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【対話で紡ぐ対話のJourney #004】――対話が生まれるところ

私たち「対話の木の葉」は、どんな感情もどんな声も、相手にも自分にもあるものとして大切にする〝対話のまなざし〟を、誰もが持ち得る社会になることを願って対話の体験や学びを届けています。
私たちが日々対話について探求している内容を、『対話を探求するJourney(旅路)』としてシェアすることで、読んでいただくあなたも一緒にこの旅を楽しんでいただくことへお誘いしています。

今回の旅路を歩む3人、対話の木の葉の長井雅史(まさ)と田口良子(りょうちゃん)


ありのままでいられる対話の場には、なにがあるのか?

りょうちゃん(田口良子):ちょっとまとまってないけど、今感じていること言葉にしようと思います。
どんな感情もどんな声もあっていいっていう、そういうまなざしが対話的であるとしたら、それがある状態、自分の状態や、それがある場においてはありのままで居やすいはずだなっていうのがあって。ありのままじゃない時っていうのは、なんか、まぁ感覚としては変な力が入っている、とか、恐れとか焦りみたいなものが無自覚にある時に、ありのままじゃない感じがある。そこに恐れがあって焦っている自分がいるなって気づいていたら、それを含んだ丸ごとの状態でありのままの状態でいられる、近づける感じがあるんだけど、無自覚だとありのままって感じしないなぁって。
ありのままであると何が起きるのかなぁっていう。
対話の場がみんながありのままにいられる場だとしたら、そこにはどんな作用があって、ありのままじゃないとどんな違いがあるのかなっていうのが今浮かんでいます。

もうちょっとだけ今湧いてきたのを出すと、なんかそこに求めるみたいな感覚とか気持ちがあると、なんかそれも自然じゃない感じがするというか、なんかバランスが崩れるみたいなのが自分のイメージとして湧いてきていて。例えば、癒しを求めて対話の場に来るとか、それはなんか自然な結果として起きることはたくさんあるし、前来た時に癒される感覚があったからまた行こうっていうのはもちろんあるなぁって思うんだけど、その場において癒しを求めてそこにいるっていうと、自然じゃない感じがあるなぁっていうのと、ありのままじゃない時の自分の状態とかを感じた時に、恐れとか焦りからくる、何かを求めてる状態みたいなのがある気がして。なんかそこ通じているのかなぁって。とりあえず思ったことを出してみました。

自分自身が対話でいることで、触れる人に対話の体験を起こす

まさ(長井雅史):僕もじゃあとりあえず今あるものを出してみると。さっきりょうちゃんの話を聴いていて、昨日の場のなかで、そういえば、自分との対話っていう話が出てきて。で、自分との対話が大事だっていう声と、例えば雪山にいたり収容所にいたりしても、そういった状況でも自分との対話があれば、何とかなるのかなぁどうなんだみたいな話をしてて。
僕の中から、多分自分との対話が出来ていれば、そういう状況でも何か希望を見失わずにとか、何かの安心につながりながら生きれるんじゃないかなぁって感じて。

まぁそれでさっき、対話の場に参加して癒しが起こるっていうのがあった時に、何て言うんだろうなぁ、自分自身が対話としてあるっていうことが出来るんだなぁっていうのを聴きながら感じて。自分自身が対話であれば、日々自分と触れる人は対話の体験をするんだなぁって思って。対話の場を創ろうとせずとも、自分が対話であれば、周りで対話が起こって。で、まぁそれは言葉をかみ砕くと、ありのままでいいんだって思えたり、あぁこれがあっていいんだって思えるような体験が、自分が対話であれば周りで起こるのかぁって。まぁ、何て言うんだろう、言葉にしてみると当たり前なんですけど、そんなことを感じて。

自分が対話であるっていうのは何だろうって思うと、やっぱりまず自分が自分自身と対話的に関わっているというか、自分の内的なポリフォニーとか、内側に広がる社会みたいなものとの間で対話の関係を結んでいると、自分自身が対話になるんだなぁっていうのを思ったりとかしてました。なんか、そのbe the change的なそのあり方からみたいな話はよく聞く話なんだけど、なんか分からないけど自分の中で、対話になる対話であるみたいなのは、新鮮な気づきがあるなぁっていうことを感じてました。


自分で自分の声を聴いてあげることができると、日常に対話が生まれてくる

りょうちゃん:今のまささんの話を聴いて、自分が自分に対して対話であるっていうのはすごく大事な一歩目なんだなぁって感じて。自分自身に対話でいられたら、それこそありのままでいられたかも知れないなぁっていうのが湧いてきて。
人に対して対話的であるとか、対話の場を創るとか、その時だけじゃなくて、普段の生活の中とか身近な人と関わる中でも、まず自分が自分に対して対話であるってすごく大事だなぁって。
私がありのままでいられなかったなぁって思った時に、なんかちょっと自分に対話的に話しかけるみたいなことが出来ていたら、違ったかも知れないなぁ。

もう一つ感じるのは、対話の場での癒しは、なんか色んなシーンで色んな起こり方があるんだろうなぁって思うんだけど、一つ大きなものとしては聴いてもらったっていう、聴いてもらえたっていう体験が大きくあるんだろうなぁって思って。
人に聴いてもらう体験とか聴きあうっていうのはすごく人間らしいつながりだったりとか、大切な営みとしてあるなって思っているし。でもやっぱりそこにも、その前に自分が自分で、自分に対して対話的に聴いてあげるっていうステップがあるといいんだろうなぁって思っていて。
対話の場が日常のものではなかなかなかったりするし、 誰かに聴いてもらうっていう、もちろんすごくそれは素敵なことだし、自分では聴ききれなかった声が生まれたりもするんだけど、まずは自分が自分の言葉や声を聴いてあげるっていうことができると、それこそ日常に対話が生まれてくるのかなぁって。自分で生むことができるのかも知れないなって。そんなことを思いました。

