そもそも「恵まれてない人」は、その境遇を生き延びるのに、すでに努力を強制されているのですは。




この上記二つの読んでのさらなる感想。

「恵まれている」のは、その境遇から逃れる努力はしなくていいのですは。


「努力に命がけ」なのは、恵まれてない人も同じで、そもそも恵まれてない人は、その境遇を生き延びるのに、すでに努力を費やさないといけない。そ
その分、恵まれている人は、その「生きるための努力」はしなくていいのだから、当然「成功しやすくなる」

のだから「恵まれているから、成功するのは、当然」とは言いすぎだが、そういわれる意味はある。

そもそも努力の「質」と「量」が、同じでも、「生き延びる・やり過ごす」ために、恵まれない人が費やす分を、恵まれる人は、全部「成功のための努力」に掛けれるのだから、当然に成功の可能性が上がる。

それすら理解できない人たちが「成功者」「指導者」だから、当然に日本は衰亡し死滅するのですは。


三国志の劉巴をちょっと想起する。






あるとき、張飛が劉巴の家に泊まる。劉巴は何も話そうとせず、張飛は怒る。後に、劉巴は諸葛亮にこう言う。「志ある者は当然、天下の人士たちと交わるべきです。武辺者と話すようなことはありません。」

劉巴は高潔で、父の殺害等の辛苦を味わって、努力してきた。

で、

張飛も、決して豊かな生まれでなく、山野や戦場を疾駆し、命がけで戦い、努力してきた。


果たして、劉巴は、張飛を「努力が足りない」と批判できるのだろうか?

武辺者 だが、原文に近い訳なら、「兵隊やろう」

もともと諸葛孔明も

「張飛は学が無く生粋の武人だが、あなたを尊敬していました。そんな彼に対してあなたのあの態度は良くないじゃないか。」

となだめて居たし

その後に主君の劉備が

「私はこれから将軍達や文官達と協力して、曹魏と戦い天下を安らかにしようとしている。しかし奴は俺に協力するつもりが無いのか」と

と激怒している。

ちなみにだけど、劉巴は、今では「知る人は知っている」だけど、諸葛孔明が、異国でアニメになっているほど。

そう考えると、エリートの変な選民意識なり、成功者の「努力信仰」は、意味が無いというか糞というか。


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