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いのり、さわる、ふれる(雑記)

今回はとても主観的なお話です。

前回いただいたコメントで、くろがねさんから、「さわる」や「ふれる」は物的な側面だけでなく霊的な側面ももつのではないかということ、渡邊さんから、近づきすぎない方がかえって良い関係性を築けることがあること、marry015さんから、「さわる」という過程を経て「ふれる」に至るのではないかということを教えていただきました。

僕にとって、とても有意義な対話で、自分の理解の浅いことに気づけましたし、だからこそ理解を深めたいという気持ちが高まりました。それぞれの対話ののちに、何となく思うところができたのでそれを綴ってみたいと思います。

僕は生きていく中で三つの行為を大切にしています。くらす、はたらく、いのる。そのいのりの中で「さわる」と感じるときと「ふれる」と感じるときがあります。

僕はいのるとき、何かを感じとろうとしたり、対話を試みようとしたり、お願いごとをしてみようとしたり、かえってただ単に無心になろうとしたりしています。いずれになるのかは、あるいは別のなにかになるのかは、いのるたびごとに異なります。とても主観的に状況に合わせて選ぶというか選ばれている気がします。

そのいのりをする中で、僕にとっては、「ふれ」ていると感じることもあれば、「さわ」っていると感じることがあるのです。

どちらが正しいとかふさわしいとかは思っておらず、やはり状況に合わせて選ぶというか選ばれている気がしています。

逆にいうと、状況によって「ふれる」ことがふさわしいと思うときがあり、「さわる」ことがふさわしいと思うときがある、ということです。あくまでも僕にとっては、です。皆さんにとってとか、他の誰かにとってとか、そういう意味合いをもつつもりはまったくありません。ごく主観的なことです。

「ふれる」も「さわる」も接触する意味をもちますが、前者は双方向的で後者は一方向的だということはこれまで見てきたとおりです。

いのる中で、渡邊さんの言葉を借りれば、近づきすぎない方がかえって良い関係性を築けるときもあり、そんなときは「さわる」ような祈りを僕は心がけています。なにか、こう、つかず離れずのような状態、あるいはついたり離れたりするような状態が断続的な祈りの間に流れているような気を持っています。

ごく個人的な、そしてごく主観的なお話です。

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