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ふれるということ(雑記)
教育から共育へで用いた書籍で栗原彬はこんなことを述べています。
教育から経済優先の論理をたたき出す・・・そこにふれあいの論理をもちこむ。それ以外にない・・・生産を至上の価値とするような論理に対して、ふれあいの論理は対立する・・・単純にいまの教育に何かをつけ足すということでは済まなくなってくる。いままでの教育のあり方をすっかり変えていく。そうして、人間的な社会を形成する出発的に立つというイメージをもつ必要がある。
経済優先の論理からふれあいの論理へ。教育から共育へ。とてもすてきな考え方だなぁって思います。そして、経済>人間の教育から経済<人間の教育へ、は僕のテーマでもあります。
・・でも、ふれあいの論理ってどんなでしょう?そもそもふれあいってなんでしょう?漠然としたイメージはあるんですけど、言葉にしてみてって問われたら、僕はちょっと躊躇して、わかりませんって答えちゃいそうです。
これから何回かにわたって、「ふれあい」についてを見ていこうと思います。今回は「ふれる」について。
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伊藤亜紗は、「さわる」と比べながら「ふれる」について述べています。
「ふれる」は人間的なかかわり、「さわる」は物的なかかわり、ということ・・・そこにいのちをいつくしむような人間的なかかわりがある場合には、それは「ふれる」であり、おのずと「ふれ合い」に通じていきます。逆に、物としての特徴や性質を確認したり、味わったりするときには、そこには相互性は生まれず、ただの「さわる」にとどまります。
「さわる」は物的なかかわりで、一方向的な接触だとすると、「ふれる」は人間的なかかわりで、双方向的な接触だといいます。
僕はふだん、あまり「さわる」とか「ふれる」とかを意識していないので、すぐにはピンとこないです。ただ、少しずつイメージしていくと、
さわっているのはパソコンやタブレット、スマホ、コーヒーカップ、スプーン、お箸、お皿、お椀、ドアノブ、壁、照明のボタン、給湯器のボタン、リモコンのボタン、インターホンのボタンなどが浮かんできます。
ふれているというのは、そんなに多くなくて、娘のほっぺ、お腹、娘の手、妻の手、(化粧水つけるときの)自分の顔、(頬杖をつくときの)自分の頬など。
読みたい本を手に取るときや、本にメモをするときのペン、紅茶に美味しいハチミツを入れるときの木のスプーンなどは、さわっているとも言えるし、ちょっとだけ..ふれているとも言える気がします。
たしかに、「ふれる」は人間的で、想いだったり意志がわずかでも通いあっているイメージが含まれている気がします。