「高校をやめたのが、めっちゃ良かった話」 私の黒歴史#1
高校を辞めてめっちゃ良かった
こんにちは。TAISUKEです。
2021年の新春早々、「志望していた高校に合格した!」という学生さんや、そんなお子さんを持つ親御さんが多い中でこんなことをいうのもあれですが、私は「高校中退して、めっちゃ良かった。」という経験をしています。
結論からいうと、それは後に「現役で慶應大学に合格できたから」とか「受験と関係ない無駄な勉強をしなくて済んだから」とか「高校の学費が浮いたから」とかでは全然なくて、ある人との出会いがあったからです。高校を辞めなければ、なかった出会い。
今日はそんな話をしたいと思います。(途中で疲れたらまた次回書きます)
ちなみに、この文章は「君も高校なんて早くやめた方がいいよ!」とか、「日本の教育制度はオワコンだ!高校なんてクソだ!」とか、そういうことを言うためのものではありません。
ましてや「高校なんて行きたくないな...」と思っている学生さんに「高校だけが人生じゃないよ」という選択肢を示して救ってあげようなんて一ミリも思ってません。
私がこの文章を書く目的はただ一つ、それは「あとがき」で書くことにします。
たしかに、高校を辞めなければたぶん私は慶應大学に進学してなかったと思います。東京の上場起業家をたくさん輩出している企業で働くこともなかったでしょう。
でも、私の中では、それだけでした。
さらにいうと、ここで言いたいのは「(大学とか企業とかいう)結果よりも、努力が大事だ」ということではありません。
たしかに私はめっちゃ努力しました。
夏休みの宿題はもとより、先生から「親に渡すように」という書類まで全て川に捨てて帰る( 川の神様ごめんなさい )ような男が、16歳ではじめて机に座って勉強をしました。
しかし、そうした"勉強"は「メンターとの出会い、修行」の前では"おままごと"でした。それについてはおいおい書きます。
大好きだった「学校」
私は、2009年に入学した広島県立尾道東高校を1ヶ月未満くらいでやめました。非常に品行方正な人たち(良い意味で)が集う高校でした。
(広島県立尾道東高校の校門 「みんなの学校情報」より)
「品行方正」と言ったのは嫌味でもなんでもなく、私が通っていた中学校とのギャップが凄かったんですね。要は、中学が荒れまくっていた。
女子が椅子を持って廊下から窓ガラス全部割るとか、隣の中学と抗争があって日本刀を持って乗り込んでくるとか、昼休みには不良がだいたい頭から血をだらだら流してました。私も多少悪さをしていましたが、先生はめちゃくちゃ怖い人が何人もいて、スリル満点でした。
そんな中学校が、私は大好きでした。
同時に中学時代は、私はサッカーの「クラブチーム」に通っていました。そこでの経験が、私の大切な原体験になっています。
「死ねゴキブリ!」と言われ続けた1年間
13歳でサッカーのクラブチームに入った私は、完全に浮かれていました。
モテる、サッカーで活躍する、勉強はできる、、、(という私の記憶)。
これで調子にのらない中学生はきっと藤井聡太くらいでしょう。
(勝利して尚「研鑽」と書くイカれっぷりを発揮する藤井聡太氏)
全国からサッカーの上手な12歳の子供たちが集まって、「セレクション」という試験にパスし、ユニフォームをもらえ、時にはプロを教えているコーチの指導を受ける。
その体験は私の内側で、自己肯定感(と、俺はできるんだという勘違い)を育てました。中学2年までは、そこそこ試合に出て活躍する。割とうまくいっていましたが、中学3年になって私に変化が訪れました。
中学3年になってから、サッカーの試合に全く出してもらえなくなりました。それは当然。当時、自分でも不誠実なプレーをしている自覚がありました。
「全国大会優勝」を掲げていた私たちですが、中学3年になると公式戦というのがあるんですね。公式戦では「ベンチに入れる選手」と「ベンチに入れない選手」に明確に線引きがされます。
私は決まって、中学3年生の中では一人だけ、ベンチに入れませんでした。監督の点呼が始まります。「1番、キーパー、田中・・・」から始まり、選手には背番号のついた公式戦のユニフォームが渡されます。
