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孤独のグルメ。~天皇制崩壊のはじめ。かな?
より
上記文抜粋
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大晦日も放送…!大人気『孤独のグルメ』が描く「オルタナティブなおじさん」の魅力
井之頭五郎の「新しさ」
12月31日、『孤独のグルメ』のスペシャル番組が放送されます。同作のスペシャルが大晦日に放送されるのは、今年で5年目となります。恒例となった感もあるこの放送を、楽しみにしている人も多いのではないでしょうか。わたしもそんな一人です。
ところで、『孤独のグルメ』の大きな魅力の一つの源泉は、松重豊演じる主人公・井之頭五郎(以下、五郎さん)の独特のキャラクターであるように思います。
五郎さんは、細身のスーツをかっちり着込み、髪の毛をオールバックにセットし、ビジネスバッグを携え……と、見た目はトラディショナルな、仕事のできそうな中年男性です。しかし一方で、食事を目の前にして、そうした典型的なスーツ姿のおじさんの見た目を裏切る振る舞い——素朴な感想を述べ続けたり、身体の声に丁寧に耳を傾けたり、食事で癒されていたりといった振る舞い——を見せるのです。
いわば『孤独のグルメ』という作品は、「オルタナティブなおじさん」「既存のおじさんとは別様のおじさん」のイメージを魅力的に描いている作品であると言えるかもしれません。
……といっても謎が多いと思いますので、以下、その「オルタナおじさん」な雰囲気について考えてみたいと思います(なお、ここでは基本的にドラマ版『孤独のグルメ』に焦点を当てます)。
魅力的な「心の声」
『孤独のグルメ』は周知の通り、主人公の五郎さんが、街にある、なんということはない(けれど、きわめて魅力的な)飲食店で食事をする様子を中心に据えた作品です。
〈時間や社会にとらわれず、幸福に空腹を満たすとき、束の間、彼は自分勝手になり、自由になる。誰にも邪魔されず、気を使わず、物を食べるという孤高の行為。この行為こそが現代人に平等に与えられた最高の癒しと言えるのである〉
という、番組冒頭で必ず流れるナレーションが示す通り、五郎さんは一人で(孤独に)食事と向き合い、食事を楽しみます。
何かと気ぜわしく、追い立てられるように食事をすることが多い現代において、ストレートでシンプルな「食べる喜び」を感じさせてくれるという点が、この作品が大ヒットした要因の一つなのかもしれません(その意味で、「いま・ここ」に集中するマインドフルネスの流行との相似を指摘できそうです)。
さて、『孤独のグルメ』の大きな特徴の一つが、五郎さんの食事シーンにおける「心の声」にあるというのは、多くの視聴者が認めるところではないでしょうか。
『孤独のグルメ』の食事シーンにおいて、五郎さんは多数の「心の声」を漏らします。それはきわめて直感的、肉感的、身体的で、また素朴とでも言うべきものです。たとえば、2019年に放送された『孤独のグルメ Season8』の最終回から、その声を拾ってみましょう。
「(メニューから注文を選びながら)まずは胃袋の意見を尊重したい」
「(カツ丼を一口食べて)うまい! もう笑っちゃうよ〜」
「うん、ツユしみごはん、最高」
「く〜、どうしてくれよう」
「カツ丼ってやっぱり、丼(どん)の王者だ」
「卵のとじ加減が…いやいや〜(感嘆)」
「(店の看板に書いてあった売り文句)『カラッと最高の油』、その通り!」
「なんだか、食べるほど腹が減っていく」
素直に心の声を出せる喜び
五郎さんはこんなふうに、かなり素直に食べ物についての感想を漏らし、自分の身体・五感が食事について感じていることを様々な言葉で表現していきます。
こうした「心の声」の数々を聞いていて思うのは、「グルメ」を名に冠したり、美食を扱ったりするコンテンツにおいて、五郎さんのような、それなりに社会的地位がありそうなスーツ姿の中年男性が「素直な感想」を発し続けるというシーンは、じつはあまりなかったのではないか、ということです。
