人間性の回復と共育
前回、結びにこのように申し上げました。
「もし日本社会が脱成長化しつづけ、資本主義的性格を薄めていくのであれば、その時こそ、人間性の回復を教育課題として取り上げて、真に取り組んでいくべきなのではないでしょうか。」
・・で。そもそも人間性ってなんだっけ?という話を今回は書いてみます。
先日、僕は奇妙な感覚に陥りました。
「あれ?僕って人間だっけ?」と、問いが浮かんできたのです。
もちろん生物学の分類上は人間でしょう。けれども、僕が人間性のある人間かと問えば、そうとはとても言えないよね、と思えるくらい人間ではありませんでした。
例えば↓は人間です。
それに比べて、オフィスで日がなパソコンに向かってカチカチ押したり、カタカタ打ったり、ペラペラ喋ったりしている僕は、まず自分に嘘をついていて、他人の言うことをいちいち疑い、利益になることを考え、そのくせあたかも「わかっている人」のように話しています。
そんなのインチキでしかない!
と感じました。
人間性とは何か。ひとつの方向性にこんなのがあります。
子どもに人間性を見いだす方向です。
これにはターシャも近い見方をもっているようで
と言っています。
子どものころ(それも生まれたてに近づくほど)は、自分に嘘をつかず、他人を疑わず、利益なんて考えず、所有の概念はこれっぽっちもなく、共有の感覚を自然にもち、今を精いっぱい生き、現在を享受し、感情豊かに、感じたままを身体で表現します。
少なくない大人たちはそれを見てほほ笑み、愛しいと思います。ここです。ここに大人の学ぶところがあります。
大人はたしかに子どものころからいろいろと経験し、成長し、教育を受け、社会で生きる処世術を身につけ、今たしかに生きています。しかしその実、自分に嘘をついたり、利益を優先したり、所有欲に駆られたり、感情を抑えて、未来に向かって生きている人は決して少なくない。
本当にそれが正しいのか。適切なのか。もっと自分に正直に、思うまま行動し、所有ではなくみんなと共有し合い、未来を恐れず、現在をまっとうに生きることはできないのか。子どもたちはそんな問いを投げかけてくれています。
僕はそこに共育の萌芽を大人側に見ます。