暇つぶし・・・家康の手本?でもないけど、劉秀の話。


まあ、大河もあって、家康が話題ですけど。

光武帝劉秀も似たところあるよな・・

神君伊賀越え~河北の逃避行・・


劉秀は南に逃げ、昼も夜も城に入ろうとせず道端に泊まって食事した。安平郡饒陽県に着くと属官もみな飢えていた。
 みな飢え疲れたが、馮異がほうぼうの家を巡って食糧を集め豆粥を作って配った。
 明くる日、劉秀がいった。
「昨日は公孫の豆粥のおかげで、飢えと寒さもしのげたようだ」
 しかしこれは十分な量ではなく、どうやら劉秀の部下へはあまり行き渡らなかったようだ。そこで劉秀は王郎の使者と偽称し饒陽県の客舎に入った。饒陽県の官吏が食事を出すと、従者たちは飢えていたので先を争って食べた。その見苦しい様子を見た官吏は偽者ではないかと疑って、太鼓を数十回鳴らし、王郎の将軍がやって来たと偽ると、属官はみな色を失った。
 劉秀は逃げようとしたが、逃れられないことを恐れ、落ち着いて座って言った。
「どうぞ邯鄲(王郎)の将軍を入れてください」
 そして、またしばらく食べてから去った。
 県の一般人がはるかに呼びかけて門を閉じさせた。門の隊長はいった。
「天下はどうなるかわからないのに、長者(人望がある者)を閉じ込めたりしてよいものか」
 ついに南に出ることができた。
 このエピソードも劉秀の性格がわかり興味深い。賞金首は劉秀本人であって、付き従う官吏たちではない。捕まって殺されるのは劉秀だけで、官吏たちに命の危険はないのだ。それなのに、飢えている官吏を見かねて自分の命を賭けて見せたのである。
 さらに昼と夜の区別なく逃げ、雪や霜の中を突破した。天候が寒く顔が破裂しそうであった。


学習大好き


教育振興
 劉秀は教育制度も変更した。劉秀は自身が太学出身の学識者であり、学問を好んだ。戦乱でたくさんの書籍が失われたので、自ら賢者を訪ね、経典の校正や補充を行った。たくさん学者が劉秀の元に集まり学問の再興が始まった。范升、陳元、鄭興、杜林、衛宏、劉昆、桓栄など名だたる学者たちが自らの蔵書を持って洛陽に集まった。
 五経博士、五種の経典についての博士を選んだ。『易経』には施氏、孟氏、梁丘氏、京氏があり、『尚書』には欧陽氏、夏侯氏が二人、『詩経』には斉、魯、韓、『礼記』には戴氏が二人、『春秋』には厳氏、顏氏があり、合計十四博士である。
 学問の設備として建武五年(西暦29年)に太学を、中元元年(西暦56年)に三雍を建てた。太学は劉秀が若い頃に通ったのと同じく大学である。三雍とは明堂、霊台、辟雍の三つの建物で、明堂は会議と教育の場、すなわち講堂のようなもので、辟雍は蔵書を置く国立図書館であり、霊台は国立天文台である。
 劉秀は基礎教育を重んじ、地方にも広く学校を建てた。また近衛兵である虎賁兵に『孝経』を学ばせたと記録される。『孝経』は『論語』と並んで初等教育の教材として広く使われたものである。


