【感想】もしも一年後、この世にいないとしたら。(清水研)
先日、祖父が他界しました。死に目には会うことはできませんでしたが、亡くなったその姿を目にした際に何か違った感情が湧き上がってきた。
あれだけ元気だった爺さんが、去っていったことで今後の人生について考える機会にもなった。
浄土真宗(大谷派?)という宗派の葬儀であった。
納棺、告別式、五七日などの葬儀式の中で住職の方が説教?で話をされていたことが印象に残った。
記憶を頼りに記したい(間違っていたらご容赦ください)
こんな感じだったと思う。
こういった話を聞いた上で、この書籍を読むとすっと入ってくることが多かった。
私は40代が間近に迫っています。伯父は50歳で亡くなりました。10年後にその年齢になります。葬儀のために帰省した際に伯父の遺影を見て気づいた。
伯父は海外赴任中に突然返らぬ人となりました。当時は訃報に驚いたものですし、しばらく受け入れることができませんでした。当時は残されたご家族や親戚のことを大変心配したものです。
この本を読んだことと葬儀に立ち会ったことがきっかけでいくつか考えが生まれました。
ご本人には納得のいく人生だったのだろうか。やり残したことはなかったのだろうか・・・。そんなことを考えるようなったと同時に「あと10年で伯父さんと同じ年齢なのか・・・・」と思料するようになった。
今の私はどうだろう・・・・。充実した日々を送っているだろうか、実現したいことができているだろうか。夢中になれることに取り組めているだろうか・・・・仮に10年後に世を去ることになった際に、残り10年で何ができるだろうか。
実現するかも、生きてるかも分からないずいぶん先の未来のために今を犠牲にする必要なないなと思うようになった。
人生100年時代とはいうけれど、40年後の人生のために今を犠牲にする必要はない。
10年後ですら元気に働けているのか、わからないのだから。
家族ができて、ローン組んで、ずいぶん社会的な責任が増えた。仕事が変わりよりマネジメント層になった。自身がどこか窮屈に感じてしまっている。このままでいいのだろうか・・・・。どこかで現状を維持し続けることを義務のように感じている。
おそらくマインドセットが社会的責任を増やすことがステータスになるように教育されてきたのか、上にいくことがキャリアアップにつながると確認していたが、実際には非常につまらない仕事であることになってから気づく。
私は現場に近い立ち位置で仕事をして行った方が充実したキャリアを送れるのかもしれない。
自身が実現したいことよりも、社会的に求められていると錯覚していた何かを常に優先していたように思う。だから、背負うたびに窮屈になっていくのだろう。
ニーチェの「ツァラトゥストラはこういった」に記載されている駱駝(らくだ)・獅子・幼子になぞらえると、まさに駱駝の状態なのだろうと思う。
自由になりたい。
今、窮屈に感じていることが何なのか、心の声に耳を傾けることで私が何を望んでいるのかが少しずつわかってくるような気がする。どうしたら自由になれるのだろうか。
私は私のことが一番わかっていない。
今の行き詰まってる感覚こそが重要なのだと思う。私の心は何を求めているのか、MUSTによってジャミングされていたWANTの声を拾うことで、今後の人生が豊かになるのではないか・・・と思う。
MUSTとは何なのか
きっとキャリアアップはマネジメントになっていくとか、年齢を理由にして、もうこれは無理だろうとか・・・そういうことだろう。
WANTとは何なのか
本来はやりたかったはずだが、いろんな制約の中でいつのまにかやらなくなってしまったことだ。
家族やローンがあると思うことで、チャレンジしたいことにチャレンジできない自分がいるように思う。これこそがMUSTだと思ってる部分だろう。幻想なのだと思う。何をしないことによって、守るものを守れなくなることもあるかもしれない。終身雇用が崩壊した現在では、まさにその状況だ。
なりたい自分になれる・実現できることの方が充実しているだろう。
時間は永遠には続かない。
そして、私にとって、今が一番若い。だからこそ、チャレンジするなら今が一番よい機会なのだと思う。
人生は旅。だからこそ、もっと思いっきりやればいいじゃんと言えるのだと思う。
引用リスト
メメント・モリ(死を思え)