親孝行よりも、主君への忠 て思想が、日本人を酷薄にした。
そういえば
より
上記文抜粋
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邯鄲城が陥落すると王郎の多数の文書を発見した。そこには劉秀の部下から送られた手紙、王郎と通じたり劉秀を誹謗する手紙などが数千通も見つかった。
それらの文書が続々と劉秀の元に届けられたが、劉秀は中身を開いて見ようとはしなかった。さらに憤然とする将軍たちを集め、文書を山のように積み上げて火を放ち燃やし、笑顔を見せ言った。
「不安に眠れぬ者を安心させてあげよう(令反側子自安)」
これを単に度量を示すエピソードと誤解してはいけない。王郎と劉秀の対決は二つの正式な国家の争いではなく、これら内通文書も単純に王郎と劉秀を両天秤かけたというようなものではないのだ。信都陥落の一件でもわかるように、王郎の突然の挙兵のため、家族や一族が両陣営に分裂したケースが多かった。内通文書の多くは家族間のものであったり、人質になった家族を守るための自衛のものであったのだ。
劉秀は邳彤や李忠のように家族を見殺しにしても大義に生きるという考えに素直に共感できなかった。ただ邳彤や李忠も自分のために尽くしているため、口に出して批判しなかっただけなのである。劉秀はむしろ家族を思い助けようとする行為を貴いものと考えたから、読まずに焼き捨てたのである。
この劉秀の言葉の反側とは『詩経』の周南、関雎の一節にあるもので、愛し合う男女が離れて暮らす相手を想って眠れず寝返りを何度も打つ様子を歌う言葉である。愛する人のため眠れない人たちを安心させあげようと、家族の愛情を何より大切に思う劉秀が、洒落っ気を込めて言ったのである。
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抜粋終わり
より
上記文抜粋
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劉秀の家臣は、家族を命を大切にする家族優先派と、家族に無頓着な功名優先派との二種類に分かれるようだ。戦場で必死に姉妹を助けようとした劉秀、劉秀に捕まったとき母を連れて降服したいと放免を願い出た馮異、母に仕えて孝行が称えられた鄧禹、人質になった母と妻のため王莽軍のため死力尽くした岑彭、父のために三年の喪に服し内通者を母とともに家族のもとに送った銚期、母が亡くなると自ら土を負って運び墳墓を作った祭遵などは家族優先派だ。
対して漢軍に身を投じて家族を皆殺しにされた傅俊や劉隆、人質になった家族を無視した李忠と邳彤、挙兵時に親族を失った李通、家族ごと戦場を連れて動いた耿純、妻の殖財を嫌った呉漢などは、功名優先派と言えよう。
興味深いのは家族優先派の全員が、略奪を禁止するなど軍の紀律の高さを称えられる名将であることだ。逆に功名優先派の呉漢や傅俊は略奪がひどく問題になったし、劉隆は税金の不正で免職されたことがある。
すなわち、家族を大事する人間こそ、人命の尊さを理解できるのだということを教えてくれる。後に後漢王朝では、孝廉という親孝行であるかどうかで官吏へ推挙する基準を採用している。官吏を選ぶのに親に孝行な者というのは、現代人からすると意味不明に思われるが、身近な人間を愛する人間こそ、他人である民をも愛することができるのである。
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抜粋終わり
より
上記文抜粋
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彭寵は漁陽郡で劉秀を助けて補給をこなすなど経営の才能もあり、朱浮を破るなど軍事的にも有能であった。しかし彭寵は自己の才能を信じるあまり、人間関係がうまくなかった。朱浮と対立しただけでなく、同僚である耿況と連携もできず、呉漢、蓋延、王梁などのかつての部下すら彭寵をかばおうとしなかった。最期は唯一の腹心である子后蘭卿すら信用できず、死を招いてしまったのである。
彭寵の性格を示すエピソードが残っている。彭寵の古い友人渤海の趙寬は仇を避けて妻子と家族を彭寵に託していた。ところが趙寬の仇が彭寵に賄賂を送ったところ、彭寵は趙寬の妻子家族を皆殺しにしたという。彭寵は約束や信義よりも財力や能力を信じる人間だったのである。
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抜粋終わり
忠誠心を家族愛よりも大事にすると、出世至上主義者が跋扈しやすい。
今の日本が、出世至上主義者だらけの惨い修羅のリバイアサンの巷になったのは、どれもこれも「天皇」の悪なのですは・・・・
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みに富む社会になりますように