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さわるということ(雑記)
これまで「ふれる」ことを中心に見てきましたが、今回は、物的なかかわりで一方向的な接触の「さわる」ことを見ていきたいと思います。
ふれるということでこんなことをお伝えしました。
「さわる」は物的なかかわりで、一方向的な接触だとすると、「ふれる」は人間的なかかわりで、双方向的な接触
鷲田清一は坂部恵の文を引用し「さわる」に関して一部同意しながらも、異なる意見を展開していきます。
「さわる」ということは、「ふれる」という根源的な出来事が主ー客関係へと変容したものではない。いうまでもなく、観察対象の表面を注意深くさわったり、その内部を触診したりするときのように、「さわる」ことには、触れながら触れるものが触れられるものとして分離しているような場面がしばしばある。いや、「さわる」という行為はたいていはそのようにして起こっているのだろう。そこには相互の干渉はない。
ここまでは鷲田は坂部とほぼ同意見です。そして、ここから意見が異なっていきます。
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しかし・・・その変調、そのきめの微かな変化に、「ふれる」こととしての「さわる」もあるのである。そして、自ー他の溶解としての「ふれあい」よりもむしろこのような異質さそのものに「ふれる」こととしての「さわる」こと、つまり距離を置いたままの接触のなかにこそ、より深い自ー他の交感が訪れることがあるのである。
主客がはっきり分離していてそれぞれ差異や距離のあった方が、かえって、心のつながることがある、というのです。
例えば、死者に旅装束を着せるとき、そのお体を「さわり」、ああ、この方はすでにこの世になくあの世に向かっているのだなと感じます。冷たく、少し硬くなっているようにも感じる質感。肌と肌とがふれあっているはずなのに、どうしてもそうは感じられない瞬間。はっきり分離してしまったと理解せざるを得ない。でも、かえって心がつながるということはないでしょうか。
例えば、
ガラガラガラ。突然おそろしい音を立てて大地は足もとからくずれ落ち、重い空がその中にめりこんだ。私は思わず両手で顔を覆い、道のまん中にへたへたとしゃがみ込んだ。底知れぬ闇の中に無限に転落して行く。彼は逝き、それとともに私も今まで生きて来たこの生命を失った。もう決して、決して、人生は私にとって再びもとのとおりにはかえらないであろう。ああ、これから私はどういう風に、何のために生きて行ったら良いのであろうか。
このような方を慰めようとするとき、ひょっとすると肩に手をのせるようなことがあるかもしれません。手を取ることがあるかもしれません。互いに感じられるのは異質さや距離であり、「ふれる」とは言い難い。
死における悲しみ、畏れ。感じる異質さとその距離。しかし「さわる」ことに心が全くつながってないと言えるのでしょうか。
君は決して無用者ではないのだ。君にはどうしても生きていてもらわなければ困る。君でなくてはできないことがあるのだ。ほら、ここに君の手を、君の存在を、待っているものがある。——もしこういうよびかけが何らかの「出会い」を通して、彼の心にまっすぐ響いてくるならば、彼はハッとめざめて、全身でその声をうけとめるであろう。
「ふれる」ことが難しくても「さわる」ことはできるときがある。そしてそれは、悲しみを通じた他者とのつながりの始まりと言えるのではないでしょうか。