「自分との対話」っていう言葉って、自分の中でも普通に今まで使ってきた、自己対話とか、使ってきた言葉としてあるんだけど、自分が自分に対して対話でいるっていう表現をした時の感じと、すごい自分の中で違うんだなぁって思って。
自己対話とか自分と対話するって、今まで自分の中でやってきたような、こういうものっていうイメージだと、結構ちょっとこう詰問に近いというか、何を感じているんだみたいな、何を考えて何が起きてるんだみたいなこと、そんな感じで自分に問いを立ててた、自分と向き合ってた感じがするんだけど。
自分に対して、それこそ木の葉が言っている、どんな感情もどんな声もあっていいとか、ありのままでいることっていうことを対話とした時の、自分が自分に対して対話でいるっていう風に感じると、なんか全然質感が違うので、ほんとにこう緊張してしまっているとか、何か恐れを奥に抱えている自分に対して、本当に「どうしたの?」って、「今何があるの?」って聴ける感じがするんだなぁっていうのが。これからはそっちの対話を自分としたいっていう感じが今湧いてきました。

自分の内側で対話が起こる状態になった時に、そのたたずまいが場にも影響を及ぼして、場が変わる

まさ:チェックアウトをします?あっという間だけど。僕チェックアウトとして最後にひとこと出すと、今日の最大の発見は、beingがとかよくあったり、あり方がとかよく言うんだけど、もしかしたら今日、改めてかも知れないけど、すごいこう腑に落ちる形でその話が気づきにつながったなぁって思って。
自分との間で自分に対して対話的に接していたり、まあそれはもしかしたら、すごく簡単にまとめると全受容的な、なんかそういうまなざし、姿勢だったりする気がするんですけど。
例えば、あぁなんかありのままでいれないなぁって思う場所とか、なんかちょっと居心地悪いなって思う場所にいたとしても、その時って多分、それに自覚的であるかどうかは置いといて、場として何かが表現しづらかったり、抑圧されやすい何かの、気が流れているような場の状態なんだろうなって思って。
それはほんと、人間であれば、人間が集まれば何らか起こるものではあると思うんだけれども、そういう時も、自分がそこに気づいて、その自分に対して対話的に関わってあげて、自分の内側で対話が起こる状態になった時には、多分その人のそのたたずまいが場にも影響を及ぼして、その前には、その場においては出しづらかったり、抑圧されやすいところが、誰か一人のその変容によって場としても変わるみたいな。
なんかそういうことがきっと起こるということを今日、なぜか今日すごくありありと、なんか見た気がして。だからほんとそういう意味で、目に見えない話、明確には目に見えづらい話だから、これまでもしかした実感しづらかっただけなのかも知れないけど、本当にその人がどうあるかっていうことが周りの世界を創ってる、そこまで言うとちょっと大げさだけど、何かは影響を及ぼしていて。自分が自分の内側に対して対話的である人がいると、その人に触れた人は対話の体験をするんだろうなっていう。
なんかそれがすごく、日常における対話っていう観点で大きな気づきだったなっていう感じです。ありがとうございました。

りょうちゃん:ありがとうございます。じゃあチェックアウトをすると、まささんのチェックアウトが私もそのまんま、なんかその腑に落ちる感じとか、あぁそっかみたいな感じがあったのと。その、対話のプログラムをやる時に、まずこれが最初に来るんじゃないかっていう感じがあって。
ほんとにこの体験がその人に起こるようにできたらいいなって。
私たちが今日感じたような、自分との対話みたいな言葉や知識だけじゃなくて、例えば傷ついている人に対しての眼差しを、自分に対しても本当に同じようなあたたかさとか慈しみをもって自分を見てますか?みたいなところが体験できるといいなぁって思ったし、それはまだまだ私もそのジャーニーの途中だからそれをプラクティスとしてもやりたいなぁっていう。

まさ:やー。そうですね。僕もほんと思いました。これ、最初の導入として大事な話だなぁっていうのを思ってました。

りょうちゃん:そうですね。

まさ:またひとつ、輪郭が見えた気がします。

りょうちゃん:そうですね。面白いですね。ちゃんと見えてくるのが。

対話の足跡👣 2022.08.29


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長井雅史(まさ)
慶應義塾大学政策・メディア研究科修士課程修了。SFC研究所上席所員。米国CTI認定プロフェッショナル・コーアクティブ・コーチ(CPCC)。日本の同コーチ養成機関において資格を取得し、対話の研究を経て独立。人が身の回りに「質のある関係性」を取り戻すことをテーマとする。現在はコーチングや対話を通じて個人・組織の変化に関わることや、対話を学ぶ研修・ワークショップ、コミュニティづくりに取り組む。また、その傍で古民家をベースに自然とのつながりの中で暮らす場づくりを実験中。共著書に『対話のことば オープンダイアローグに学ぶ問題解消のための対話の心得』(2018年)

田口良子(りょうちゃん)
パーソナルコーチ/対話の木の葉ファシリテーター/研修トレーナー
美容師、映像制作、マーケティング、広報など様々な業種・職種を経験した後、「自分のなかに答えがある」ということを基本理念とするコーチングや、「自分の声が聴かれる」経験が蓄積される対話に出会い、それを実践することによって、「人はありのままそこにいるだけで価値があり、すべての生命は美しい」ということに気づく。現在は、人が安心して生き、「ほんとうの自分」 に出会ってもらうための場として、コーチングセッションと対話の場を提供中。
WEBサイト:ありのままに安心して生きる『紡ーTSUMUGIー』

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