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『デカルトからベイトソンへ』 第一章 読書メモ

『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化』を読み始めた。紹介によるとモリス・バーマンによる近代科学糾弾のパフォーマンスだという。読んでみた印象としては、アジテーションっぽい語り口だが、図式的で非常に読みやすい。

科学批判的な態度は小林秀雄がベイトソンを語りながら同じようなトーンで話していたのを思い出す。ベイトソンについては前々から気になっていたが、まだちゃんと読めてない。とりあえず、本書の後半にベイトソンに関する包括的な紹介が待っているみたいなので楽しみに読み進めていきたい。


本の概要

この本では、現代の混迷の由来を科学革命にあるとする。それまでの人間の世界の認識は、自分を含む環境と融合し同一視したものであった。生の物質的な面と精神的な面は分ちがたく結びついており、 個人と宇宙も哲学的・宗教的に意味づけられていた。そのような意識を「参加する意識」と呼ぶ。その「魔法にかかった(魔術的な)世界」が変容することになった契機は、近代にあるという。

16世紀・17世紀にかけて起こった科学革命から現代までを、魔法が解けていく物語、人間精神の全体性が破壊されてしまった物語として読み解く。本書で、問題にされているのは「私の分離」である。それは、とどのつまり自己を世界に対する観察者として切り離し、主体と客体が対立し、肉体と精神を切り分ける実証主義的な「科学的意識」であり、それがひいては現代のメンタルヘルスや労働といった様々な問題に関連しているという。

その科学的意識の源流を近代的科学の始祖デカルトを置き、科学革命によって失われてしまった魔術的世界観をデカルト的パラダイムの本質と起源を明らかにすることによって取り戻そうというのがこの本の試みである。

プラトンとアリストテレス〜古代ギリシャ的中世的世界観〜

第一章では、古代ギリシャから17世紀までの間に世界のリアリティを捉える方法がどう変化してきたかを6人の重要人物を通して3段階で語られる。1つ目の段階は、古代ギリシャ的〜中世的世界観。重要人物はプラトンとアリストテレス。2つ目の段階は、近代的世界観の誕生。重要人物は、ベーコンとデカルト。3つ目は近代的世界観をベースに科学革命に至る道筋。重要人物は、ガリレオとニュートンである。

古代ギリシャ的な世界観では、質を原理とする有機的な宇宙が支配していた。世界の真の姿を知る方法として、プラトンは「理性論」を、アリストテレスは「経験論」を用いた。理性論では、感覚データを廃し「純粋理性」を真理への道と捉え、経験論では、外界から集めた情報を統合し、一般化することを方法とする。両者に共通することは、観察された現象の背後に「形相」を置き、「目的論」的な見地で現象を理解しようとする点だ。全ての現象には、非物性的な原理があり、目の前で起きていることはそれらを象徴する事象に過ぎない。その原理そのものがリアリティの本源であるとする考え方である。そこには、なぜ世界はそのようであるか、"why"という問いが横たわっている。

ベーコンとデカルト〜近代的世界観〜

17世紀まで続いた古代ギリシャ的〜中世的な世界観は、「理性論」と「経験論」を具体的な道具に煮詰めていく形で、ベーコンとデカルトの登場によってはっきりと更新された。理性論とは言い換えれば、「思考の法則がものの法則に一致する」ということ。経験論とは、「モノからのデータに思考を一致させる」ということ。ベーコンはそのための道具に「実験」に用い、デカルトは「数学」を用いた。ベーコンは、知を力と、真理を有用性と結びつけた。デカルトは、数量化による把握を確信と結びつけた。そして、この二人の方法論が、静的な思索から動的な科学への転換を成し遂げた。世界は思いを巡らす対象から、それに対して働きかける素材へ。いかにあるかから、いかに為すかへ。

ベーコンは方法論上の大転換に際して、明確にアリストテレスを意識している。アリストテレスの論理学の集成が『オルガノン』(道具)と呼ばれていたのに対して、『ノヴム・オルガヌム』(新しい道具)という著作を上梓したベーコンは、テクノロジーこそを新しい認識論の源泉と捉えていた。自然を記述しただけのものに意味はない。真に自然を知るには、徹底的に人工的な条件を作り出し、自然の拷問台としての実験にかける必要があるのだと。その際の科学者の精神も、自然に任せてはならない。ベーコンは機械論的世界観を作り上げる上で、それを抱く人間の心も機械のように振る舞うことを要求した。

