逃げる天皇、消え去る日本人。
上記文抜粋
・・・・・・・・・・・
終戦は誰のため
第一総軍第二総軍を壊滅させて、いよいよ天皇は戦争を終わらせようと
8月14日、午前11時50分最高戦争指導会議と閣議が、天皇招集の下
開かれました。
午後8時天皇は終戦の詔書に署名しました。
しかしこの詔書はとても読みづらく、わざと難解な言葉を使い
国民は全く内容がわかりづらかったと言います。
意味の解らない終戦の詔書では、困るので読売新聞社編「昭和史の天皇」
第三十巻の口語訳を記載しました。
その終戦の詔書を見てみましょう。
★終戦の詔書 終戦は誰のため
●戦争を始めた理由
【先に米英二国に宣戦せるゆえんも、また実に帝国の自存と東亜の
安定とを願ったためであって、いやしくも他国の主権を押しのけたり
その領土を侵略するようなことは、もちろん私の志とは異なる。】
天皇が米英二国に対して、宣戦したと宣言している文章です。
日本は中国、朝鮮の領土を侵略しました。
中国、朝鮮の主権を押しのけました。
●終戦に至った理由
【戦局は必ずしも我が方に有利に展開したとはいえず、世界の情勢も
また我に不利である。
そればかりでなく、敵は新たに残虐な爆弾を広島、長崎に投下し
その惨状はどこまで広がるか、計り知れないものがある。
このような状況下にあってもなお戦争を続けるなら、わが日本民族の
滅亡をきたすようなことにもなり、人類が築き上げた文明をも
打ち壊すことになるだろう。
それではどうして、わが子供にも等しい国民大衆を保護し
歴代天皇の御霊にお詫びできようか。
これこそ私がポツダム宣言を受諾した理由である】
ポツダム宣言を受諾した理由は、原爆投下だという。
詔書ではそういうことにしているが、戦争を終わらせるために
ポツダム宣言を受諾したのは、国体護持のためです。
戦争終結のための企画は、支配層内部のイニシチアブによって進められ
国民大衆の伺い知ることのできぬ雲の上で進められました。
終戦工作の中心的推進役となったのが、前首相級の重臣たちです。
近衛文麿は、44年7月の重臣会議で、国体護持のためには
戦争を1日も早く集結せねばならぬと説いている。
米内光政も、皇室の擁護ができさえすればよい、、、と語った。
つまり重臣たちは、国体護持、天皇制支配機構を温存するために
戦争を終結させたいと考えたのです。
降伏はそういうことに基づいて実行されたのであって
国民を戦災から救うためになされたものではありません。
怨嗟の声で、民衆の間に潜在的に流れていた反戦意識は
戦局の悪化、国民生活の破壊の進行にともなって
しだいに強くなり全国的に広まっていったのです。
そして,早く降伏しろ、、、といった国民の訴えが多く
このまま負け戦争を続けていては、天皇への恨みの声も増し
皇室を恨む意識が強くなり、支配階級もこのまま戦争を続けていれば
国体護持が困難になると判断したから、ポツダム宣言を受諾したのです。
●国体護持宣言の終戦の詔書
【かくて私は国体を護持した。
私は国体を護持し得たとともに、国民の真の心に信頼しながら
いつも国民と一緒にいる。】
この終戦の詔書は、敗北宣言ではなく国体護持宣言です。
そして最後に
「敗戦はあなた方の罪です、一生懸命働きましたか。
大君のため、すめら戦さということを忘れませんでしたか。
いいえ忘れていたでしょう」
という敗戦の責任を国民に転嫁する発想も忘れず、しっかりと
国民に植え付けておいた。
そのうえで、降伏という言葉を避けて、ポツダム宣言受諾とか
終戦、、、というみえすいたごまかしの言葉を用いたのです。
●この終戦の詔書の本質をもっとも深く分析したのは
マクマホン ポール メルボルン大学教授です。
【敗戦が決定してから、天皇と日本政府の真の態度を示す最も
意味深い文章である。
占領期間中、とるべき戦術と戦略であると私は確信する。
一つは占領者の命令に対する完全な外面上の服従であり
もう一つは、占領者の意志に対する持続で、精神的抵抗である。
この詔書は降伏という言葉を使っていない。
天皇はただ時局を収拾すると決意したにすぎない。
そして日本の侵略を正当化する、奇妙なまでに厚かましい試みがなされる。
天皇は帝国の自存と東亜の安定を庶幾する誠実な願いで
戦争を宣言したと言うのだ。
そして日本が無条件降伏に至ったことは、何も示唆されていない。
むしろ戦局は好転せず、、、だった。
そして最後にポツダム宣言受諾が、日本に国体護持することを
得せしめたという。】
そして終戦の詔書は、最後に
ただただ堪えがたきを堪え、忍び難きを忍んで、人類永遠の真理である