劉秀は毎日早朝から日が暮れるまで仕事をした。たびたび大臣や学者を呼んで夜中まで経典について議論したという。
 皇太子劉陽は、劉秀が働いてばかりで休もうとしないのを見て、おりを見て諫めた。
「陛下は古の聖王禹王や湯王のように賢いのに、黄帝や老子のように体を大事することの大切さを忘れています。心を休めてゆっくりとなさってください」
 劉秀はこれに対して、
「私は自分からこれを楽しんでしているのだ、だから疲れたりしないのだよ」
 と答えたのである。現代中国語の成語「楽しめば疲れない(樂此不彼)」として知られるものである。
 これは決して事務が好きだという劉秀の地味な性格を表現したものではない。『論語』にある孔子の言葉、
「良く知っているというのは、それを好きでやっているというほどのことではない。好きでやっているというのは、それを楽しんでやっているというほどのことではない(知之者不如好之者,好之者不如樂之者。)」
 という言葉を受けたもので、体を心配する息子に対して、「俺は既に聖人の最上級に達しているのさ!」と洒落っ気を込めて言ったもので、現代人ならばさしずめ人差し指を立てて横に振ったり、ウインクしていう台詞なのである。息子の劉陽は学者としても第一級の人物として知られ、儒教の教典を講義すると、その講義を聴くために十万人もの聴衆が集まったほどの人物であるから、説明の必要もなくその意味を理解したであろう。
 楽しめば疲れない(楽此不彼)。この原理はフロー現象として知られ、ハンガリーの心理学者チクセント・ミハイの研究で有名である。フロー現象とは一つの活動に没入して他の何ものも問題とならなくなる状態であり、それ自体が楽しく純粋にそれをするために多くの時間や労力を費やすようになるのである。こうした状態では無尽蔵にエネルギーがあふれ疲労を感じないのである。
 劉秀はもともと事務作業を苦にしない学究肌の人物であるし、すべてにおいて現場を体験し、その作業がどんな意味を持つのか体感できたから、一見すると退屈に見える政務を楽しむことができたのであろう。あるいは息子に心配をかけまいとする虚勢であったかもしれない。
 さらに劉秀が疲れずに心労を乗り切った秘訣に、ユーモアと笑いがある。
 劉秀はよく喋りよく笑い人間である。史書に記録される劉秀の会話はそのほとんどに笑いがあるのが特徴だ。ちょっとした洒落やジョークを挟んでユーモラスに語るのである。
 劉秀は話好きでジョークを好んだ。これが政務の心労を大きく軽減させたようである。アメリカの第十六代大統領のリンカーンは、話し好きで比類なく面白可笑しい男(extraordinarily funny man)であると言われていた。リンカーンは、ユーモアがなくてはこの仕事で神経が持たないと言い、政務の合間にはドタバタ喜劇を見て楽しんだ。劉秀もまたジョークと会話が大好きであったが、そうしてこそ皇帝の激務をこなすことができたのであろう。

お笑いが、好きなのは、秀吉だけど、劉秀は「学問好きでお笑い好き」だな。

いつも、少数で多数の敵と戦う羽目になる


 二つ目は、徴兵で大戦力を動員して一気に勝負を決める短期決戦の用兵から、精鋭の職業兵士による持久戦の用兵へと変えたこと。劉秀以前の戦争は、戦いの前に兵士を集めて将軍に与え遠征させるものだったが、劉秀以後は兵士は最初から将軍に直属していて、戦いの前から戦士として経験を積んだ人たちであった。これは古代的軍団から中世的軍団への変化であり、それは劉秀に始まるのである。
 その結果、劉秀の統一戦争はシュールな現象が発生した。秦豊の楚軍十万を岑彭が三万で、李憲の淮南軍十二万を馬成が四万で、張歩の斉軍二十五万を耿弇が五万で、公孫述の蜀軍三十万を呉漢と岑彭の八万で、徴姉妹の南越軍八万を馬援が二万で平定したのである。兵法では兵力は同数なら攻めるに足りぬが守るに十分と言われる。ところが劉秀の遠征軍は常に敵軍の数分の一でしかなかった。これは劉秀の武将が優秀であるというより、後漢軍と他の群雄とは軍事思想が異なる他の時代に所属していたということを意味する。後漢の天下統一は中世が古代を滅ぼした瞬間なのである。
 劉秀は軍事史を塗り替えるほどの武人であったと言えよう。

