なににふれるのか?(雑記)
坂部恵は精神科医のミンコフスキーから引用して、以下のようなことを述べています。
このようにも述べています。
「ふれる」ことによって、宇宙にふれたり、宇宙そのものになっている、というのです。ちょっと大げさな気もしますが、少し考えてみたいと思います。前回、このようなことを述べました。
「ふれる」ことによって、「ふれる」人がその対象とつながり、結びつき、主客がはっきりとは分離していない状態となります。
たとえば大樹に「ふれる」とします。それは御神木かもしれませんし、森で人の寿命をはるかに超えた永い永いあいだ生きつづけている木かもしれません。とにかくそれに「ふれ」てみる。僕たちはただ木肌を感じているだけなのでしょうか、むしろなにか対話をしているような気もしてこないでしょうか。自分よりもずっと永く生きてきている木に「ふれ」、時を超えるような瞬間を感じたりしないでしょうか。
たとえば家族で牧場に行って、ふれあい体験コーナーで子どもがうさぎをそっと撫でるとき、子どもはうさぎのいのちにふれているというのは言いすぎでしょうか。
坂部はさらに踏み込みます。気がふれるということばを用いたのち
「ふれ」た異なる次元のむこう側からこちら深くに侵入し、むこうもまたこちらに「ふれ」てくる。そして「ふれ」て「ふれられ」た人は、宇宙と交わりひとつになる。ちょっと大げさなような、そうでもないような話です。