デカルトも同様に、従来の形而上学的な哲学議論を徹底的に批判した。反自伝的な要素も含む『方法序説』では、これまで自分が学んできた学問の無意味さを述べ、自分が知っていると思っていたことの全てに疑義を投げかけるという徹底的な懐疑主義を持ち出した。そして、有名な「我思う、故に我あり」という唯一の確信に辿り着く。そして、私以外の外界を知るためのステップとして、幾何学に基盤を持つ知の獲得法を追求した。まず、複雑に見える問題を複雑さのままに記述すること。次に、不明瞭な問題を分解し、もっとも単純な構成要素を取り出すこと。そして、純論理的に問題を再構成すること。分解し再構成した以上は、人知によって征服したことになる。この思考体系が西洋における意識の歴史を方向付けた。

デカルトが描く本質的人間は、世界と自己を切り離して、先の方法を機械的に適応していく。デカルトの宇宙は、物体と運動からなるひとつの巨大な機械であり、非物質的に見えるもの、例えば磁力の現象であっても、その背後の物質的作用を記述し、分解し、再構成することで解明されるものとする。人間存在を純粋な論理思考と同一視し、理性を通してすべてを知ることができるという考え方は、精神と身体、主体と客体が根本的に分離したものであるという前提を持つ。

ベーコンとデカルトの両者によって煮詰められた理性論と経験論は、知を形作る一対として相補的に働く。理性論者のデカルトも実験を用い、ベーコンもデカルトの数学による定量的なアプローチを採用する。この二人の方法論は、ガリレオとニュートンの実質的な成果によって、裏付けされていく。理性論と経験論の合体。

ガリレオとニュートン〜科学革命へ〜

アリストテレスの目的論的物理学は、なぜを問う学問だった。ものはなぜ落下するのかという問いに対する答えは、地球の中心が「本来の居場所」だから。それまで大きな物体や密度の高い物体は、軽い物体よりも早く地面に落ちるとされていたが、ガリレオはどんな物体も所要落下時間が同一であることを「実験」というやり方で立証した。基本的な思考姿勢には、落下する物体は命のないものであり、ゴールも目的も存在しないという客観性がある。宇宙には、物体があり、運動がある。それを観察し定量化できる。宇宙にwhyはない。あるのはhowだけ。

ガリレオは、現象を時間と距離の測定によって抽象化した。摩擦のない平面、質量を持たない滑車、空気抵抗のない自由落下といった「理想状態」はガリレオの遺産である。常に対象である自然から観察者としての自分を分け隔て、自然を単純な構成要素に分ける。その本質を物体、運動、測定値に絞って捉える「参加しない意識」はデカルトから直結している。ガリレオによって、自然を知るということは、自然を操作するために知るということと等価になった。「参加しない意識」の完成と、why⇨howへの問いの転換は、ベーコンの言ったような「真理と実益の結びつき」を強化している。真理=実益という等式の中では、実用性に欠けるもの、利益をもたらさないものは、無益なものとして排除される。現代における事実と価値の分裂の問題もここに突き当たる。

理性論と経験論の合体は、ニュートンによって自然哲学的体系にまで高められた。ベーコンがアリストテレスを意識したように、ニュートンはデカルトを意識的に更新しようとした。一般的に『プリンキピア』(原理)と呼ばれる著作の本来の題名は、『自然哲学の数学的論理』であり、デカルトの『哲学論理』を意識している。ニュートンは、宇宙をわずか四つの単純な数式に要約した。月と地球の間で起こることも、落下するリンゴと地球の間で起こることも、同じ単純な数式で表した。これまで神秘的だった宇宙の謎が数式によって解き明かされてしまったのである。ニュートンは、デカルトを更新しようと奮闘したが、思想的な面ではデカルトの根本思想を強化する羽目になった。つまり、世界は物体と運動からなる、数学的法則に従う巨大な機械であるという考えである。

そして、ニュートンにもわからないことがあった。万有引力の法則についてはわかったが、それがいったい何なのかということだ。つまり、なぜ重力があるのかという意味である。そして、ニュートンもガリレオと同じ道をとる。科学革命における重層低音として響いているひとつのテーゼである。化学にwhyはない。あるのはhowだけ。重力が何物であるかは説明できなくても、それは問題ではない。測定できない現象は、実験哲学には無用なのである。

まとめ

これが第一章で説明されていることだ。17世紀が進展する中で新しいリアリティの認識が生まれたということ。それは、質から量へ。whyからhowへの転換。科学とは、自然を抽象化し、定量化することで、操作の可能性を広げること。真理とは有用なものであるというパラダイムが、世界を制御することと同義であり、生態系のリズムに身を委ねることから、目的意識によって世界を管理することへの転換であること。そして、科学革命は産業革命によって一般化されるに至る。


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勝俣 泰斗
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