メンヘラの生き残りのための兵法。仮  第四 軍形 

今回から、読み下し文も入れていきます。



孫子曰く、昔の善く戦う者は、先ず勝つ可からざるを為して、以て敵の勝つ可きを待つ。
勝つ可からざるは己れに在り。
勝つ可きは敵に在り。
故に善く戦う者は、能く勝つ可からざるを為すも、敵をして必ず勝つ可からしむる能わず。
故に曰く、勝は知る可く為す可からず。


子曰く、古の名将はまず負けないように備えてから、敵に勝つ隙を待った。
敵が勝てないようにするのは、自分のやり方次第である。
敵に隙ができるかどうかは、敵のやり方次第である。
ゆえに名将は、負けないようにすることは自分の努力でなんとかなるが、敵に隙を作らせて勝つことはなんともできないことがある。
よって古来、勝つべき方法は知ることはできても、実際に勝つことは難しいと言うのである。

現代語訳


病気の悪化をしないのが、第一。

まず悪化しない・安定できる。という土台を作ってから、積極的な治療や復帰策を執行できる。

成功するか否かは、相手次第や、病状&天候やその人の生活の波乱や安定も関係してくるので、成功するか否かは、難しい面があるのだ。

治るってことはわかっても、それで完治する・社会復帰できる・てのは、容易にできる訳では無いのである。


勝つ可からざるものは守るなり。
勝つ可きものは攻むるなり。
守るは則ち足らざればなり。
攻むるは則ち余りあればなり。
善く守る者は、九地の下に蔵れ、善く攻むる者は、九天の上に動く。
故に能く自ら保ちて全く勝つなり。

勝てないものは守勢になる。
勝てるものは攻勢になる。
守りになるのは、国に不足があるからである。
攻めることができるのは、国に余剰があるからである。
守るには地の底に潜るようにし、攻めるときには高い天空から見下ろすようにする。
こうすれば敵に負かされることなく、よく敵に勝つことができる。

現代語訳

症状が悪化しない「守り」の体制になるのは、それは体力・精神力や資力が不足しているからで、

症状を治す・社会へ出ていける「攻勢」は、体力・精神力・資力に余裕があるから可能になるのです。

その維持の方法も、治療への方策も、とらわれず自由な発想で行われることで、その目的を達成するが出来るのです。


勝を見ること衆人の知る所に過ぎざるは、善の善なる者に非ざるなり。
戦勝ちて天下善と曰うは、善の善なる者に非ざるなり。
故に秋毫を挙ぐるは多力と為さず、日月を見るは明目と為さず、雷霆を聞くは聡耳と為さず。
古の謂わゆる善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。
故に善く戦う者の勝つや、智名も無く勇功も無し。

誰もが勝利を知ることができるような戦いは、善の善であるものとは言えない。
世の人が善い戦いであると評価した戦いも、善の善であるものとは言えない。
動物の細い毛を持ち上げても力持ちとはされず、太陽や月が見えるからといっていい目であるとは言われず、 雷の音が聞けても、よく聞こえる耳とは言われない。
古の名将は、勝ちやすいようにしておいてから勝つのである。
よって名将が勝っても、名作戦という評判や手柄を立てるということがない。

現代語訳

「名医」ってのは、たいそうな手術するとか、難病を治すってのもあるが、
患者も知らぬ間に治っていて、それが格別に医師や、当人の奮闘のお蔭とも感じるようなことなく、治して社会復帰できるようにしてしまうのだ。

そもそも健康を維持するようにそれとなりに助言して実践していたら、「難病を治した」って評判など立つはずも無いし。

健康で居られる環境や生活をしていれば、容易に病気は初期のうちに治してしまう。
そうすれば、「名医だ」「凄い闘病記だな」など言われることなど無いし、それが究極の名医であり、すぐれた回復法・治療法なのです。


故に其の戦い勝つことたがわず。
たがわざるとは、其の措く所必ず勝つなり。
已に敗れたるに勝つ者なり。
故に善く戦う者は、不敗の地に立ちて、敵の敗を失わざる者なり。
是の故に勝兵は、先ず勝ちて而る後戦を求め、敗兵は先ず戦いて而る後勝を求む。
善く兵を用うる者は、道を修めて法を保つ。
故に能く勝敗の政を為す。

よって敵と戦って勝つことは間違いない。
間違いないとは、戦えば必ず勝つということである。
なぜならすでに敗れている敵と戦って勝つからである。
名将は不敗の立場にたって、敵の敗北の要素を失わないのである。
勝つ軍は、まず勝つ見通しをつけてから戦い、敗れる軍は、まず戦いを始めてから勝つ見通しをさがす。
名将は、道・天・地・将・法を理解して実行する。
よって勝敗を思うようにすることができる。

現代語訳

これまでのことを考慮して、治療が旨く行く・回復できるのは、確信できるのだ。
なぜに間違いなく回復できるのか、それはすでに「治る目算」があるからでり。
何故に治療できるのか。それは患者が回復しようとしているから出る。

すぐれた医療者は、「悪化しない・人は本来的に生きようとしている」という立場にたって、病の急所を押さえ、患者の生命力の発露を失わないのである。

名医・患者は、まず治療の過程を良くみてその治療後の姿を算定するが、ヘボ医者は拗らせる患者は、病の対症療法に追われてその治療の過程を見極めれない。

兵法に、一に曰く度、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝。
地は度を生ず。
度は量を生ず。
量は数を生ず。
数は称を生ず。
称は数を生ずと。
故に勝兵は、鎰を以て銖を称るが若く、敗兵は銖を以て鎰を称るが若し。
勝つ者の戦うこと、積水を千仭の谿に決するが如きは形なり


兵法には手順があり、度、量、数、称、勝がある。
戦場の地形を利用するのが度。
度は量(投入する戦力の判断)を生み、
量は数(軍の編成を定める)を生み、
数は称(配備の重点を決める)を生み、
称は勝(勝ちの見通しをつける)を生む。
すなわち勝兵は、鎰(20両の重い物)をもって銖(24分の1両の軽い物)の兵力と戦うようなものであり、敗兵は銖をもって鎰の兵力と戦うようなものである。
名将は蓄えた水の堰を切り、深い谷に流し落とすような戦い方をして勝つのである。

現代語訳

治療に関して、目算の手順がある。

病状の重さや、回復の目指すところや、患者・当事者の経済力・生活力に周囲の環境や、社会状況や、居住地域の環境や人間関係・気風や社会を見て、その治療・回復策を考量するのである。

それで成った治療計画による、治療・復帰策は、当然のように成し遂げられるのである。


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ちょっと大言壮語みたいなことも書いてしまいましたが。

それだけ、「状況分析」がいかに大事か・・・てことですよね。

その状況分析は、患者のメンタルだけ無く、その身体的な特徴や家族・友人関係だけや職場や学校の関係だけでなく、地域の習慣や気風や社会状況や、政治的な医療や雇用のありようまで、関わってくるのです。

メンタルと言う、精神・身体をまたぐ疾患・不調なのですから、それだけ総合的な判断が当然に必要になります。

そういえば、鋭い社会批評が、精神科医や心理学者から、昨今されることが多いのは、彼らが、否応なくそういう社会のひずみをもろに受けるメンヘラという立場の人たちの治療に関わっているからでしょう。

でもその精神科医も、ピンキリで、下の方が残念ながら多いのが現状に思えます・・・



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