山奥

僕のヤバい親戚

僕の親戚は、皆、田舎者だ。基本的に土の匂いがする。

大らかで優しく、それでいてゴーイングマイウェイなのが特徴で、田舎で育ったが故に競争というものとはどこか無縁。のんびりと楽しく暮らしている。

中には数人、本当にマイペースになりすぎて社会生活に支障をきたしている人もいる。

母の従兄弟なんかは、ナチュラルにサイコパスだ。

鉄道の運転手として勤めていたが、電車の運転中、どうしてもコーヒーが飲みたくなったことがあったという。普通ならそんなもの我慢するはずなのに、その人はいきなり電車を止めて、線路を抜け出して自販機でコーヒーを買っては、車内であたふたする乗客を遠くから見ながら一服したらしい。

その後、その日のダイヤは荒れに荒れたそうで、その場で運転手をクビになったおじさんは、今は内勤で一服をやりまくっている。

他にも大勢、個性的な親戚がたくさんいた。

だから、お盆や正月、GWなど、何かにつけて行われる親戚の集いは賑やかなものだった。

そのメンツの中でも、際立って目立っているオジさんがいた。


ボンおっちゃん、である。


ボンおっちゃんはばあちゃんの弟で、年齢は60代後半くらい、日焼けした肌と、分厚いレンズのメガネと優しい笑顔から放たれるガラガラ声が特徴的だった。

ボンおっちゃんの由来は、僕は盆にしか会わないから「盆おっちゃん」なのだと思っていたが、違う。

ばあちゃん曰く、一家の末っ子にして待望の長男だったから「お坊っちゃん」と呼ばれていて、それが訛りに訛った末に「ボンちゃん」になったのだという。

そこから、ボンおっちゃんになったという。

田舎では、長男がとても大切にされる。僕も長男だったから、めちゃくちゃ甘やかされて育った。さーせん。




このボンおっちゃん、昔から兎角自由な人だったらしい。

小さい頃、ばあちゃんが父親(ひいおじいちゃん)に三輪車をねだったが、ボンおっちゃんにしか買い与えられなかったことがあった。

ばあちゃん姉妹四人組はボンおっちゃんが三輪車を乗り回すのを羨ましげに見ていたが、何を思ったか、ボンおっちゃんは三輪車をいきなり乗り捨てて、三輪車を崖の上から下に思い切り放り投げてしまったというのだ。

崖の下で三輪車が見つかった時、既にそれは鉄くずになっていて、ばあちゃん姉妹は父親に怒られるとヒヤヒヤしていたが、ボンおっちゃんはそれを見て大爆笑。その笑顔は狂気に満ちていたという。

結局何の咎めもなくまた新しい三輪車を買い与えられたらしい。

うーむ、なかなかな畜生エピソードである。



だが、ボンおっちゃんの自由気ままスタイルには、当時には存在しなかった言葉であろう、「カリスマ性」を備えていた。

不思議なことに、ボンおっちゃんの周りには、常に人がいた。

ボンおっちゃんの職場は小さな古びた役場だった、はずだが、気付いたら田舎に元阪神の野球選手を呼んで講演会を開くなど、なにかと地元規模では考えられないことを平気でやり遂げたりしてみせたのだ。

なのに、いつもボンおっちゃんの家に行くと、ボンおっちゃんは自分の田んぼの土をいじっている。

その後しこたま酒を飲んでは、古い民家によくある離れのトイレで吐いているのをよく見た。(その吐く声がトラウマで、僕は夜、離れのトイレが怖くて仕方がなかった。)



ボンおっちゃん、大丈夫なんか?

当時小学生の僕が聞くと、よく酒臭い息を吐きながら「お前も飲むか?」と酒を勧められた。そして僕は親の目を盗んでよく酒を飲ませてもらった。

ボンおっちゃんの笑顔は、他のオトナが見せるそれとは違い、少年の面影が残る、イタズラ心のあるものだった。

僕はその笑顔が好きだった。

高校生になると、ボンおっちゃんと駅で出会うことが増えた。

ボンおっちゃんはいつもチェックシャツにジーパンで、脇腹にセカンドバッグを抱え、喫煙所でタバコをスパスパ吸っている。

「ボンおっちゃん!なにしてんの?」

「ああ、仕事や!仕事!京大で研究や!」

あはは!!おもんない冗談!!