「グルメ」を扱うコンテンツにおけるスーツ姿の中年男性の「食べた後の反応」として典型的に思い浮かぶのは、「この食材は…」「この調理法は…」「この肉の産地は…」といった、いわば「評論的なもの」である気がします。「おいしい」「最高だ」「うまい」といった身体的・肉感的で素朴な言葉は、出てきたとしても後に続く評論の前振りであることが多く、彼らのセリフは最終的には、どちらかというと知識に基づくもの、やや記号的なものに落ち着いていたような気がします(もちろん例外はありますが)。
言い換えると、これまでの社会においては「物事の評価を定める」役を求められがちだった(社会的地位が高そうな)おじさんは、「評論家的役割」を与えられることが多く、ただただ「うまい!」と素朴な感想を述べ続けることを、半ば禁じられてきたと言えるかもしれません。美食コンテンツにおけるスーツおじさんたちは食事の後に、どこかの段階で「評論」をしなければならないプレッシャーにさらされていたということです。
そうしたことを念頭に置くと、スーツを着て、ビジネスにいそしむ中年男性である五郎さんが、最後までほとんど「評論」をすることなく、食事についての素直な気持ちを口にするということ、そしてそうしたシーンを中心的に描く『孤独のグルメ』という作品が大人気を博しているという事態は、じつは(そうしたタイプの)「おじさん」のイメージに新たな一面を加える側面があったのではないかと思えてきます。
しかも五郎さんは輸入雑貨の事業者。「センス」が求められる職業です。普通ならうんちくを傾けるようなキャラクター造形になりそうなものですが、『孤独のグルメ』はそうしたキャラ設定をせず、大ヒットしました。
以上のような意味において、五郎さんは、ある種の「オルタナティブなおじさん」のイメージを提示しているように思うのです。
男性にかけられたプレッシャー
ところで、男性性について研究する男性学の知見によれば、これまでの社会で支配的だった「男らしさ」は、男性に対して、様々な「優越性」を増大させよというプレッシャーをかけてきたとされます(柏木惠子、高橋惠子編『日本の男性の心理学』有斐閣などを参照)。雑駁に言えば、身体的な側面(体力や体の強さ)や知的な側面(創造力や知力)などにおいて、他者に打ち勝つ、他者に優越することが「男らしさ」であるとされてきたというわけです。
先ほど、これまでのグルメコンテンツにおいては、中年男性が「評論家的な役割」を期待されがちだったのではないかと述べましたが、これも(食というフィールドをおもに描くフィクションにおいて)「料理を味わう能力」の優越性を表現することを、おじさんが求められがちであることを示していそうです。
たとえばほかにも、かつて「ネスカフェ ゴールドブレンド」のCMのキャッチコピーが、「違いがわかる男」だったことは印象的な例です。「男性」と「食」が結びつくとき、そこでは「味わう能力」「違いがわかる能力」が一つのキーワードとなってきたのではないでしょうか。
(ちなみに、男性と食が結びつく際のキーワードとして、ほかにも「大胆さ」「ワイルドさ」「こだわり」など、お互いに矛盾しかねない複数のキーワードが挙げられるのも興味深いものがあります。これは男性性が社会で与えられた種々の相異なるイメージと相互に影響し合っているように思います)
痛覚を麻痺させて生きる男性
また、男性学の知見は、少なくない男性が「男らしさ」のプレッシャーの結果として「感情を抑制すること」を迫られてきたということも指摘しています。前出の『日本の男性の心理学』はこう述べています。
〈「男らしく」なるには、絶え間ない他者との競争に打ち勝つだけの身体的・精神的な強さが必要である。しかも、この競争に常に、あるいは誰もが勝てるとは限らない。心身共に傷つき、敗れることがあっても、「弱みを見せず」「感情を表に出さず」「冷静」に優越性を保たなくてはならない〉
感情を抑え、いわば「痛覚を麻痺させながら生きる」ことを求められがちな男性たちは、自分の身体の痛みや、身体が上げる小さな声に耳を傾けるのが苦手だったと言えるかもしれません。その点でも、五郎さんが五感に忠実に、またそれを反響させ増幅させながら「心の声」を上げたり、素朴な感想を述べたりするシーンは、「オルタナティブなおじさん」のイメージ構築に貢献しているように見えます。
五郎さんはしばしば「俺はいま、いったい何腹だ?」と、自分の欲望を丁寧に精査しながら店を探しますが、この表現もこの観点からは印象的です。
