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「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

難易度は高いかもしれないが一読の価値がある。一回だけだと理解はできないかもしれない。時間を置いて何度も読み返すごとに何かが見えてくる。

5本のバナナの話

この話が印象的だった。

5本のバナナがあり、自分は3本食べられるとお腹いっぱいになれるけど、一本我慢して2本だけ食べて、残り3本を困ってる人に与える。すると、その人はバナナが嫌いで食べずに投げ捨てた。そこで、自分はどう思うだろう。「もう一本食べられたのに。」「我慢してあげたんだから感謝して欲しかった」とか思うに違いない。

だが、バナナを3本食べて満腹になってから、あまった2本のバナナを渡していたら、どう思うだろうか。

ここが愛と欲望の違いだそうだ。愛は見返りを求めない。この心境に達するには自身がまずは満たされていいることが条件となる。

そういえば・・・

大富豪が多額の寄付を行なっていることもその一つなんじゃないかと思った。

つまり・・

自身が十分満たされている状態だからこそ、他者に対して見返りを求めずに何かを与えられるようになる。日本社会に居ると、どうもこういう感じはしない。無理をしている自己犠牲的なところが美化される節がある。

「愛」のために私たちに出来る第一歩は、逆説的ですが、まず自分をきちんと満たしてやることなのです。ところが面白いことに、人間は自分を満たしても、必ずいくらかは余るように出来ている。この余った物を使ったときには「愛」の行為になる。ここが大事なポイントだと思います。そういうわけで、バナナは五本であったのです

ウェルビーイング

ウェルビーイングという言葉があるそうだ。

「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)」

自身がこの状態に到達することがまず重要であると理解する。

ワガママ

本当に望んでいるものでなく代わりの何かで、つまり代償行為で満たそうとしますと、それでは「質」的に満足できないので、欲求が「量」的に増大していく性質があります。

子どもがお店で「お母さんこれ買って!」と駄々をこねているシーンとして説明されていた。それを買ってもらうこと自体は代償行為であるので、量を求めてしまうらしい。

自身が満たされた状態になろうとした際に、選び取ったものが違っていると似たような状況になるのだと思われる

自由とは

自由というものは、なんの指針もなければ、その小径が正しいのかと問われても答えようがないもので、自分の判断以外に当てに出来るものはない。マニュアルもなければ他人との比較も出来ないし前例すらない。これが自由ということの大変さなのです。

ロールモデルはいないということだ。

みんなが通る大通りを歩いていれば、何も考えなくてもいいかもしれない。だがそれは自身の人生に責任を負っていないとも考えられる。失敗するリスクはあるかもしれないが、それでも納得がいく人生にしていくには、自分自身が悩み、判断、行動していくことでしか自由は得られない。

十牛図

以上。

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