ボンおっちゃんは、タバコの煙をモクモク吐きながらそんなことをいつも言った。

「おう泰輔!今日も研究や研究!気張ってこや!」

何回も同じようなことばっかり言うなぁ。京都に女でも作ったんか?それともパチンコかいな?自由でええもんやなぁ、ボンおっちゃん。



そんなある日、晩御飯を食べていると、ボンおっちゃんの話になった。

ボンおっちゃんは米を作っていて、それを毎度毎度僕の家に届けてくれるのだが、毎度毎度その米が不味い、素晴らしく不味い、という話だった。

僕はボンおっちゃんの米を食べて育った。だから、僕にとって皆のマズイが僕の平均なわけで、だからマズイって言われてもわからなかった。(僕はバカ舌なのでなんでも美味しいって食べるよ、そこの女の子。イケてる旦那になれるよ。)


家族内での話題は、ボンおっちゃんの米から最近僕がボンおっちゃんによく出会うという話に変わっていく。僕は家族に言った。

「いつも『京大で研究や!』っていう、面白くない冗談をいわはるねん。」

それを聞いた母親が言った。

「それ冗談ちゃうで。ホンマに京大で研究してはんねんで。」

僕はハンバーグを箸から落としてしまった。


え?

ボンおっちゃんが、京大に?

一瞬、それも含めての冗談かと思ったが、しかし、違った。

なんと、ボンおっちゃんは、京大で研究者になっていたのだ。

ワケが分からなかった。

好きが高じて、研究することになったという。

笑いが止まらなかった。

誰もが想像通りの生き方をする中、人の斜め上を行くその姿は、当時高校生の僕にとって爽快だった。

そして、それを聞いただけで不思議と元気や力が湧いてきたのを感じた。

その生き方!アリなんだ!そういうの、アリなんだ!!

と。

僕はボンおっちゃんが好きだった。

だからよく、夏になると心のどこかでボンおっちゃんを思い出す。





先日、母親から電話があった。

ボンおっちゃんにガンが見つかったらしい。

電話だとやけに淡々としていて、なんだかあんまり現実味がなくて、ぼんやりとボンおっちゃんの顔が浮かんで、消えた。

小学校の時、ウチに電話がかかってきて、母親が神妙な顔して話をしていた。その後、電話を切った母親が涙を堪えながら「ひいおばあちゃんが亡くなった。」と告げられた時のことを思い出した。

存在していたものが無になったのに、違和感なくそのまま流れ続ける自分の時間。その時に感じた居心地の悪さと似た感覚だった。

そっか。ボンおっちゃん、ガンになったんや。

そういえば、成人して酒が飲めるようになってからボンおっちゃんと飲んだこと、なかったな。

生きながらにしてやり残したことがまた1つ増えてしまった。

僕は思った。

この年になると、少しずつ後悔が増えていきますな。




今日、スチャダラパーの「ヒマの過ごし方」を聞いていた。

(曲の動画、上げられなかった…。)

ボンおっちゃんはきっと、もう少し真面目に働いていたのだと思うけど、僕は、この歌を聞くとボンおっちゃんを思い出す。

奇行愚行の結果
最終的には何も残さなかった
多くの愛すべきヒマ人たちがいた!
だろう!多分!な!

ここ、ボンおっちゃんだ!と思う。

ああ、ボンおっちゃん、少しでも、元気になって長生きして欲しい。

そんなことを思う盆の終わり。


そして、僕はまた全力でヒマを生きようと思った。


一生、棒にふるくらいの
ヒマとゆとりを持って進もう
人の数だけヒマはあるのだ
それこそ当たり前のことなのだ


ということで、ああ、今日も酒飲みたいです。

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小林泰輔
生きます。