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何かが変わりそうな気がする。
会社を辞めた。4年勤めた会社を辞めた。なんやかんやあって体制が変わったりしながらも、結局辞めた。いつからかディレクションをするようになったギャラリーは自分の中でもどんどん比重を増していって、この数年で美術に対する興味も、世の中に対する興味も増していった。作品について喋る時間は、何にも変え難く、3年前よりもはるかに体重を乗せた話し方ができるようになっている。わからないことがわかるようになっていって、話せなかった人とも話せるようになっていく。楽しい。
ニューヨークで学生の時から一緒にいた友達と久々に時間を共に過ごす時間は、ギャラリーで作品や美術について考えている時の脳みそとは全然違う頭の使い方をするけどそれでも楽しい。それでラジオを始めた。なんの専門性もないただの雑談話だけど、少しずつ何かを理解している感じがある。何かを話し出す。何かを提起する。その逆を考えてその理解の方向性を探す。すると最初に提起したことに逆行する何かが生まれる。新しい問題提起。それもまた話しているうちに裏返されて、結局何度も同じところに戻っていく。何を善とし、何を悪とするかも、何度でも裏返る。メンコみたいに。それでも考え続けて話し続ける。もはや彷徨うためだけに続けている。体力の続く限り。もはや正しいとか正しくないとかがない。何度でも裏返るという確信があるからこそ曖昧なものを曖昧なままぶつけられる安心がある。今は間違っている。それでも大丈夫。その時はそう思った。そう言えることは恥ずかしくない。
『チ。』をアニメで追っている。満ちている金星を目にした時のオクジーの視界にダイブする。あの瞬間を見れたら死んでもいいと思える。『ブルーロック』も見た。覚醒していくチームの躍動に震える。フェーズ1が終わって、新しいことが動き出している。楽しみ。『M-1』を観た。想定した物語が何度も覆された。物語とより大きな物語の衝突。どっちにライドしたいかがそのまま笑いになる。笑いは社会を移す鏡だなと思う。
「Xはおしまい」の号令に最初はノレた。移住したThreadsはねじれた形の地獄が広がっている。Mixi2が出た。95年生まれで中高がネット禁止だった僕の中には少し上の人たちが感じている懐かしさが醸成されない。だけど特に不自由はない。冷笑ムードもキャンセルムードも一周回って、見渡せばあらゆる場所から別の何かがバンバン生まれ出ている。確かにまだ旧態依然とした雰囲気のものだってあるし、なんだかなあと思うことだってある。むしろ旧態依然としたものをリバイバルする動きも出始めていて、それすらも一周回ってありになってきている感覚が芽生えている。どんな言説も事象も、その時の現在地でしかなく、それは確定的なものでも絶対的なものでもない。
引っ越してから近くの古本屋に通うことが増えた。手垢のついた古本を発見した時の喜びはたとえようがない。今欲しかったものが、そこにある喜び。古いものを辿っていって、引き返せない迷宮に迷い込んでいく快楽。今年は小林秀雄の全集と折口信夫の全集を買った。まだ5%も読んでない。読もうと思えばいつでも手に取れるという状態が喜び。ちょっと遠出すれば、下北のB&Bにも、青山ブックセンターにも、蔦屋代官山にも行ける。買おうと思えばいつでも買えるというほど、金回りはよくないけど、「いつか読もう」リストにどんどん本が溜まっていって、本屋を散策している時は、頭の中にマップが出来上がっている。それだけで幸福。今年は読んだ本も大量にあるが、積読も大量に増えた。引っ越してから真っ先に2x4で自作した本棚を見るとクオリティは低いのに惚れ惚れする。本が雪崩れないように、これまで新潟や奥多摩の山奥で収集してきた石を棚に置いて重しにしてある。その石を手に取ると拾った時の自然の風景がありありと目に浮かぶ。最高だ。世の中は面白いもので溢れている。
本と違って美術に関しては、見たいものがすぐに生で見れるというわけではない。それでも翻訳をかけてネットの記事を漁る。メディアに載っている以上誰も見てないはずはないんだけど、自分だけが見つけたみたいな錯覚に陥ったりして、それも一つの快楽をもたらす。大きいビエンナーレや芸術祭は、この数年間ずっと正しいことを訴えかけようとしている印象が強いけど、その運営体制に正しくなさが紛れ込んでいたりして問題が表出するのを目にする。もう正しいと言うことの閉塞感に辟易してきたと思った瞬間に、そのカウンターで、新しいことを考える人間が出てくるのを見つける。つまんないと思った瞬間に、別の楽しいが顔を出す。最近面白いことばかりだ。
こんなに何もかもが一周する周期が早く感じるのは、今の時代だけなんだろうか。M-1に熱狂したのははるか前な気もするけど、実は一週間しか立っていない。ちょっと前までは、自分で曲を作りたいと思ったら、ギターを練習してなんとか弾き語りの真似事みたいなことをしていたが、今やSUNOに歌詞をぶち込んで、出てきたのを微調整しながら同時に何曲も作れる。最高。ChatGPTは完全に自分よりまともなメールが書けるようになっているし、自分が怠惰でさえなければ完璧なプロジェクト計画まで立ててくれる。ありがとう人類の集合知。最近ラジオで出てきた「もはや俺は人間である必要がない可能性がある」と言う相方のパンチラインを思い出す。本当にそうかもしれない。それでも楽しいと思えるのはなぜだろう。
今年は政治もなかなかのエンタメだった。都知事選も兵庫県知事選もアメリカも何やら大きな何かが働きかけているんじゃないかと思うくらい人々の関心が蠢いていた気がする。陰謀論にハマるやつ、陰謀論だと冷笑するやつも全部より高次の物語に回収されていく。身の回りで占いやらスピリチュアルに傾倒する人たちもよく目にするようになったが、その人たちの話をよーく聞いてみると、なかなかに面白い世界線で物事を捉えていたりして、普通に楽しい。極端に何かから距離を取るという執着から逃れると全部welcomeになる瞬間がある。そういうルールで進めてる話があるなら、ルールに突っ込むのって野暮じゃん、って感じ。
ラジオを撮り始めてから話すという行為をより強く意識することになった。誰から聞いた話、どこかで読んだ話を自分のフィルターを通して話し直すときには必ず誤謬が発生する。おそらく話すことそのものが誤解や勘違いを増幅する装置になっていて、何が真実かどうかとかいうのはかなり曖昧なものでもある。誰かの言葉尻ばかり追ってそこに厳密性を求めても仕方がない。言葉は情報でもあり生き物でもある。生きて蠢く言葉に囲まれて生きるのは楽しい。誰かの発言は誰かを規定するものでもあり、それほどのことでもない。Aであり、Aでない。Bでなく、Bでなくもないくらいの感覚のものしかない。松岡正剛が亡くなったが、こう言うダブルスタンダードはまさに日本的方法なのだなと思う。コクがありキレがある。矛盾したことを言う。中国から漢字を輸入したのに、訓読みと音読みを並列させて使い続けるジャパニーズはクレイジーだよ。
進撃の巨人でガビが「何かが変わりそうな気がする」と言っていた。何かが変わりそうな気がする。何でそう思ったかは具体的にはわからないけど、そんな気がする。ポストモダンの時代に主流はない。だからカウンターは生まれにくいというのは確かにそうなんだけど、首突っ込んでいろんなところに目をやってみると小さなカウンターが乱立している。2024年が終わる。何かが変わりそうな気がする。
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