元気な花の隣に
1.
「いってらっしゃい。またね」
ある朝、俺が彼女の家を出る時。
彼女は俺に一輪の花をくれた。
青いバラ。
人から花をもらうなんて、たぶんこれまでの人生で一度もない経験だったのだけれど(小学校の花マル以来かもしれない)、驚いた理由はそこじゃない。
彼女がこんなに美しい花を隠していたってことに、一緒にいた数時間、まったく気づかなかったからだ。
それに、俺がたまらなく好きな色合いのバラだった。
赤じゃなくて青だよ。かっこいいじゃん。
そんなことを束の間思っていると、泣きそうになってしまう。
「なんだよ、もう!」と怒ったふりでごまかしたけれど、きっと気づかれたんだろうな。
彼女は無邪気に「にへへ」と笑った。
そういうとこだぞ。かわいいやつめ。
――はい、終了。
そんな話で惚気けたい、自惚れたいわけじゃない。
とかなんとかいいながらも、俺はご機嫌で彼女の家を後にした。
少し歩いて電車に乗り、ターミナル駅で乗り換える。
人がいっぱい――あ、ネクタイ替えねえと。
改札内の公衆トイレは混み合っていた。相変わらず鼻を突くニオイ。
個室は混んでいたので、鏡の前で別のネクタイを結び直していると、後ろからオッサンに舌打ちされた。うるせえ。
まあ、これもいつもの風景だ。
8:50に到着してデスクに腰掛け、カバンを机の下に置く。
昼休みまで仕事をこなして、昼飯食って、夜にはちょっと残業。
一人暮らしの家に帰る。コンビニで弁当を買うが、酒は別にいらない。
コロナ禍は毎日どこもかしこもが、明日世界が終わりそうな空気だったけれど、結局庶民レベルでの生活は元通りになった。
少なくとも俺にとっては、いつも通りだった。
2.
翌朝、寝坊。
こういう朝に限って、髪のセットが決まらない、靴下も一足見つからない現象。いつになったら止まるのか。
ばたばたと玄関で靴を履きかけた時、視界の隅を見て気づく。
あっ、花は――
忘れてた。ここに置いたままだった。
思わず拾い上げて、花瓶、花瓶……そんなのあるわけない。
しかたないから、カバンの中にあった空のペットボトルを、しゃーっと洗って水入れて、代わりに。
彼女に申し訳なかった。
花は、あの青いバラは――
ちょっぴりしおれかけていて、上の方は折れ曲がっていた。
俺にはこういう花の正しい扱いがわからなかったし、たぶん通勤電車に挟まってやられたのかもしれない。
なにより一晩もここに置き忘れていたこと。
自分に腹が立った。
それでも、8:57には会社に着いて、仕事を始める。
そんな毎日にも、腹が立った。
3.
いつも通りの帰り道。
の、はずが寄り道。コンビニ以外では珍しい。
「あの、すみません」
「はい、なにかお探しですか?」
「バラ、青いバラってありますか」
花屋なんて初めて入ったんじゃないか?
「あー、申し訳ありません。当店では取り扱ってないですね……」
「注文、とか、したらいいんですかね」
「それもできなくはないんですけど、青いバラって、流通数がすごく限られてるんです。だからお待たせしちゃうかもしれなくて……」
困り顔の店員だったが、あ、と声を上げる。
「他の色だったら!」
と、俺の反応を見るまでもなく、こまこまーっと走っていって、戻ってくる。走りも頭の回転も、すばしっこい感じだ。
彼女の手には、いろいろな色のバラが握られてきた。
「どちらがお好みですか?」
淡い紫、オレンジ、黄色、そして王道の赤。
青はなかったけれど、まあ、なんか、いいかな。
あの青いバラに似合うんだったら、これかな。補色だっけ。
オレンジのバラを一輪選び、買って帰った。
キッチンのシンクに置いたペットボトルの水を替え、ラベルを剥がして。
青いバラの隣に、オレンジのバラを差してやる。
なんだ、意外とセンスあるじゃん、俺。
しおれて折れ曲がった青いバラと、まっすぐと立つ小ぶりなオレンジのバラ。
支えているような、目が合っているような、二本のバラ。
きれいだった。たぶん、いい感じに。
4.
日曜日。
今度は彼女が家に来た。
何気ない休日を一緒に過ごし、昼食に焼きそばを作ってもらう。
腹いっぱいでぼーっとしていると、ふと頭によぎる。
しまった。
この間の「お返し」を用意しておくんだった。
彼女にも青いバラが、いや、オレンジの方が似合うか?
そんなことを考えていると、キッチンの方で洗い物をしている彼女の姿がたまらなく愛おしくなって、立ち上がって見に行く。
キッチンには、彼女と……一輪のバラしかなかった。
「あれ、あの青いバラは?」
「捨てちゃったよー。枯れちゃってたし」
「なんでだよ」
「なんでって、隣にいる元気なのに影響出ちゃうといけないし」
そうなのか。と言いかけたが、たぶん声になっていなかったと思う。
知らなかった。
元気な花の隣に、しおれた花を置いておくと、一緒に枯れてしまうらしい。
元いた場所に戻って座り込み、考えてしまう。
気づかなかった。
あの青いバラは、生きていてはじめて、彼女からもらった大切な花だった。
だから俺は、多少しおれて折れ曲がっても、大切にしていたくて。
寂しそうな青いバラの隣に、元気なオレンジのバラを添えてやった。
オレンジと、青。支えて、支え合うその姿。
まるで目線が合っていて、美しいなんて思ってた。
わかってる気でいた。
でも実際には、見ている向きも違っていたし、
勝手に支えられていたのは青だけで、オレンジには関係のないことだった。
悪意なく、お互い気づかないうちに、青がオレンジのバラを蝕んでいた。
なにもかも、思い過ごしだと言われても。
まるで俺らだった。
俺は、何も考えていなかったんだ。
彼女に何を返せるだろうか。このままじゃ、俺は――
水の蛇口を締める音。
「どーしたの?」
洗い物を終えた彼女はそばにやってきて、俯く俺を覗きこむ。
ああ、俺、今どんな顔してるんだろう。
涙ごしに見える彼女が、「にへへ」と笑った。
「なんだよ、もう」
そういうとこだぞ、かわいいやつめ。
(おわり)