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木彫りをさわってみる(雑記)

また私事で雑談的なところから始めたいと思います。

僕はアイヌの木彫りが好きです。子どものころに北海道へ家族に連れられていきました。おいしい食べ物、大きな景色、狐とのふれあい、ラベンダーの紫、摩周湖、そしてアイヌコタン・・。コテコテの観光バス的観光でしたが、子どもながらにアイヌコタンの独特の雰囲気が一番印象的で、忘れられないものを感じていました。

アイヌコタンに夜、訪れたのですが、子どもなので長い時間いることはできませんでした。その限られたわずかな時間で、松明やオレンジ色の照明に照らされた小さな空間で、いろいろな物を見、木にふれ、作品を鑑賞し、木彫りの実演も拝見しました。

それから30年以上経っている今でも、ときどき後ろ髪を引っ張られるように、アイヌコタンの雰囲気を想い出します。あれは必ずしも楽しかったとか面白かったとかそういう類の印象ではなく、どこか薄暗く、底の方で何かうごめているような、力強い独特の印象です。

こちらは砂澤ビッキのエカシ(長老の意)という小品です。高さ15×横6×縦5cm。ざっくりいうとスマホを少し厚くしたくらいの大きさです。

オーラの漂う、雰囲気ある作品です。威厳があり、怒りや畏れのようなものも感じます。

しかし小さい。さわってみるととても滑らかに磨かれていることに気づきます。実に手ざわりが良いです。ところどころアイヌ紋様が施されており、この着物を妻と思われる方がていねいに気持ちを込め刺繍したのをイメージさせます。そんなのを着ている。持ってみるととても軽く、91gしかありません。またスマホと同じくらいの大きさなので握りやすいです。

怖さが優先しますが、どこかあたたかい親しみやすさを感じることもできる木彫りなのです。

砂澤ビッキの父はエカシだったことから考えると、お父様をイメージしながら彫られたのかもしれません。母の縫った服を着させ、杖をもたせ、威厳のある怖さ、畏れ、怒り、それでもどこかあたたかさや親しみやすさのある・・。

彫刻は内へ内へとはいりこんで仕事をする。存在し永続せよとばかり、生命をおび、魂にあふれた仕事である。
ヘルダー 『彫塑』 中央公論社
彫刻は美しい形を作る。中へ、中へと押しこむようにして、「呈示し表現する」(darstellen)。それゆえ彫刻は必然的に、その呈示に価するもの、それ自身として「存立している」(dasteht)ものを創造しなければならない。彫刻は絵画のような並存によって、一が他をたすけ、しかもそのためにすべてがまずくならないようにすることはできない。なぜなら、彫刻では、一が全であり、全は一にほかならないからだ。
同書

僕はそんないのちの宿る木彫りをさわっています・・



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