近代文明の疵。

上記文抜粋
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 以上述べてきたように、神学と法学にその典型ないしパラダイムが見出される西欧的な〈学〉とは、究極において「存在論」という形をとるところの学なのだ、と言うことができよう。だが間違えないでほしい。存在論 Ontologia という術語自体は、近世初頭にドイツの哲学者ゴクレニウス(Goclenius)やクラウベルク(Clauberg)によって作られたもので、例えばギリシア人はそんな言葉は知らなかった。古代ギリシア語で Onta と言えば、人間存在の歴史性に最初に覚醒した民族にふさわしく、目の前に存在するもののことではなく、過去と未来の事実に対比して現在ある事物のことを意味する。こうした考え方をする民族にとっては、「存在論」とは不条理な観念でしかありえなかったろう。しかし同時にまた、ハイデガーが『形而上学入門』の中で示唆しているように、近代西欧における存在論の支配への途が、前6世紀のギリシア人パルメニデスの何げないような言葉「在るものは在る」によって拓かれたことも疑いえないのである。

・・・・・・・・・中略・・・

 パルメニデスの言葉と共に、存在論は西欧の権力に特有の暴力行使の在り方と一体になった教説として出現する。存在は到るところに在り、一切の存在者に対し容赦なく己れの支配を貫徹し、己れの存在に対して、いかなる弁明も知らない。「何ゆえに存在があって、無があるのではないのか?」 ― 存在するとは、一つの根源的な暴力に引き渡されてあることなのだ。だからパルメニデスが「在るものは在る」と断言するとき、「存在」とは語りの主体たる彼と彼の言辞(レーマ)を聴取する他者を共に同時にさし貫くような、普遍的な暴力の開示である。言い換えれば彼は見た目は対象としての「存在」について語りながら、その実は、自らの存在を根拠となしつつ、己れが独占する可知性へと他者を還元するような言説の主人に自分を仕立てあげている。これは他者と世界を〈客体〉に引き下げながら自らは絶えず無へと遁走する、〈主体〉の神話の原型にほかならない。

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抜粋終わり

「在るものは在る」のテーゼに、新約聖書の「はじめに言葉ありき」~神は言葉なりロゴス~てのが西洋近代文明の「基礎の論理の一つ」

それは当然「論理に外れる~なら、それは神ではない=悪魔 でそれが存在するなら、抹殺!」
「論理に合致したモノだけが存在する。~それ以外は妄想で抹殺!」
になる。

それでできた西洋近代文明のすべてに何か「狂気」が含まれているのは、当然です。

その狂気でできた文明は、狂気ゆえに滅びるのも当然なのです。


って龍樹の「中論」とかに論じた「空の思想史」って本を読んで感じました。
お読みくださりありがとうございます


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