銭は毒薬。使い方次第で薬になるが。だから、人間滅亡したら原因は銭だろう。


上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・

お不動さま:『地球はなぜ
下から2番目にレベルが低いか
分かるか?』

しのぶ:『えっと・・・
以前に地球は
戦争をしているから
レベルが低いと
教えて頂きました・・・』

お不動さま:『そうだ。
ではなぜ戦争が起こるか
分かるか?』

しのぶ:『え~・・・と
自分の利益を得る為ですか・・?(・_・;)』

お不動さま:『それじゃちょっと
分かりにくい。
もっと分かりやすく。』

(ひ~!怖い~!
お不動さま直結の時の
和尚さんの話し方は迫力があって
背中がピシッとなります。。。(T_T))

しのぶ:『お金の為ですか?』

お不動さま:『そうだ』

以前にも神さまから
聞かせて頂いた事ですが
神さまは地球上の人
全員に食べ物が行き渡るように
地球をお創りになられたそうです。

でも、飢えている人がいるのは
分け与えようとしないからだと。

神さまは最初から
地球上にある
食べ物も、水も、空気も
鉱物や石油などの資源も
地球上の人で分け合えるように
みんなで助け合って
生きていけるようにお創りに
なられたのに

いつからかお金が出来て
いつからか誰かが
神さまの与えて下さった
ものに値段を付けて
みんなが聞こえていた
神さまの声も聞こえなくなって
しまったのだそうです。

しのぶ:『じゃあ、地球以外の
星にはお金がないって事ですか?』

和尚さん:『"地球以外の
星の人間はみんなが
自分の出来る事や得意な事を
してお互い助け合って生きてるから
お金なんて必要ないんだよ"
っておっしゃってるよ』

(あ・・、和尚さんが
戻ってきた~(;・∀・)
ちょっとほっ・・・・)

和尚さん:『それに
地球以外の星の人達には
神さまの声が聞こえるから
間違った方向へ行ったり
しないんだって』

えぇーーー!?∑(゜ロ゜ノ)ノ

しのぶ:『えぇ~!?
他の星の人達は神さまの声が
聞こえてるんだ・・・・』

和尚さん:『うんうん。
"地球人は自分が正しいと思うから
ケンカになる。よその星の人は
正しいのは神ただお一人と
いう考えしかない"って
お不動さんがおっしゃってる』

そうなのかあ。。。

宇宙に住んでいる人達には
この宇宙の理(ことわり)や
神さまの存在が分かっているから・・・

みんな助け合って
生きていく事を神さまが望んでおられて
そうする事で生きていけるんだという事も
理解がしているから

戦争もなくて平和に
暮らしていけてるんだなあ。。

もしも今の地球が
本来神さまの創られた
地球のシステムであるならば

今地球に生きている人が
悩んだり苦しんだりしている
ほとんどの事が
解決するような気がする。。。

和尚さん:『人は人よりも
贅沢をしたい。楽をしたい
と思うから、お金を生んだんだって。
自分が楽をするということは
誰かがしんどい思いを
しているということなんやけどね』

神さまは
みんなが助け合って
生きていけるように
みんなの差がないように
地球を作られたのに

地球に住んでいる
私たち人間が作った
お金というシステムによって
どんどん助け合いとは
反対の方向に進んでしまって・・・

そう考えていくと

"人間がお金を作った時点から
滅ぶことが決まっている"

という神さまのお言葉が
とても納得が出来ます。

なぜなら今の地球は
神さまの望まれる
助け合いとは
真反対の方向にいるから。

"神さまは差をなくしたい
人は差をつけたい"

