 著)』を読んでいると、責任ってどこから生まれるのとか、意思っていうのはそもそも元々はなかったものだっていう話が書いてあって。声ってどこから生まれるんだろうなぁっていうのが自分のなかの問いとして上がってきてて。色んな声がある、その声ってどこから生まれてるんだろう、何でその声を聴くことがいいんだろう、みたいな。声って何なんだろうなぁって。ちょっと取り留めはないけど、そんなことが浮かんでいます。

(しばらく沈黙)

声とはいのちのエネルギーであり、それに応答することは「今に在る」こと

りょうちゃん:またまた続けてしゃべっちゃうんですけど。

まさ:うん、どうぞどうぞ。

りょうちゃん:声って何かなぁって思ってた時に、エネルギーって感じがするなぁって思って。本当にその、いのちから生まれてくるエネルギーみたいな。で、それには色んな質感がある。そこから感情とか感覚とかが生まれてくるし、それがクリアになっていくと、言葉になって音として聞こえる声になっていく。そんなプロセスがありそうだなぁって思って。この、すごいぎゅーっと絞って行った時のエネルギーみたいなものに応答していくっていうことが、すごい大事だって思ってるってことかも知れない。木の葉の対話とか、ダイアードとかも、自分の中にあるそのエネルギーに触れて、それに応答するっていうのが、言葉にしていく、声を出していくっていうことのような感じがして。だから、全ての声を出すっていうのは自分自身のその中にあるエネルギーに応答していくっていうことだし、その一人ひとりの声を聴くっていうのはその人一つ一つのいのちのエネルギーを含んでいくこと、みたいなそんな感じがするな。

まさ:僕もとりあえず声出してみると、なんか今この場にいながら言葉として、今に在るというなんかそういう感覚が湧いてくるなぁって。なんかこう、応答っていうのとかも、レスポンスであり、レスポンス可能な状態としてのレスポンスアビリティみたいな話もあった時に、なんかこう応答できない時って今にいない状態なのかなぁっていうのを感じて。
ま、だからこう、今この瞬間みたいなものが話としてつながってくるのかというのを思ったりとか。今にいない状態って多分、感じからすると何パターンかあって。全部整理はついてないけど。今生じているエネルギーがあって、感覚があって、で、それを感じられてたり、気づいてたり、在るものとしておいてあげてたり、応答していたりっていう状態。その逆の状態っていうのは、そのエネルギーが何らかあるんだけど、顕在的に気づいてない、気づかないようにしているみたいな。在るんだけど、それを見てなかったり応答してない時のその人の姿勢も、まぁある意味、その時生じている姿であるっていう風だから、そういう意味では今に在ると言えるのか、っていう問いも立ってくるんですけど。

今に在るっていう言葉で連想するのは、その生じている感覚エネルギーと自分が一体となっているとか、自己一致的な感じとか、気づいているとか。顕在意識と、潜在意識と呼べばいいのか分からないけど感覚に齟齬がないような、なんかそういう状態を今にいる状態として連想するなぁと思っていて。
まぁこういう話をしていくと、ボームの思考の自己受容感覚的な話が、どうしてもなんかそこに引き寄せられていくんだという、自分を見つけて。なんか自分の中で今生じている問いとしては、生まれているエネルギーや感覚があり、それに気づいている時やそこにいる時とか、自分の中であるいは場として応答が出てくると、それの状態ではない方の、そこになんか乖離があるみたいな。エネルギー感覚があって、けど、気づいてなかったり無いものにしていたりするような時というのは、何が起きている状態なんだろうなぁってのが。そこに乖離があるという状態って何なんだろう。そんな疑問が湧いてきてる感じです。


思考がつくり出す「私」というアイデンティティ

りょうちゃん:まささんが言った、今に在ることを阻むものって何かなぁっていう問いを考えていて、今にいない感じの人というか、エネルギーに触れていくことに抵抗している感じの人って何をしているのかなぁって。守りたい感じがすごくあるなぁと思っていて。
何を守りたいって、その人のアイデンティティみたいなものかなぁっていうのを感じていて。で、守りたいからコントロールしようとしている。自分自身の声も言葉も在り方も、コントロールしようとしているのかなぁと思って。コントロールすることで守ろうとしているのかも知れないんだけど。

じゃ、そうじゃない人って見た時に、例えばまささんとか、ただ自分の中にあるものに触れていくとか、それを見つけに行くとか。その在り方を感じると、やっぱりそこに何となく「受けたもう」の感じがあるというか。
そこはコントロールしようとしてないし、多分自分自身のことさえもコントロールできるものだと思ってないし、ただただそこに委ねている。あるものをあるって。やわらかいというか委ねている感じがあるなぁって。
その守ろうとしている人がアイデンティティっていう自分の形を守ろうとしているのだとしたら、そうじゃない人は、そのアイデンティティって形があるものにとらわれていなくって、そこにとても柔らかさがある。ゆらいでもいい、かなぁ。なんかそんな風に見える側面もあるなって思いました。

