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「くらし」と海景(雑記)

ご存じの方もいらっしゃると思いますが、「海景」という作品群があります。

こういった海と空とだけの写真がずらっと並びます。ひとつ一つを見ているとそのうち、なんだかぼんやりしてきます。もやもやしているものに覆われたような・・

シリーズ性・・・同じテーマを延々と撮り続ける手法は、タイポロジーと呼ばれる。タイポロジーとは少しずつ異なる被写体のあいだから、公約数として同一性を浮かびあがらせる技法である。しかし厳格に同じフォーマットをもつ杉本の海の場合、浮かびあがるべき同一性は限りなく無に近づく。つまり「海」という同一性は蒸発し、ただ「海と名付けられたもの」の写真になる。それは「決して見られることのない海」である
『写真と日々』 清水穣 現代思潮新社

「海景」をずっと見つづけていると温泉にのぼせたみたいに、いい感じにふわふわとしてきます。そしてなにがなんだか、だんだんとわからなくなっていきます。虚無感とでも言ったらいいでしょうか。いえ、ちょっと違いますね。

自分を見つめる客観の眼が研ぎ澄まされてゆくにつれて主客の渾然とした世界が深く目を開きはじめる。・・・それと同時に私自身の輪郭もそれを際だたせていたものから次第に遠ざかっていく。聞こえてくる音は全て音楽となって消え去り、存在が輝きはじめる。
「ひろば」 1995年2月号 杉本博司

「海景」を通して、僕たちはなにか渾然とした世界に「ふれる」のかもしれません。いったいなにに「ふれる」というのか。それは次回、一説、見てみたいと思います。

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