この考え方の違いが
なくならない限り
人類は滅びの方向へ
進んでいくしか
ないのだと思いました。

しのぶ:『ああ~・・・。
今度生まれ変わったら
地球以外の星に生まれて
平和に暮らしたいなあ。。。』

和尚さん:『宇宙の他の星は
平和そのものやで~
技術は地球と比べ物に
ならないくらい発展してるけど
戦争はないし、そういえば
この前他の星に連れて行かれた時
誰かのお祝いがあるんだって
川を手こぎの木製の船をこいで
お祝いの場所に向かってたのが
不思議やったなあ。。。』

しのぶ:『えっ?木製の
手漕ぎの船??( ̄▽ ̄;)
地球より技術発展してるのに?
それこそ、空飛ぶ車とかもっと
早く移動できるUFOとかは?』

和尚さん:『いや、それどころか
瞬間移動みたいなのが
出来るシステムも普通に
あるんやけど、あえて
船でのんびり楽しみながら
いこうよ~みたいな感じやったな~。
時間がすごくゆっくりと
流れているというのか』

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり

私は、この「神さんのいうこと」が全部正しいとも思えないけど

「滅びるとしたら、人間の滅亡の主因は、銭だな」

てのは、間違いない。

銭は、格差を表現する方法である。

でも、それはものの一面にしか過ぎない。

正しいけど、一端なので、それに執着すると、それが過ちの原因になる。


まあ、よくいうと、

「お金は妙薬である。使い損ねると死んでしまう毒薬」

そもそも

「妙薬は口に苦し」の原典は

「毒薬は口に苦し」

なのですはね。


でも、毒なので、用量・療法を間違えると、死にます。


「銭」の持つ「毒薬性」をもっと深刻に考えないと、マジで人間は死に絶えます。


そういえば、湖南さんが


上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・・

世界観の二重性

【第七章】冥想に取り組む姿
4.世界観の二重性

世界観の二重性とは、悟っている人は、二重のリアリティ、二重の現実に生きているということ。

よくある間違った見方は、悟っている人は、世界のすべてや他の人間と一体なので、どんなひどいことをされても怒らないとか、衣食住が不足しても平気だとかいう見方。これでは、悟っている人は無制限な虐待にさらされることになる。悟っている人は、動物園のパンダでもパンチング・ボールでもない。

そうした甚だまずい仕儀となったのは、イエスだけでなく、イスラムのホセイン・マンスール・ハッラージなどがいる。

登山や荒れ地の旅行だとわかるが、人間は飲み水や食べ物が三日手に入らないと死んでしまうのが普通。肉体人間とは、はかないものだ。そうした物質面もさることながら、精神面ではほとんどがみじめで情けない自分を抱えながら生きている人が多いのではないだろうか。

人は一人で生まれ、一人で死んで行く。人間には現実として救済などない、と見切ったところから求道をスタートさせ、幸運にも神仏(ニルヴァーナ)という無上の至福を見たり一体化できたのが数少ない悟った人。

彼らは、みじめで情けなく無力な自分という一つの現実(リアリティ)に生きると同時に、何の問題もない至福という現実(リアリティ)も生きている。

彼ら覚者のまわりに集まって来る連中が、どうしても幸福や解脱に関心が高いので、ニルヴァーナこそ現実であるとことさらに強調されるのだが、冷静に公平に見てみれば、彼らは二重の現実(リアリティ)に生きていることに気がつくのではないだろうか。

釈迦は胃癌で死んだ、イエスは磔で死んだ、日蓮はお腹をこわして死んだ、禅の巌頭は盗賊に首を斬られて大声で悲鳴を上げて死んだ。こういうものは、すべて悟った人でも「みじめで情けなく無力な自分」である証明ではないのだろうか。

一休は70代になっても30代の妾と情欲に爛れた生活を送っていた。臨済は「今日の御馳走のメニューは昨日のと比べてどうだ」などとつまらないことに関心を持っていた。クリシュナムルティは禿を気にしていた。出口王仁三郎は子供が死んで大泣きした。こうしたものも、悟った人でも「みじめで情けなく無力な自分」である証明ではないのだろうか。

