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「くらし」とモード

前回、モードは終わったという結論を見ました。
でも、そもそもモードってなんでしょうか。

モードの語源は「誰もが理解できる記号」です。音楽のジャズにも、モード奏法という言葉があって、これはコードの共有から離れて自由に演奏しながらグループでのエンディングに着地するプレースタイルです。ファッションの文脈では、「衣服を通して多数に共有される美意識」を意味すると思います。非常に簡単に言えば流行です。
『モード後の世界』 栗野宏文

モードは早い話が流行、トレンドである。
もうすこし詳しくいうと、「多数に共有される美意識」である、と。

その終わりへの過程を栗野は教えてくれます。

 この言葉は、「特権階級と非特権階級」という図式なしには語れません。
 もともと、ファッションは特権性を担保するところから始まりました。あるいは、担保された特権性を形にするところから始まっているとも言えます。
 ・・・特権性がファッション性というものに集約され、誰にでもわかるアイコンとして共通認識のもと共有されてビジネスを支えていたのは、二十世紀まで
 ・・・二十一世紀のデジタル時代に入ると・・・フェイスブックやインスタグラムが発達した時代において、誰かがとても特別で、その人しか持ち得ないとか、その人だけが美しい世界にいるということは、ほとんど絵空事なのだということをみんなが知ってしまいました。そうなると別に特権でもなんでもない。
同書

特権性を担保するところから始まったモードは、デジタル技術の浸透によってその担保が崩れ

 その結果、ヒエラルキーのトップに発信する人がいてそれを不特定多数の人が受ける、というピラミッド型から、多数の発信者と多数の受信者が同時に存在する、という構造に変わりました。と同時に、目立つかどうか、有名かどうかという価値観も壊れ、流行のファッションやスタイル自体がフェイドしていって今はすべてがフラットです。

特権性が解体され、美意識の共有はピラミッド型の上から下への垂直運動から、フラット型の水平運動に移行している。これからは

白人や痩せている人、小顔の人だけが優位であることに意味がなくなりつつある
十人いたら十人の、千人いたら千人の、「私はこれが素敵だと思う」という発信があり、またそれを同様に受け止めている人がいてみんなが楽しんでいる時代

になっている、と栗野は言います。
いかがでしょう?
僕には違和感ありません。

前回、今回で新しいものを追いつづけるモダニズムの時間感覚から僕たちが離れはじめている一例としてモードの終わりを見ました。次回はモードをもうすこしだけ別の角度から見てみようと思います。



「モードは終わった」という動画、10分くらいで視聴できます。

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