まさ:なんかそれを聴いて、その対話プログラム(2023年スタート予定の対話を学ぶプログラム)みたいな文脈につなげた時に、やっぱ思考の自己受容感覚とか、ま、思考のパートを入れた方がいいだろうなぁって思って。
なんかその、固執執着が生まれる対象って、その何らかのアイデンティティや自分の中で都合が良いと思っているストーリーとかシナリオとか、あるいは理想のイメージとか、僕の場合は特にスムーズにいく計画とか、なんかそういう、他にもある気がするんだけど、こうであるはずだみたいな何かそういうやつな気がするんですけど。

そのこうであるはずだは、やっぱ誰が作っているかというと自分のイメージとか思考によって作り出されていて。その、こうであるはずだというイメージと何らかの自分の、多分メンタルモデルというか何かのコンプレックスとか何かのない感覚が強固につながった時に、そこに固執が生まれるみたいな感じで、例えば、今にいれなくなるみたいなことが起こる気がしてて。思考の中に、ちょっと全然上手く言語化できないけど、思考のメカニズムとか、思考の自己受容感覚とか、思考とどう関わるかみたいな、なんかそういう話が結構重要な一面なのかもなとも、今、対話プログラムにつなげた時に思ったことでした。ただ、これをこれまでの人生で上手く伝わる形で伝えれたためしがないというのもあるんですけど。どうしてもなんかボームに寄っちゃうんですよね、僕はやっぱり原点がボームにあるから、ボームの世界観に。

りょうちゃん:今私もそれってどういう事ですか、って思った(笑)

まさ:ね(笑)これ何ていつも言えばいいのか。僕の中では同じことを、りょうちゃんがさっき言ったことと僕が言ったことは同じ現象を語っている感じなんだけど、何て言えばいいんだろう、フレームがやっぱ僕はボームに基づいたフレームで意図してるからその現象を、なんか思考とか言い出すんですね。

りょうちゃん:思考っていうのはいわゆる、考えみたいなこと、ではなくマインドっていう方が近いですか?

まさ:なんか、多分マインドも2種類の使い方される時があって、シンプルにその心みたいなマインドの時と、なんか瞑想の文脈だとマインドって結構想念みたいな感じで使う時がある気がしてて、そっちの意味合いだとしたら、今言ってる思考はマインドでもあり考えでもあって、なんか要は頭の、何て言えばいいんだろうなぁ。そうなんですよね、頭の働きで作り出してる前提とか世界みたいな、世界観みたいな。感じる、何て言えばいいんだろう、解釈以降の世界みたいな、を思考って呼んでるのかな。

思考の働きがもたらす影響に気づくことで、生き方が変わる

りょうちゃん:全部含まれてる感じですか?心、考え。

まさ:心と考えっていう話でいくと、考えの方ですかね。心は、印象として「感じる」寄りのイメージがあるけど。例えば何か、物事に対して何が秀でていて何が劣っているかとか、何が上で何が下かとか。
そういう、平和と戦争とか、そういう軸を作りがちな特性みたいなのが思考にはあったりとか。本当は別にそんな軸何もないんだけど、そういう軸で現象を測ろうとするみたいな特性があったりとか。
あとはそのイメージを作り出すみたいな、こうあったらいいなみたいなイメージを膨らませる力みたいなものも思考の中にあったりとか。あとなんかカテゴリー化みたいな、ラベルもそうだけど 、一個に集約するみたいなそういう特性もあって。本当はマジで全部それぞれなんだけど、ニワトリという集約される何かを作り出すみたいなのとか。何か差別的な何かとかもそうかも知れないけどとか。
という、思考というものが持っている特有の色んな特徴があるんだけれども、それに自覚的であるかどうかで、何が変わるって言えばいいんだろう?生きやすさって言うのか、生きるということが変わる。

ボームの言う思考の自己受容感覚は、ま、そういったことなんですけど。思考というものがどんな影響を自分たちにもたらしているか、思考のはたらきがどんな影響を自分たちにもたらしているのかに、なるべく気づくことが重要であるみたいな感じなんですけど。
やっぱり往々にして思考は背後に隠れがちで、気づきづらい領域に存在してる。さっきのアイデンティティへの執着とかも、執着してるつもりもそもそもないけど、自分はこういうもんだって思っていると。そのアイデンティティっていうイメージは、思考はこれまでの経験で作り出してきているものに過ぎない、みたいな感じですね。そのあたりの話がすごくやっぱ、こういう対話を語ろうとした時に、これまで明示的には木の葉で出している切り口ではないけど、重要なことなのかなぁと。やー、なんか今言葉にしながら、確かに。最近盲目的だったなと自分に対しての反省も込めながら。確かに。

