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なににふれるのか?(雑記)

坂部恵は精神科医のミンコフスキーから引用して、以下のようなことを述べています。

 「ふれる」ことは「単に感覚によって知覚し、指示することではなく、さらにその展開としてより深くへ侵入し、かくしてわれわれの存在のもっとも深い層にふれるためにあるのである」。ふれることは、世界を知覚し、思考するのではなくて、世界の内に生きることにほかならない・・・あるいはそれは、「諸々の存在と諸々の事物とがそこにおいて浸され会合する万物照応の深さの世界、深さの宇宙にふれることにほかならない」。
「ふれる」ことの哲学 坂部恵 岩波書店

このようにも述べています。

 ふれることを通じて宇宙のいのちにふれるとき、わたしは、いわば端的に閉ざされた日常の自我の殻を破って、宇宙のいのちそのものと位置を入れかえ、宇宙のいのちそのものとなる。
同書

「ふれる」ことによって、宇宙にふれたり、宇宙そのものになっている、というのです。ちょっと大げさな気もしますが、少し考えてみたいと思います。前回、このようなことを述べました。

「ふれる」という触覚は、主客がはっきりとは分離しておらず、つながる、結びつくなど相互が密接に作用している

「ふれる」ことによって、「ふれる」人がその対象とつながり、結びつき、主客がはっきりとは分離していない状態となります。

たとえば大樹に「ふれる」とします。それは御神木かもしれませんし、森で人の寿命をはるかに超えた永い永いあいだ生きつづけている木かもしれません。とにかくそれに「ふれ」てみる。僕たちはただ木肌を感じているだけなのでしょうか、むしろなにか対話をしているような気もしてこないでしょうか。自分よりもずっと永く生きてきている木に「ふれ」、時を超えるような瞬間を感じたりしないでしょうか。

たとえば家族で牧場に行って、ふれあい体験コーナーで子どもがうさぎをそっと撫でるとき、子どもはうさぎのいのちにふれているというのは言いすぎでしょうか。

坂部はさらに踏み込みます。気がふれるということばを用いたのち

 ふれること、もの狂いは、他方からいえば「依る」「憑く」ことにほかならず、そこで何らかの「よりしろ」を媒介として、たとえば面(仮面)を媒介して、人々は常ならざるもの(生霊、魔等々)と出会い、そのいのちにふれる。
 身体はよりしろと化して宇宙のいのち、宇宙の深みの切り口にふれ、宇宙と交歓し、そこに「身体の宇宙性」がおのずからあらわになる。
同書

「ふれ」た異なる次元のむこう側からこちら深くに侵入し、むこうもまたこちらに「ふれ」てくる。そして「ふれ」て「ふれられ」た人は、宇宙と交わりひとつになる。ちょっと大げさなような、そうでもないような話です。

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