平和の実現を図ろうと思う、、、で終わります。
それでは最後に、松浦総三の文章を見てみましょう。
★天皇裕仁と地方都市空襲 松浦総三
終戦の詔書は、全文が詐欺の文章である。
筆者は10回以上この文章を読んだが、恐るべき文章である。
全文が詐欺と書いたが、決して言い過ぎではない。
それは詭弁、すり替え、ほおかぶりの連続で、国体天皇制を死守するための
グロテスクな文章である。
裕仁が無条件降伏をなぜ終戦と言い替えたのか。
降伏や敗戦ならば、戦争責任や敗戦責任を負わなければならぬ。
しかし終戦にするとその辺は、あいまいになる。
戦争責任を逃れるためである。
裕仁は、NHKの記者会見で(1975年10月31日)、戦争責任は?と
質問されて
「そういう文学方面は、あまり研究していません」と
にべもなく答えている。
しかし終戦という言葉を発明して、戦争責任を逃れたあたりは
相当の文学方面に詳しいと言わざる得ない。
そして次に15年戦争を始めたのは、
「帝国臣民の康寧はかり、万邦共栄の楽を共にする」ことであり
「帝国自存と東亜の安定とを庶幾する」
ための防衛戦争だと言う、なんと図々しい言葉であろうか。
この部分の裕仁理論の最大の弱点は、日本人ならば朝日新聞と
NHKの応援で、ごまかすことはできても、中国や朝鮮フィリピン、マレーシア
インドネシアなど軍靴で踏みにじられた、アジア諸国にとって
裕仁が始めた15年戦争が、侵略戦争でないなどとは、とんでもないことであろう。
裕仁を東京裁判の法廷に引きずり出せなかった、裁判長ウェッブでさえ
次のように言っている。
【天皇をも裁かないようなら、戦争犯罪人は誰も死刑にすべきではなかった
というのが著者バーガミニの意見であるが、私も全く同感である】
裕仁理論=終戦の詔書によれば、アジア諸国に対する侵略も
防衛戦争の一環となる。
裕仁はこの理論を盾にとって、南京大虐殺、シンガポール虐殺、重慶第爆撃
朝鮮人強制連行、慰安婦問題などを黙殺しようとするのだ。
そのような防衛戦争、つまり「正義の戦争」も敵は新たな残虐なる
爆弾を使用して、「無辜を殺傷す」としいうわけで、終戦せざるを得なくなる。
この部分は、裕仁の昭和天皇独白録で
【ソビエトはすでに満州で火ぶたを切った。
これではどうしても、ポツダム宣言を受諾せねばならぬ】
と本音を言っていることと完全に矛盾する。
歴史的事実として、裕仁がポツダム宣言を受諾したのは、ソ連参戦によって
ソ連の発言権が強まれば、国体、天皇制が危うくなるからである。
原爆を投下された8月6日や8月9日は裕仁は
【なるべく早く講和を】
と言っている。
それがソ連参戦で、即時御前会議が開かれるのだ。
というわけで正義の戦争は、終戦となる。
では、戦死者、戦災者の遺族はどうなるのか。
それを思うと朕は、【五内為に裂く】とオーバーなことを言う。
が、時運おもむくところ、
【堪えがたきを堪え、忍び難きを忍び】と言うのだ。
五内為に裂く、、、と言っているが、その内容は被爆者援護法や
空襲の補償はしないぞ、、、、ということであろう。
そして終戦の詔書の一番肝心な
【朕はここに国体を護持し得て、】
という天皇制継続宣言になるのだ。
こんな詭弁、嘘八百、すり替えに満ちた文章は、世界史の中にも
そうざらにはないだろう。
しかもこの理不尽な裕仁理論は、今もハツラツと生きている。】
この終戦の詔書は、敗北宣言ではなく、国体護持宣言です。
この終戦の詔書は、8月15日正午、玉音放送として
大日本帝国臣民の耳に届いた。
しかしその全文が問題化されることはなく、ただ
堪えがたきを堪え、忍び難きを忍び、、の部分だけが
毎年反復されるようになったのです
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり
前の敗戦は、、、日本人を米英の家畜するために必要な「過程」「カリキュラム」だったとみていい。
自己効力感を奪い、自尊心を無くし、「国家の存在理由」も考える余地も与えない。
それに成功して、完全に「植民地化」に成功したのが戦後日本だったのだ。
「天皇」に、存在理由が無い。日本人を守るわけでもなく、国家を守護するわけでもない。
そんなのを「象徴」だの「元首」とかする国家なので、そんな国家が国民を守るわけがない。
国民を守る責務が無い国家・・などあるのかよ・・・て思ったが、ある。日本だ。
天皇在る限りに、正義も人倫も人権も無い。
天皇を根絶して 日本人と日本文明を守る
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みの富む社会になりますように。