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【感想】もしも一年後、この世にいないとしたら。(清水研)

「自分の人生がいつ終わりを迎えるのかは誰にもわからない。だからこそ、今生きている瞬間をかけがえのないものとして大切にしてほしい」

清水研. もしも一年後、この世にいないとしたら。

先日、祖父が他界しました。死に目には会うことはできませんでしたが、亡くなったその姿を目にした際に何か違った感情が湧き上がってきた。

あれだけ元気だった爺さんが、去っていったことで今後の人生について考える機会にもなった。

浄土真宗(大谷派?)という宗派の葬儀であった。
納棺、告別式、五七日などの葬儀式の中で住職の方が説教?で話をされていたことが印象に残った。

記憶を頼りに記したい(間違っていたらご容赦ください)

こんな感じだったと思う。

仏教では、「生死(しょうじ)」という言葉があるらしい。
死ぬことを考えるということは、生きることを考えるということではないでしょうか。
生きることを考えるということは、どういうことでしょうか。
今を真剣に生きているか。
今は元気に生きているとしても、交通事故や病気などの何らかの理由で突然元気で無くなったり、亡くなってしまうかもしれません。
今を粗末にしてませんか?
今を一生懸命生きてますか?

こういった話を聞いた上で、この書籍を読むとすっと入ってくることが多かった。

「10年先がないとしたら、人は何のために今を生きるのだろうか」

清水研. もしも一年後、この世にいないとしたら。

私は40代が間近に迫っています。伯父は50歳で亡くなりました。10年後にその年齢になります。葬儀のために帰省した際に伯父の遺影を見て気づいた。

伯父は海外赴任中に突然返らぬ人となりました。当時は訃報に驚いたものですし、しばらく受け入れることができませんでした。当時は残されたご家族や親戚のことを大変心配したものです。

この本を読んだことと葬儀に立ち会ったことがきっかけでいくつか考えが生まれました。

ご本人には納得のいく人生だったのだろうか。やり残したことはなかったのだろうか・・・。そんなことを考えるようなったと同時に「あと10年で伯父さんと同じ年齢なのか・・・・」と思料するようになった。

今の私はどうだろう・・・・。充実した日々を送っているだろうか、実現したいことができているだろうか。夢中になれることに取り組めているだろうか・・・・仮に10年後に世を去ることになった際に、残り10年で何ができるだろうか。

「岡田さんは将来のために『今』を生きていたんですね。別の言葉でいうと、将来のために『今』を犠牲にしていた。だから『今』の生き方がわからない」

清水研. もしも一年後、この世にいないとしたら。

実現するかも、生きてるかも分からないずいぶん先の未来のために今を犠牲にする必要なないなと思うようになった。

人生100年時代とはいうけれど、40年後の人生のために今を犠牲にする必要はない。

10年後ですら元気に働けているのか、わからないのだから。

「健康はいつ失われるかわからないもの」であるし、「いつかは必ず失われるもの」という意識をこころの片隅に持っていたいと私は思います。なぜなら、「今日健康で一日を過ごせることはありがたいこと」という感謝の気持ちが芽生えるからです。

清水研. もしも一年後、この世にいないとしたら。

家族ができて、ローン組んで、ずいぶん社会的な責任が増えた。仕事が変わりよりマネジメント層になった。自身がどこか窮屈に感じてしまっている。このままでいいのだろうか・・・・。どこかで現状を維持し続けることを義務のように感じている。

おそらくマインドセットが社会的責任を増やすことがステータスになるように教育されてきたのか、上にいくことがキャリアアップにつながると確認していたが、実際には非常につまらない仕事であることになってから気づく。
私は現場に近い立ち位置で仕事をして行った方が充実したキャリアを送れるのかもしれない。

自身が実現したいことよりも、社会的に求められていると錯覚していた何かを常に優先していたように思う。だから、背負うたびに窮屈になっていくのだろう。

ニーチェの「ツァラトゥストラはこういった」に記載されている駱駝(らくだ)・獅子・幼子になぞらえると、まさに駱駝の状態なのだろうと思う。

自由になりたい。

もし自分が今、窮屈だと感じていたら、もがいている心の声に耳を傾けることも大切です。悲しい自分は何を失ったと感じているのか、怒っている自分はどんなことに理不尽さを感じているのか。