あと家康は、久能山・日光の千手観音の霊場に葬られ祀られた。

千手観音は、28

ちなみに光武帝の功臣の主要なモノは、建武二十八宿星



まあ、大した根拠もないけどな。

ただ家康も個人的武勇は、結構すごかった。

そりゃ、柳生石舟斎や本多忠勝ほどではないが、かなりの猛将

劉秀は・・・面倒なことは自分の力で解決・・て猛将。


勇者としての光武帝
 歴史小説では一騎打ちが描かれ、将軍の白兵戦も多いが、史実では総大将が白兵戦をするはずもなく、それがあれば負け戦の混乱の中のみである。『三国志』には、劉備が漢中の戦いで矢玉の飛んでくる前線から退こうとしなかったため、家臣の法正に強く諫められるシーンがある。敵に斬り込むのはもちろん、最前線に立つだけでも異常なのである。
 ところが劉秀は将軍であった頃はもちろん、皇帝になっても剣を手に敵中に斬り込み、敵を打ち破る。しかもそのとき周囲の家臣が諫めたという記録すらない。他の将軍たちにとって、劉秀自ら敵中に突入して戦うのは普通のことであって、疑問の余地がなかった。

戦場で戦う皇帝
 君主なのに陣頭指揮して剣を奮った皇帝を捜してみる。
 後周の世宗柴栄は即位時の危機で陣頭指揮し、自ら斬り込ん戦っているが、それは部下の将軍たちの逃亡などの異常事態に際しての、皇帝の威信を確立するための緊急事態であった。
 唐太宗李世民も似た戦い方をしたが、皇帝に即位した後に自ら剣を取って斬り込むような暴挙はしていない。あくまでの父の李淵の将軍であった時期のみ前線に出ていた。明の永楽帝は即位前の内乱時に最前線で自ら戦っているが、自分の命は取るなという敵軍の命令を利用したものと言われている。そう考えるとこの皇帝劉秀の勇戦ぶりは異常な出来事だとわかる。
 残りは、五胡十六国の前秦の苻生や、五代十国の地方領袖のような、名前だけの皇帝ぐらいである。
 皇帝という枠をはずして、無敵の勇士である西楚覇王こと項羽はどうか?
 しかしその項羽ですら、『史記』では最期の死ぬ間際、逃亡時の戦いにしか白兵戦のシーンの記載はない。劉秀のように戦いの山場で突入したかははっきりしないのだ。
 すなわち特別な事情もなく普通の戦いで敵中に斬り込んで戦う皇帝は、歴史上に劉秀以外に一人もいないのである。


で、寛容に、三河一向一揆で敵対した家臣を許した{寺はぶっ潰すけど}家康。

「許す」マニアの劉秀


 劉秀は大急ぎで任光に兵士を率いさせて信都の救出に向かわせたが、任光の兵士は道中でばらばらになって王郎に降伏してしまい、功績なく帰った。兵士たちの家族が信都にいたからである。
 この劉秀の判断は難解なものである。既に大軍が集まっているのだから、信都に関係のない兵士からなる大軍団を編成して派遣するのが常識的な判断である。それをわざわざ家族を人質に取られている兵士たちを援軍に選んで不十分な兵力で急行させたのである。李忠に言った言葉「兵士は既に揃ったから家族を助けに帰れ」と合わせて考えると、意図的に信都に残った家族の元に兵士を返そうとしたのだと考えられる。とりあえず人質になった家族を助けるほうが、戦意のない兵士を無理に引き留めるよいと判断したのだ。
 思えば南陽での挙兵当初から今まで、劉秀の元に集まった将軍や兵士たちは、何と多くの家族を失ってきたことであろう。敵地になった郷里に家族を残して従軍したために、家族が敵に惨殺されるケースが多く、劉秀はそれを痛ましく思って、彼らの家族を助けるため味方の将軍を騙したのである。
 これに似たケースがある。後に銚期が魏郡太守をつとめていたとき、部下の李熊の弟の李陸が、城の外へ逃げて敵軍に身を投じた。すると銚期は、李熊とその母を城から出して李陸の元に行かせたのである。家族同士が敵となって殺し合うほど残酷なことはない。家族は一緒に行動すべきだという考えはそれほど不自然ではないのだ。
 さて一度は王郎に奪われた信都であるが、劉玄のところから新しく来た謝躬軍が大軍で信都を攻め破ったため、李忠と邳彤の家族も助かった。すべてが劉秀の計算通りだったようである。

