これまで「ふれる」ことを中心に見てきましたが、今回は、物的なかかわりで一方向的な接触の「さわる」ことを見ていきたいと思います。
ふれるということでこんなことをお伝えしました。
鷲田清一は坂部恵の文を引用し「さわる」に関して一部同意しながらも、異なる意見を展開していきます。
ここまでは鷲田は坂部とほぼ同意見です。そして、ここから意見が異なっていきます。
主客がはっきり分離していてそれぞれ差異や距離のあった方が、かえって、心のつながることがある、というのです。
例えば、死者に旅装束を着せるとき、そのお体を「さわり」、ああ、この方はすでにこの世になくあの世に向かっているのだなと感じます。冷たく、少し硬くなっているようにも感じる質感。肌と肌とがふれあっているはずなのに、どうしてもそうは感じられない瞬間。はっきり分離してしまったと理解せざるを得ない。でも、かえって心がつながるということはないでしょうか。
例えば、
このような方を慰めようとするとき、ひょっとすると肩に手をのせるようなことがあるかもしれません。手を取ることがあるかもしれません。互いに感じられるのは異質さや距離であり、「ふれる」とは言い難い。
死における悲しみ、畏れ。感じる異質さとその距離。しかし「さわる」ことに心が全くつながってないと言えるのでしょうか。
「ふれる」ことが難しくても「さわる」ことはできるときがある。そしてそれは、悲しみを通じた他者とのつながりの始まりと言えるのではないでしょうか。