清水研. もしも一年後、この世にいないとしたら。

今、窮屈に感じていることが何なのか、心の声に耳を傾けることで私が何を望んでいるのかが少しずつわかってくるような気がする。どうしたら自由になれるのだろうか。

私は私のことが一番わかっていない。

行き詰まることは今までとは別の道を探す動機付けとなり、「must」の自分の支配を緩め、「want」の自分が自由になるきっかけになるからです

清水研. もしも一年後、この世にいないとしたら。

今の行き詰まってる感覚こそが重要なのだと思う。私の心は何を求めているのか、MUSTによってジャミングされていたWANTの声を拾うことで、今後の人生が豊かになるのではないか・・・と思う。

MUSTとは何なのか
きっとキャリアアップはマネジメントになっていくとか、年齢を理由にして、もうこれは無理だろうとか・・・そういうことだろう。

WANTとは何なのか
本来はやりたかったはずだが、いろんな制約の中でいつのまにかやらなくなってしまったことだ。

家族やローンがあると思うことで、チャレンジしたいことにチャレンジできない自分がいるように思う。これこそがMUSTだと思ってる部分だろう。幻想なのだと思う。何をしないことによって、守るものを守れなくなることもあるかもしれない。終身雇用が崩壊した現在では、まさにその状況だ。

他人からの評価に縛られていてもあまり幸せになれず、それよりも自分の気持ちに素直に従って生きても良いこと、自分にとって大切だと思う人との時間を優先すること、いまここにある時間を十二分に味わうこと、などです。

清水研. もしも一年後、この世にいないとしたら。

なりたい自分になれる・実現できることの方が充実しているだろう。

時間が永遠に続くと錯覚していると一日を粗末にしてしまいがちですが、時間が限られているとすると、一日一日がとても貴重に思えてくるわけです。

清水研. もしも一年後、この世にいないとしたら。

時間は永遠には続かない。
そして、私にとって、今が一番若い。だからこそ、チャレンジするなら今が一番よい機会なのだと思う。

「なるほど、一回限りの旅か。この世に生まれ、せっかく一回だけの旅をする機会を与えられたのだから、いろんな人と出会い、様々な体験をして、豊かな旅にしないともったいないな」ということでした。
また、人生を終着点のある旅だと考えるならば、「死」は恐れの対象ではなく、「終着点」でしかないのです。
そして、「どうせ終わりが来るんだし、旅と捉えるのであれば、あまりくよくよと考えず思いっきりやればいいじゃないか」

清水研. もしも一年後、この世にいないとしたら。

人生は旅。だからこそ、もっと思いっきりやればいいじゃんと言えるのだと思う。

引用リスト

心理学領域における心的外傷後成長に関する研究から、その人の考えには5つの変化が生じうることが明らかになっています(※)。
それは、次の5つです。
①人生に対する感謝
②新たな視点(可能性)
③他者との関係の変化
④人間としての強さ
⑤精神性的変容

清水研. もしも一年後、この世にいないとしたら。

この5つの変化について知ったことは、私自身の考え、生き方にも大きな影響を与えました。今自分がしがみついていることの中で、そのうちとるに足らなく見えるであろうことと、大切にしておかないと後々絶対に後悔するであろうことを、きちんと見分ける力が備わったように思います。ですので、5つの変化について、詳しくお伝えしたいと思います。

清水研. もしも一年後、この世にいないとしたら。

自分は進むべき指針を社会的な規範や周囲の意見に求めるようになりました。進むべき道が正しいかどうかは両親や他人からの承認によって判断するようになり、周囲の意見に左右され、さらに気持ちが揺らぎます。日々虚しく「自分のために生きるのか」という悩みが生じました。

清水研. もしも一年後、この世にいないとしたら

メメント・モリ(死を思え)

「たとえ世界の終末が明日であっても、自分は今日リンゴの木を植える」

マルチン・ルター

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