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言葉を失ったことがある

それは、日常の中で自然と流れ出るものだったはずの言葉が、ある日突然、頭から抜け落ちてしまうような感覚だった。事故で脳を腫らしてしまい、私は自分の多くの言葉を、そして知性の大部分を失ってしまった。考えることが難しくなり、日常生活を回すのにやっとの知性しか持ち合わせていなかった。そのときの私は、世界と自分を繋ぐ糸が切れてしまったような気がしていた。

だが、物事の流れとは面白いもので、時にその人を背中から押し、進むべき方向に導いてくれることがある。事故からしばらくして、私は周りの配慮で東京から茨城県東海村のNTT研究所に異動することになった。そこは、一般の人から見れば最先端の研究が行われる場所であり、私にとっては再び知性に向き合う場でもあった。

とはいえ、子会社の社員としてそこで迎えられる立場は決して楽なものではなかった。研究所の中でお支えした研究員から見れば、私は「ただの下僕」「ただの使用人」「ただの奴隷」に過ぎなかった。NTT研究所の中で、礼節や尊重の心を持つ人々が4割から6割程度いると感じたが、残りの人々は心を持たない冷徹な方々だった。そんな中で、私が直接お支えした研究員は差別的な人ではなかったものの、いい加減でわがままな一面があり、まるで大人になりきれない子どものようだった。

そんな彼が作らねばならない技術移転資料が長らく放置されていた。技術移転資料とは、研究所で開発された技術をメーカーや企業が活用できるようにするためのものだ。それがなければ、NTTのネットワークで使用する資材を作りたいメーカーも困り果ててしまう。しかし、何年も放置されたその資料を前にして、彼は私にこう言った。

「お前、二週間でなんとかしろ」

「……」

(何言ってんだ?あり得ねーだろ、お前が何年も放置してんだぞ!)

本音は、断りたい気持ちでいっぱいだった。だが、そのときの私には居場所が必要だったし、この仕事を通じて何かを掴みたいとも感じていた。そこで、私はその要望を引き受けることにした。そして、10年以上積み上がった研究資料、天井まで届く書庫2本分の資料を、ただひたすら読み漁った。

探し求めたものは、技術移転資料の元ネタ。その元ネタは、ガリ版と当時のPC-98のMS-DOSで作られた一太郎の印刷物で、電子データはどこにも存在しなかった。つまり、手で書き起こすしかない。写経のように、すべてを一から打ち込み直し、さらに論理演算もやり直さなければならない作業だった。

私はこの作業に半年はかかると見積もっていた。しかし、何もかもを朦朧としながら取り組み、わずか2ヶ月で写経を終えた。論理演算も2度にわたりやり直し、その怒りと情熱をぶつけるように、資料のフォントはわざと丸文字ゴシックにしてやった。もはや反抗心の現れだったのでしょう。

この膨大な、日本でトップクラスの研究者たちが残した研究開発資料は、私の新しい言葉の素となった。失われた知性は、その言葉の断片を一つ一つ拾い集めるように、私の中で再び芽吹いていった。

新たな知性は、言葉を渇望した。ただし、そこには厳格な制約があった。必要なこと、実践的なことに限定する。なぜなら、私の脳と心と身体は壊れていて、その壊れた状態で取り組めるものは限られていたからだ。だからこそ、必要な本だけを、壊れた精神、壊れた脳、壊れた身体に関する本を貪るように読み漁り、そこから新しい知識や言葉を見つけ出した。

こうして、失われた知性と言葉の残骸から、新たな知性が生まれていった。言葉を再び取り戻す過程は、ただ単に元に戻るのではなく、まるで新しい命を吹き込むようなものだった。

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