内通文書を焼き捨てる
 邯鄲城が陥落すると王郎の多数の文書を発見した。そこには劉秀の部下から送られた手紙、王郎と通じたり劉秀を誹謗する手紙などが数千通も見つかった。
 それらの文書が続々と劉秀の元に届けられたが、劉秀は中身を開いて見ようとはしなかった。さらに憤然とする将軍たちを集め、文書を山のように積み上げて火を放ち燃やし、笑顔を見せ言った。
「不安に眠れぬ者を安心させてあげよう(令反側子自安)」
 これを単に度量を示すエピソードと誤解してはいけない。王郎と劉秀の対決は二つの正式な国家の争いではなく、これら内通文書も単純に王郎と劉秀を両天秤かけたというようなものではないのだ。信都陥落の一件でもわかるように、王郎の突然の挙兵のため、家族や一族が両陣営に分裂したケースが多かった。内通文書の多くは家族間のものであったり、人質になった家族を守るための自衛のものであったのだ。
 劉秀は邳彤や李忠のように家族を見殺しにしても大義に生きるという考えに素直に共感できなかった。ただ邳彤や李忠も自分のために尽くしているため、口に出して批判しなかっただけなのである。劉秀はむしろ家族を思い助けようとする行為を貴いものと考えたから、読まずに焼き捨てたのである。
 この劉秀の言葉の反側とは『詩経』の周南、関雎の一節にあるもので、愛し合う男女が離れて暮らす相手を想って眠れず寝返りを何度も打つ様子を歌う言葉である。愛する人のため眠れない人たちを安心させあげようと、家族の愛情を何より大切に思う劉秀が、洒落っ気を込めて言ったのである。