そうであっても、なにものにも傷つけられない自分があることを知っているのが悟った人。

そして、その二重の現実(リアリティ)相互には時差がある。同時には存在しないのだ。それは葉隠の『浮き世から何里あらうか山桜』でも見てとれる。

わたしの見るところ、自分と全体が一致する瞬間はあるが、それに居っぱなしでは、社会生活できないので、そこから出て社会生活する。その際、自分と全体が一致することこそ真実であり真理だと承知はする。だが、『時間は、自分と全体の間の刹那にある。』換言すると自分と全体の一致から出れば、『自分と全体は分離し、そこには時間差が生じる』。時間は心理上のものなのだ。

この辺が、迷い(マーヤ、無明)なくして真理は存在しないという消息だろうか。

・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

こういうところがわかった人が、経済システムの設計をしないと、早晩、人間は滅びるかもしれない。

確か、量子論は、粒と波の二重の性格・実態を量子は持つ。ってことらしい。

実は、人間の存在もそんな面もあるのだ。

とはいえ、「相対」 て一つの「武器」を発達させて「絶対」ていうもう一つの確実にあるリアルに鈍感になったのが、今の人間だと思う。

まあ西欧近代文明てその典型だしな。

「差がある」のも、リアルながら、「差が無い」てのもリアルで、どちらかに執着すると、滅びる。

「差がある」に執着し酔っている今の状態の人間文明は、

「地球は下から2番目にレベルが低い」

のも、そういうことだろうし、仏道の区分で言うと「餓鬼道」かもしれない。

なんせそこでも底辺クラスの日本ですからな・・・

https://www.data-max.co.jp/article/12439


歴史を遡ると、江戸時代の後期の民衆の間に広く定着していた「通俗道徳」的倫理観に注目することができます。江戸時代後期の商品経済の急速な浸透によって、民衆は商品経済に巻き込まれ、「家」まるごと没落の危機に直面しました。そうした事態に直面した民衆は、勤勉、倹約、謙譲、分度などの規範を内面化し、それに従うことで家没落の危機を回避しようとしたのです。こうした勤勉、倹約、謙譲、分度などの規範が「通俗道徳」と言われるものです。

その後、この「通俗道徳」というイデオロギーが今日に至るまで、日本国民を縛り続けていくことになります。

市場経済において、努力したにもかかわらず、失敗する人間は常に存在します。しかし、通俗道徳、すなわち「勤勉に働き、倹約に務め、努力するものは成功する」というイデオロギーを前提とすると、経済的な失敗者は、そのまま道徳的な敗北者になります。

高度経済成長を牽引した、時の内閣総理大臣池田勇人は、「救済金を出して貧乏人を救うという考え方」を批判して、占領期の社会政策を「贅沢過ぎ」だと断罪しています。それは、経済的弱者を救うことは「濫救」「惰眠」を増加させるものだとみなされていたからです。


通俗道徳が支配する社会とは、「努力が必ず報われる」という建前のもとで、勝者と敗者が存在する社会です。

しかし、個別の人生1つひとつを取りあげてみれば、そこには多くの偶然が介在しますので、実際には努力が必ず報われるという保証はありません。


それにもかかわらず、人びとは、自らが通俗道徳を実践したことを証明し、社会的な承認を勝ち取るために経済的に成功しなければなりません。

 その結果、勤勉、倹約、自己規律を求める通俗道徳は、逆説的に、生き馬の目を抜くような、「万人の万人に対する戦争状態」としてのホッブズ的世界を招き寄せてしまうのです。

 しかし、バブルが崩壊後、状況は一変します。減税と公共事業に支えられた勤労国家の発動も虚しく、国際的な賃金下落圧力が景気回復を妨げ、巨額の政府債務が積み上がりました。また、少子高齢化が進み、専業主婦世帯と共働き世帯の地位も逆転、近代家族モデルは完全に破綻しました。さらにバブル崩壊に追い打ちをかけるように、市場原理や競争原理、自己責任論が持ち込まれました。

