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【稀人ラジオ 㐧二夜 編集後記】 語りと嘘

第二回は、前回の続きから笑いの暴力性とゲーム性といったテーマについて喋っている。この編集後記では、話した内容とは少し別の目線から書いてみたい。

ポッドキャストを始めてみて改めて興味深いと思ったことの一つに、記憶ちがいというキーワードがある。これはずっと前から気になっていることで、以前、幼少時代の記憶ちがいをテーマにしたエッセイも書いた。

第二回のエピソードの中で、笑いがいかに暴力的な本質を持っているかという文脈で、昔テレビ番組でやっていた青汁フリバトルについて喋った。それ自体はお笑いにおける「フリ」には構造的に不可避の暴力性が横たわっているという納得できる話だったと思うのだが、その描写の細部に記憶ちがいが混じっていたことに後になって気づいた。久しぶりにYouTubeでアップロードされている番組の回を見つけて見直してみると、これが自分が話した描写と絶妙に違っている。

劇団ひとりとおぎやはぎの小木のバトルという登場人物の構図こそ合っているが、ラストスパートにかけての掛け合いに関しては、かなり異なる箇所が多かった。そして終盤に至るまでの、今見返してみればつまらない寸劇パートは、記憶からすっぽりと抜け落ちていて、印象に残った箇所だけが頭の中で再構成され、「笑いの暴力性」という見出しのもとで語り直された。

ポッドキャスターがこぞって「※事実とは異なる可能性があります」と補記するのも頷ける。語りにはその特性上、どうしても事実ではないものが混じってしまうからだ。

これは喋るという時点で、脳内で編集という作業が挟まっているからに他ならない。私たちは2時間の映画を5分に圧縮して話すこともできれば、4時間に膨張して話すこともできる。同じ体験をしていても話者によってその話ぶりが全く異なっていて、「あなたそんなふうにあの体験を見てたの?」なんてことはざらにある。逆に言えば私たちは事実をありのままに話すということはあり得ない。そういう意味では「事実とは異ならない可能性」の方が低い。

私は、語りにおける各人の編集の過程で混ざってしまうこの記憶ちがいこそがミソだと思っている。

『ラブ、デス&ロボット』というNetflixのオリジナルシリーズでもアニメ化された『ジーマブルー』というSF小説がある。その中で、芸術家のジーマが記者のクレイ(アニメ版ではクレア)に記憶の未規定性について話す。記憶違いにまつわるシーンだ。

小説の舞台は遥か未来。医療技術の発達により、寿命は1000年以上も生きられる程に長くなっている。自然な状態であれば、生体の記憶は数百年ほどで飽和するため、記憶の管理にはAM記憶助手というハチドリ型のバックアップシステムを同伴し、さらにはそのシステムを神経にインプラントし、記録装置と自意識を統合する技術まで浸透している。小説世界の中で、人々が何かの選択をする際には、自分の趣味嗜好を克明に記録したデータに基づいて、より適切な方を選ぶことができる。その記録装置のおかげで"記憶はゆがまず、忘却もしない"。

ジーマは、クレイに赤ワインと白ワインのどちらがいいかを尋ね、その会話からジーマは記憶装置が完璧であるがゆえの問題点を指摘する。

ジーマ「たとえばあることを、そう、この会話を百年後に思い出すとします。すると記憶違いがいくつか発生する。その誤った細部も記憶の一部になり、思い出すたびに立体感と感触をともなってくる。千年後に思い出すこの会話は似ても似つかないものになる。それでも他正しい記憶だとあなたは主張するでしょう」

クレイ「AMを同伴していればここでの会話を克明に記録できたはずです」

ジーマ「でもそれは生きた記憶ではない。写真です。機械的な記録プロセスであり、想像力は排除される。選択的な記憶ちがいの細部は生まれない(…)想像してみてください。こんなふうに野外ですわって午後を過ごす機会があるたびに、あなたはほぼ毎回、白ではなく赤ワインを選ぶ。その選択をとくに悔やむ理由もない。ところがあるとき、なんらかの理由で、AMの判断に逆らって白を選んだとします。そしてそれはおいしかった。そこに話し相手と、会話と、遅い午後の雰囲気と、美しい眺めと、いい酔い心地が魔法のように組み合わさる。そんな完璧な午後が完璧な夜へと続いていく」

クレイ「ワインの選択とは関係なく起きることでは?」

ジーマ「そうです。だからこそAMはその幸福な状況の組みあわせになんら重要性をみいださない。一回限りの例外的な事象で予測モデルはほとんど変わらない(…)」

クレイ「人間の記憶はそうではありませんね」

ジーマ「そうです。人間の記憶は一個の例外にこだわり、過度な重要性をみいだす。午後の記憶の魅力的な部分を強調し、不愉快な要素は抑制する。顔のまえを飛び回る蝿や、帰りの船に間に合うだろうかという心配や、午前中に買い忘れた誕生日プレゼントについては忘れてしまう。黄金色に輝く幸福な思い出だけが残る。すると次回も白を選ぶかもしれない。その次も。一回の例外で行動パターンが大きく変わる。」(…)

クレイ「それは誤謬です」

ジーマ「誤謬がなければアートではない。アートがなければ真実はない

クレイ「誤謬が真実を導くと?おもしろいですね」

ジーマ「この場合の真実とは、高い次元の比喩的な意味です。さっきの黄金色の午後の話。あれが真実です。飛びまわる蝿を思い出しても本質的には何も加わらない。むしろ削られる

この会話はアニメでは省略されているがとても重要な会話で、「なぜ人間が表現をするのか」という作品全体を貫く根幹のテーマとも関わってくる。

ジーマは記憶ちがいによって生まれる誤謬こそが真実を導くと話している。記録と記憶の違いは言い換えれば、事実とジーマの言う比喩的な意味での真実の違いである。

ZIMA BLUE。それが真実なのである。情報の厳密さではない。情感。受け取った時に、自分の脳の中で巻き起こった現象。それを伝えられるのがポッドキャストというか、語りの魅力だと思う。

とにもかくにも、語りには嘘がつきまとう。私は、この嘘にとても関心がある。嘘つきにまつわる研究をしたい。しりすぼみになったがここで終わり。

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勝俣 泰斗
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