 劉秀は、降伏するものは必ず助けるという方針通り、降伏した渠師(頭目)たちを列侯に封じた。
 しかし『東観漢記』はこの状況について「劉秀の将軍も未だ銅馬軍を信じることができず、降服した銅馬軍も二心を抱いていた」と記す。銅馬軍は劉秀軍よりも遙かに数が多いため、降伏といっても実際には停戦協定、あるいは和平協定に近いものであった。
 諸国を流浪する農民反乱軍である銅馬軍は、長い戦いに疲労し劉秀に降伏したものの、戦いの混乱と興奮から冷めたとき、彼らの間では恐怖と不信が渦巻いていた。問題は兵力差である。敗者の兵力が勝者よりも圧倒的に多いのだ。こんな時に何が起こるか。
 かつて戦国時代の秦の将軍白起は趙の将軍趙括と長平に戦って破りその四十万の捕虜を生き埋めにした。楚の項羽は秦の章邯と戦って破り新安で捕虜二十万を生き埋めにした。後の時代の曹操も官渡の戦いで袁紹軍八万人を皆殺しにした。降伏兵が多すぎると降伏した将軍だけを助けて兵士は皆殺しになるのだ。銅馬軍の兵士たちは、降伏した自分たちの運命がどれほど危険か気づいたのである。降伏したのはこれで命が助かると考えたからなのに、まさに降伏することで死の時が近づいているのだ。銅馬の頭目はまさに劉秀軍に降伏に出頭していてここにいない。頭目は自分たちを売って命を助かろうとしている!
 これは決して杞憂ではなかった。劉秀の部下の将軍たちもほとんどが降伏の受け入れには反対であった。銅馬軍はたくさんの戦友の命を奪った仇敵である。彼らを受け入れるには大量の食糧も必要だ。また多すぎる兵力をどうやって制御するのか。劉秀の漢軍と銅馬軍は一触即発の状態にあった。両軍は未だ合流したわけではなく、離れたところに駐屯しているのだ。武装解除も行われていない。戦いが再開するのは時間の問題であった。
 劉秀はこの不穏な状況を正確に理解していた。飢えに苦しみ何度も敗走し疲れ果てた銅馬軍に、まともな戦意は残っていない。銅馬軍にできることは逃げることだけである。だがもしここで銅馬軍が逃げ出せば、劉秀軍の呉漢、耿弇らの突騎の猛追撃が始まる。それは逃げる銅馬軍を後ろから一方的に殺戮する修羅場となり、無数の死体が散乱する地獄絵図となるのだ。
 劉秀軍の攻撃を警戒しざわめきの収まらぬ銅馬軍の元に、降服の交渉に行っていた頭目たちが、劉秀軍の元から帰還してきた。いつ再起するのか、あるいは逃亡するのか、多くの兵士たちが立ち上がり駆け寄ろうとする。そのとき銅馬軍の兵士たちは、鎧を着ずにただ一剣を帯びた男が単騎、頭目たちの後ろに続いて銅馬軍の陣中に入るのを見た。何とそれは蕭王劉秀、敵軍の総大将である。
 そして劉秀はそのまま銅馬軍の中を巡回し始めたのである。
 仰天したのは銅馬軍である。あっけにとられて静まりかえる銅馬軍の中を、まるで見せつけるように悠然と巡り、自軍の陣地に戻ろうとしない劉秀の姿に、銅馬軍の兵士はその意味を理解する。
 
――この男は俺たちを守るためにここにいるのだ!
 
 総大将たる劉秀が数十万人の銅馬軍の真っただ中にいるのである。これでは劉秀軍の攻撃があるはずがない。劉秀がここにいるのはただ銅馬軍を信頼しているというだけではなく、劉秀軍から銅馬軍を守るためにここにいるのだ。銅馬軍のざわめきは、歓呼の叫び声へと変わった。
 
「蕭王(劉秀)は真心を持って人を信じて疑わぬ、この男に俺たちの命をかけようじゃないか!(蕭王推赤心置人腹中,安得不投死乎!)」
 
 劉秀は降伏した銅馬軍との約束を自らの命をかけて守って見せたのである。殺されるために降伏する馬鹿はいない。降伏を受け入れるとは、命を助けるという約束であり、劉秀はその約束を身をもって証明して見せたのだ。
 これを見た劉秀の部下も驚愕したであろう。いざ銅馬軍を全滅させるべく攻撃かというとき、銅馬軍は大歓声とともに何と自らの大将である劉秀に率いられてこちらに向かってきたのである。そして銅馬軍は無事、漢軍と合流し諸将に分配され、劉秀の天下統一の主要戦力となるのである。
 このエピソードの名声は高く、長く後の世にも伝えられ、推心置腹(赤心を推して人の腹中に置く)という故事成語として知られるものとなる。
 この後、更始帝劉玄の長安朝廷では劉秀のことを銅馬帝と呼んだ。これは劉秀が銅馬軍のために命をかけたことを揶揄したものだ。当時の劉秀はあくまでも蕭王、王であって帝ではない。銅馬軍を降伏させたというが、実際には銅馬に降伏して銅馬軍のお飾りの皇帝になったんだろう、といった皮肉を込めているのである。
 銅馬が降服すると、陳俊を彊弩将軍とし真紅の衣九百着を与え、精鋭の歩兵部隊を編成して訓練させた。この時期と名称から考えると、銅馬軍の兵士から屈強の者九百名を選抜して彊弩を武器とする精鋭の歩兵部隊を編成したようである。