さらに、この記事の前半で紹介した番組冒頭のナレーションに出てくる「癒し」という言葉も注目に値します。これまで「食」と「癒し」が結びつくとき、一般的にその媒介としてイメージされてきたのは、女性だったように思います。「体に優しい食事」というワード、スープや薬膳で心と体を休めるというイメージ……これまでこうしたイメージがCMなどで流布されるとき、訴求の対象となっていたのはおもに女性だったように見えます。
一方で男性は、身体や精神に負荷がかかった際には、「痛覚を麻痺」させようとしてしまうのか、脂っこい食べ物を半ば自傷行為的に食べたり、痛飲したり(そしてシメのラーメン!)することが、一つの典型的なイメージとして定着しているように思います。
五郎さんのとる食事は、一般的にイメージされる「体に優しい」とは違いますが、思い切り食事をする姿には、何か痛みをごまかすような雰囲気は感じられず、食事を終えた姿には、圧倒的な満足感が溢れていますし、そこには「癒やし」を感じずにはいられません(松重さんの演技力に感動するところです)。男性が食事によって「癒されている」シーンにもまた、「オルタナティブなおじさん」像を見出せるように思います。
別様の「おじさんの食の楽しみ」
ここまでの議論をまとめれば、スーツ姿の中年男性でありながら、素朴な「心の声」を食事の最後まで爆発させ続け、自分の身体の感覚に鋭敏で、食事によって「癒し」を得ている——こうした点において、五郎さんと『孤独のグルメ』は「オルタナティブなおじさん」イメージを形成していると考えられるのです。
もちろん、評論的な食事の楽しみ方、「癒し」とは遠く離れた痛飲や暴食の喜びというのも、魅力的なものとしてこの社会にたしかに存在していると思います。……が、ある種の中年男性の食事の仕方にそうしたイメージが染み付いていたとするのなら、それとは別の「おじさんの食の楽しみ」を教えてくれるという意味で、『孤独のグルメ』は魅力的なのかもしれません。
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抜粋終わり
男性性について研究する男性学の知見によれば、これまでの社会で支配的だった「男らしさ」は、男性に対して、様々な「優越性」を増大させよというプレッシャーをかけてきたとされます(柏木惠子、高橋惠子編『日本の男性の心理学』有斐閣などを参照)。雑駁に言えば、身体的な側面(体力や体の強さ)や知的な側面(創造力や知力)などにおいて、他者に打ち勝つ、他者に優越することが「男らしさ」であるとされてきたというわけです。
この記事の著者が「ジェンダーフリー」に近い人であるのが、想像できるが、
そもそも既存の「男らしさ」自体に「幅が無い」ってのが、私は問題と思っている。
易で「乾・カン・震・コン」などの男性性を意味する卦でも、その男性性は多様である。
強さも、もろさもある。
また剛も、柔もある。
「男性らしさ」って固定概念が、その「男性性の持つ多様性」を殺しているのは間違いない。
その典型の思想が「体育会系」って奴でもある。まあ「体育会系」のすべてを否定するのではないが、
「排他性・上位者への絶対服従と従順」が、男性性の多様性を抹殺して、逆説的に「草食系男子」を量産するのに、大きい原因になっている。
もう一ついうと、「人間の自然」を押し殺す「文明」「秩序」への異議ともいえるし。
感情を抑え、いわば「痛覚を麻痺させながら生きる」ことを求められがちな男性たちは、自分の身体の痛みや、身体が上げる小さな声に耳を傾けるのが苦手だったと言えるかもしれません。その点でも、五郎さんが五感に忠実に、またそれを反響させ増幅させながら「心の声」を上げたり、素朴な感想を述べたりするシーンは、「オルタナティブなおじさん」のイメージ構築に貢献しているように見えます。
作られた社会の規範・天皇システムに従い「肉ロボット」に化しているのを脱して「人間」に戻っているその姿に、人々が多く共鳴している・・て勝手に私は考えている。
世間・天皇システム・・果たしてそれが、どれだけ「本物」なの?てこともあるし、それにボチボチ勘づき始めているってこともあるだろう。
「天皇」「似非リベラル社会」に、日本人が身体レベルから「拒否感」を感じ始めている、一端かもしれない。
天皇の無い 蒼い空を取り戻す