ふれる-ふれられる-こと(雑記)
前回、「ふれる」と「さわる」とを比べながら「ふれる」ことを見てきました。今回は、誰かが「ふれる」ならその相手は「ふれられる」わけで、その「ふれる」-「ふれられる」とはどんななのか、を見ていこうと思います。
「ふれる」-「ふれられる」は親密な間柄でしたら、お互いにあまり危険を感じないと思います。たとえば僕は毎日、軽いスキンシップのつもりで、娘や妻にふれます。ほっぺをツンツンしたり、手をつないだりします。その際、手をはたかれたり、防衛反応として攻撃されたりはしません。でも、通りがかっただけの見知らぬ人にそれらをすると、きっと大変なことになります。
伊藤亜紗は「ふれる」-「ふれられる」ことにリスクが伴うことを指摘します。
ではなぜ、リスクが伴う行動を取るのか。そこにどんな見返りがあるのか。伊藤亜紗はその一つに輪郭を見つけることを挙げます。
僕らは何げなくくらしていく中で、いつの間にか自身の輪郭を見失ってしまう。それをふたたび見つけるために「ふれる」-「ふれられる」。僕らは「ふれる」-「ふれられる」中で、自身の輪郭を再発見していく。それは心地よい、くらしをより良くしてくれる行為なのかもしれません。
ところで僕にとって妻は、その昔、恋人でした。そしてもっと昔、他人でした。他人から恋人になる際、あるいは恋人として親密性が高まるとき、先ほどのリスクを伴いながら、少しずつ「ふれる」-「ふれられる」行為を重ねていきました。あのときのドキドキは、リスクと見返りが同居し、変わるがわるにとても早いスピードでやってきていたのだと思います。それをちょっと思い出してみませんか?
初の電子書籍化してみました。あのときの、ほんのり甘ずっぱいストーリーを。