今、日本社会は通俗道徳の実践にエネルギーを費やした多くの敗者で溢れています。

働くことは苦痛でしかなく、勤労の先に待ち構えるのは貧困のリスクなのです。まさに「獣の世」の再来と言えます。

(※)明治日本は一般的には、政治指導者から1人ひとりの国民までが一致団結して「近代化」を追い求めた、つまり「価値観が共有された時代」と言われる。しかし、その一方で、この明治日本を「獣の世」と喝破した人物がいる。大本教の教祖である出口なおである。

『外国は獣類(けもの)の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ目が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ・・・』(出口なお 1837‐1918)

 「獣の世」(「分断社会」はその顕在化の1つ)は明治日本から始まり、一時高度経済成長の陰に隠れて見えなくなっていた。しかしバブルが崩壊、そして今、近代そして資本主義の終焉が近づくにつれて、「新自由主義」などと姿を変えて再びその牙を剥き始めている。
温かみのある、情熱や思いやりに満ちた社会、他者への配慮にあふれ、仲間のために行動することをよしとする誇りある社会、そんな日本社会はもはや昔話になった。そして、今や「貧困」や「格差」という言葉が日本社会を語る日常的なキーワードになりつつある。



第2の理由は日本人の奴隷教育です。

 奴隷教育とは日本では当たり前の次のような教育です。

・良い大学に入り良い会社に入るために勉強する
・成績が良いと褒められ悪いと叱られる


 これは成績が良いと価値があり、悪いと価値がないという価値観で、実は奴隷に対する教育なのです。

 本来の価値観は「存在だけで価値がある」です。

 日本人は「絆」は良いと思っていますが、元の意味は奴隷や動物を拘束する足かせ手かせで、マスクももともとは奴隷に着用させて個性を殺すためのものです。


まあ、下から二番目の星の、さらに最低クラスの国ですから、

当然に、日本は悲惨で惨い状態になりますは。


まずは

他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ 


てことで、「みんなと楽しむ」から始めたら、意外と簡単に、うまく行くのかもしれない。


 劉秀は一貫して他人を喜ばせることで自分も喜ぶという人間である。劉秀の言葉には次のようなものがある。
「人とともに楽しめばその楽しみは長く続くが、自分一人で楽しむのは長く続かず無くなるものだ(楽人者其楽長,楽身者不久而亡。)」
 劉秀は天性の世話好きであり、お節介な人間である。酒も飲めないのに宴会好きなのも、他人が喜ぶ姿を見るのが楽しいのである。自分自身で楽しむよりも、他人と楽しむのがよいというのは心からの実感であった。

 この劉秀の性格をかつて馬援は、人にしてあげられることがあればすべてしてあげようとする人だ(極盡下恩)と評したほどである。
 ただ人の望みをかなえることばかり考えて、人に与え続ける生涯を生きた劉秀は、逆説的にも世界のすべてが自分のものになってしまう。それも文字通りの世界帝国の支配者としての物質的なものだけでなく精神的なもの――国民からの厚い信頼、美しい妻と愛する家族、生涯変わらぬ戦場の戦士たちとの友情……。


復説 一切如來 灌頂智藏 般若理趣
所謂 以灌頂施 故能得 三界法王位 
義利施故得 一切 意願滿足

まず、自ら智慧の水をすべてのものに灌ぐものとなり、これによって真理を悟って成仏する。最上の宝を他人にも自分にも施し、三界のすべての心に願うところとなり、三界の法王の境地に到る。(灌頂施)

資生施故 得身口意 一切安樂 

最後に、生(いのち)の資(もと)となる種々様々なものを施す。この行ないによって、世のすべての飢えたるものは、ことごとく苦しみから救われ、身口意(しんくい)も安らかで楽しいものとなるであろう。(資生施)

まあ、何となく、今回は書きました。




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