りょうちゃん:今話してくれたことはめちゃめちゃ重要だなって思っているし、なんかそれを聴きながら、学びのプログラムの目的は何だろうなぁっていうところに問いがきました。それによって多分構成が変わってくるんだろうなぁって。まささんが言った、生きることが変わってくるって言うところがそうなのかも知れないけど、それがもう少し言語化されていくと、いいような気がします。

まさ:学びのプログラムのテーマとして「対話を生きる」っていう言葉が1個置いてありましたけど、対話を生きてる状態ってつまりはどんな状態なんだろうって。その深堀りの先に今の目的にあたる部分がありそうだなぁって感じました。なんか前にちょっとシェアした友人のAさんって人なんですけど、最近対話に生きるゼミっていうのをやり始めて。でもAさんが面白いのが、彼は「に」を使うんですよ。対話「に」生きるっていう。そのニュアンスはどういう感じで分けてるのか分かんないんだけど、多分文法構造的な話で、より、受動能動の世界観ではなく、中動態っぽいからなのかなぁと思って見てるんですけど。何はともあれ、若干タイトルかぶってるなみたいな。どうしようみたいな感じを思ってた。

りょうちゃん:へー、面白い。

まさ:対話に生きるゼミ。

りょうちゃん:面白いですね。

まさ:うん。ちょっとじゃあ、ひとまず今日もあれですけど、チェックアウトしますか。

りょうちゃん:はーい。じゃあチェックアウトをしまーす。

まさ:はーい。

りょうちゃん:なんか今日ダイアードとかで感じたことを言葉に出来たのもすごく良かったなぁって思っているし、多分こんな風に日々色んなことを感じてるんだけど、言葉にしないまま流れて行っちゃうことの方がすごく多くて。言葉にしていくと、ピンを打てるというか、ちゃんと意識としてピンを打てるし、ほんとこの世に出せるっていうのにつながって大事だなぁって思うし、それを考えるとまだまだ暗黙知がたくさんありそうだなぁって。またなんかその学びのプログラムにもグッと近づいていってるような感じもして、良かったなぁって思います。ありがとうございました。

まさ:ありがとうございました。じゃあ僕もチェックアウトすると、今日また一個なんか学びのプログラムの輪郭がはっきりする方向に近づいた感じがするなぁって思って。なんか今日は本当にここにある暗黙知を言語化して、ひとまずこう何かプログラムっぽい形に落とせた時には、結構木の葉を取り巻く世界が変わる気がするなぁと思っていて。なんかそのぐらいインパクトのある、源に立ち会おうとしているというか、そんな感じがして。いやぁこれをほんとこれが言葉になってプログラムとして始まった時には、また世界の、木の葉の周りの世界の景色が、次のページに移行してそうだなっていう、すでにとても可能性を感じています。ありがとうございました。

りょうちゃん:ありがとうございました。

対話の足跡👣 2022.07.28



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長井雅史(まさ)
慶應義塾大学政策・メディア研究科修士課程修了。SFC研究所上席所員。米国CTI認定プロフェッショナル・コーアクティブ・コーチ(CPCC)。日本の同コーチ養成機関において資格を取得し、対話の研究を経て独立。人が身の回りに「質のある関係性」を取り戻すことをテーマとする。現在はコーチングや対話を通じて個人・組織の変化に関わることや、対話を学ぶ研修・ワークショップ、コミュニティづくりに取り組む。また、その傍で古民家をベースに自然とのつながりの中で暮らす場づくりを実験中。共著書に『対話のことば オープンダイアローグに学ぶ問題解消のための対話の心得』(2018年)

田口良子(りょうちゃん)
パーソナルコーチ/対話ファシリテーター
美容師、映像制作、マーケティング、広報など様々な業種・職種を経験した後、「自分のなかに答えがある」ということを基本理念とするコーチングや、「自分の声が聴かれる」経験が蓄積される対話に出会い、それを実践することによって、「人はありのままそこにいるだけで価値があり、すべての生命は美しい」ということに気づく。現在は、人が安心して生き、「ほんとうの自分」 に出会ってもらうための場として、コーチングセッションと対話の場を提供中。
WEBサイト:ありのままに安心して生きる『紡ーTSUMUGIー』

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