この赤眉軍との戦いは、以前の銅馬軍との戦いと共通点がある。それは敵を食糧不足に追い込んで戦意をそぎ、断続的に攻撃をかけて何度も敗走させ、疲労困憊したところで全戦力を投入して降伏させるというものである。劉秀は味方だけでなく敵の死傷者も最小限に抑えようと考えていたことがわかる。もしも一気に戦いを終わらせるなら、伏兵を置いて退路を断って殲滅するのが速いがそれを決してしないのが劉秀の戦い方なのである。
 というのも劉秀は皇帝であり、敵軍の兵士もまた自らの臣民だからである。劉秀は馮異を戦場に派遣するときに、戦いの要点は勇猛に戦うことや領土を広げることではなく、反乱を鎮めて民衆を安心させることにあると述べたが、この戦いで自らその見本を見せたのである。
 さて赤眉軍の武装解除を行うと、兵士の鎧が宜陽城の西から熊耳山にずらりと並ぶほどの量となった。
 劉秀は県に命じて赤眉軍の兵士に食料を与えた。赤眉軍の人々は長く空腹だったが、十万人あまりがみな腹一杯食べることができた。
 明くる朝、劉秀は洛水に臨む平原に兵馬をととのえ、そこに劉盆子とその家臣とともに軍を眺めた。
 劉盆子にいった。
「殺されないと思うか」
「罪は死にあたりますが、ただ陛下が憐れんで赦していただけるのではと思うだけです」
 劉秀は笑っていった。
「子どもだけにちゃっかりしてるな。宗室には愚か者はいないようだ」
 また樊崇たちに言った。
「降伏を悔いてはいないか。朕はいまそなたたちを自分の陣に帰し兵を指揮させ、太鼓を鳴らして戦い、勝敗を決してもよい。強いて降伏させようとは思わぬ」
 徐宣たちは叩頭して言った。
「臣どもは長安の東都門を出て、君臣が協議して、聖徳に帰することになりました。民衆は楽しみをともにすることはできますが、事業をともに始めるのは難しいので、兵士には告げませんでした。今日降伏できるならば、まさに虎の口を逃れ慈母に帰したようなもの、まさに歓喜するところで、思い残すことはありません」
「そなたはいわゆる鉄中の錚錚、傭中の佼佼というものだな」
 鉄中の錚錚とは鉄の中ではチャキチャキとよく切れるもの、傭中の佼佼とはぼんやりしたものの中で光っているもの、すなわち凡庸な中では優れているという意味で、徐宣のへつらった発言に対して嫌みを言ったのである。
「そなたたちは恐るべき悪事をなした。通るところ老人も子どもも殺し、土地の神々に小便をかけ、井戸やかまどを汚した。しかしなお三つの善がある。城を攻め破り天下をかけめぐったが、女を奪って妻を捨てることをしなかった。これがその善の一である。君主として劉氏を用いた。これがその善の二である。賊軍というのは君主を立てても、負けて降伏するときは君主の首を取って降伏し自分の功績とするが、そなたたちだけ君主を守って朕に降伏した。これがその善の三である」
 この三つの善があるから、命が赦されるというのである。赤眉軍の大臣たちは、家族とともに洛陽に住み、一人当たり一区の邸宅と田二傾が与えられることとなった。
 半年後、樊崇と逢安は謀反が発覚し殺された。自由に天地を荒らし回った彼らには、洛陽での軟禁生活は耐えられず、逃亡を謀り処刑されたということである。
 他の赤眉軍の将軍はどうなったか。
 楊音や徐宣は数年後には郷里に帰ることが許され、家で天寿を全うした。
 赤眉軍の皇帝建成帝劉盆子は劉秀から特別に目をかけられ賞与も多く、後には趙王の郎中となった。後に、病で失明したが栄陽の市税を終身に与えられ天寿を全うした。

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