ユニフォームが全員に行き渡って最後に言われるのは、「マネージャー、掛」という監督からのいわば「死刑宣告」です。サッカーに全てを賭けて生きてきた人間からしたら、ベンチに入れないのは存在理由を失うことでした。「マネージャー、掛」と言われた瞬間、私は決まって、背中に冷や汗を滴らせました。点呼の直後には体調を崩し、吐き気を催しバスで横になっていた時も何度かありました。
それだけでなく、後にプロサッカー選手になったM君からは、「お前なめてんのか!」「死ねゴキブリ!」と毎日ののしられまくりました。
私は彼を一目置いていただけに、ショックでした。しかし、そんな彼にそこまで言われ、私も言い返しましたが、全て空虚だという自覚もありました。周りの仲間からも「ゴキブリ!」とののしられながら、「こいつら絶対に全員殺してやる」と本気で誓うほど、本気で悔しかったのを覚えています。
そんな中学3年の夏、練習終わりにお風呂に入っていると、ふっと、こんな考えが浮かんできました。
「ゴキブリと呼ばれるのは、俺に理由があるのではないか。」
どこか、「あいつらが悪い」と思っていた自分にもその時に気がつきました。その瞬間、「今のままではまずい」と痛烈に思ったのを覚えています。
そして、同時に、こうも思いました。
「いつまで俺はサッカーをやっているんだろうか」
その問いに頭を悩ますようになった時、そのころに出版された孫正義やスティーブ・ジョブズの伝記は私に衝撃を与えました。
こんなすごい人間がいるのか。
しかし、ふと、本から顔をあげ、周りを見渡すとそこには、
頭から流血している不良。
椅子を振りかぶるやばい女。
日本刀(これはさすがに一度だけ)
視野の狭い大人たち。
「俺はここにいる場合じゃない」
と本気で思いました。
では、俺は、掛泰輔という人間は、どこで、何のために生きるのか?
その代案が、ないんですねえこれが。
全然ない。(笑)
7歳から「サッカー命」でやってきた人間には、サッカーをとると生きている理由がなくなった」というのが正直なところです。
サッカーの試合に出られなくなったから、サッカーの外の世界に目が向いたのか、それとも、サッカーの外の世界に目が向いたから、サッカーにやる気がなくなったのか、今はよくわかりません。どちらでもいいと思います。
大事なのは、この瞬間に、僕の人生の中に、「俺とは何者なんだろう」という最も重要な問いが生まれた、ということです。
いざ、高校を辞めてみよう!(高校の辞め方マニュアル)
おそらく、note史上初、高校を辞めるマニュアルを紹介します。
中学を卒業した私は、家の近くの県立高校を受験し、入学し1ヶ月で辞めることになりました。
担任の先生に、「辞めるので明日から学校には来られません(「行きません」ではなく「来られません」という言い方に配慮を感じてほしい。笑)」と言うと先生は「ちょーっと待って待ってちょっと待って」と言い(言ってない&古い)、結果、私と両親、校長と教頭の5人で話し合いをしましょう、ということになりました。
もちろん両親は「は?何言っとるん?」と最初は反対の姿勢でしたが、次第に呆れられ「もう好きにせえ」と言われました。
スーツ姿の両親はその時初めて見ました。着席するなり校長先生は、「なんで辞めようと思ったの?」と聞いてきました。私は正直、人に説明するできるほど言語化もできておらず、まともに答えようとも思っていなかったので「専門的な勉強をしようと思って。」という自分でも笑いそうになるような理由を言いました。
「何をしたいの?」と問われても「それはわからないんですけど。」という私に校長は「うーん、よくわからないねえ」と腕組みをしました。(こっちが言いたい)
高校中退以降、私は家に引きこもりました。
引きこもっていた時に私がしていたのは、
①高卒認定試験をパスするための勉強
②本を読むこと
の2つです。
①は、受験勉強のセンスがある人(暗記が得意な人)は2,3ヶ月頑張って勉強すれば合格できるような簡単なものなのでここでは割愛します。(意外と知られてない)
②において、私はマジで大量に本を買い、そして読みました。
なぜか仏教や、哲学、宗教系の本が好きで、中学の頃先生に「掛君はキルケゴール(デンマークの哲学者、「絶望にもレベルがある。しょうもないレベルで絶望するな!深いレベルで絶望しろ!」と言った僕のお気に入りの哲学者)みたいなことを言うね」と言われ(嬉しかった。)、哲学をかじりはじめました。
マジで半端ない人たち
皆さんは、「この人はマジで半端ないな。。。」という、ため息が出るような人に出会ったことがあるでしょうか。私はあります。人生で最初に出会ったのは、本の中でしたが、日本仏教史を変えてきたお坊さんたちでした。
空海、栄西、道元、親鸞、法然、そして一休、、、
この人たちの伝記を読むほどに、こんなにも激しく生きている人がいるのかと思い、そして何より、当時の「思想=人々の生き方を大きく変えた」という点に痺れました。
「俺もこんな激しい生き方をしてみたい・・・」と痛烈に思い、道元さんが開いた曹洞宗の大本山、福井の永平寺に出家しようと思いました。永平寺とは別ですが、千日回峰行という命懸けの修行にも憧れました。しかし、出家したら二度と在家に戻ることはできません(建前上)。
その時、これら歴史上の傑物にはある共通点があることがわかりました。
彼らは皆、20代のころ、「文字通り命懸けで、死にそうになりながらも、人生の師を求め、出会い、その人の元で修行している」ということです。
そんな時に、(今は恐山の管長をしている南さんの)この本を何度か読んでいました。
今読んでも何も感じないのですが(笑)15歳当時「老師の元に訪れては問いかける少年」と自分を重ね合わせました。「俺も老師に出会いたい」と願いました。
「出家するか、東京に行くか・・・」二つに一つだ。。。
私はこのあと、高校一年の夏に高卒認定をクリアし、高校一年の終わりに単身上京することになります。
その辺りのことはまた今度書きます。(たぶん)
あー疲れた。笑
今日はこの辺で。読んでいただき、ありがとうございます。
あとがき(文章の目的)
この文章は、「必要に迫られて」書くことになりました。
というのも、ある社長さんから「泰輔(私)に対して、仕事の関係者から誤解が広がっていて、それがマイナスに作用することが多いのではないか」という問題提起をされたからです。
泰輔は、要領が良くて、損得で動いていて、アタマがキレル感じのイケスカナイ野郎だ...
完全に否定することは難しいですが、そんなことないだろうと内側では思っているわけです。
しかし、「内側で」思っているだけで、「表現しなければ存在しないのと同じ」というのはこの世の摂理(おおげさ...)だと思っているのであえてここで今一度、「表現」をしようと思ったわけです。
「泥臭さ」とというと一周回ってかっこいい感じですが、ここに書いたのはもはや黒歴史ですね。
これからもどんどん、挑戦しまくり、言わなくてもいいことを言いまくり、事を荒立てまくって、しかし全ての人が結果的にハッピーになるため、黒歴史を更新する人生を歩たいと思います!えいえいおー!
編集後記
なぜサムネイルが尾道三部作の「さびしんぼう」の名シーンなのか?
ブログタイトルの「黒歴史」とは、いわば、「自分も思い出したくない、見たくない過去」である。
このさびしんぼうのシーンには「見たい過去だけみていて」というテーマが凝縮されてるのである。
メタファーとしての
雨
階段
白塗りの顔
見たくないものと、見なければならないものの、激しい対立。
なぜ人は大人になるのか。
大人になるとはどういうことなのか。
私たちは何を失いながら生きているのか。
大人になるとは、大事なものを失う、ということだけなのか。
母親の(富田靖子演じる)少女の内面、
「きれいな側だけを見ていて」のセリフとのリンク
このシーンから、人は生きる為に、何かを封じ込めて忘れていってしまう、そんなキラキラした大事なものを思い出させてくれるのです。
そう、「きれいな面だけではない」という意味で「黒歴史」で、サムネイルはその逆説的表現をしているというわけなのです。
終わり。
(友人の鈴木ブルさんとのディスカションより引用)