家畜帝国日本・・・・・・・学校は「家畜化工場」ですし。
上記文抜粋
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「いじめ」は犯罪なのに…日本でいじめがなくならない「本当の理由」
子どもから自由を奪う「学校」という病
いま日本はどんな国なのか、私たちはどんな時代を生きているのか。
日本という国や日本人の謎や難題に迫る新書『日本の死角』が8刷とヒット中、普段本を読まない人も「意外と知らなかった日本の論点・視点」を知るべく、読みはじめている。
「学校」という病
最近、また「いじめ」が大きなニュースとなっている。なぜいまだに根本的な解決にいたっていないのだろうか。
話題書『日本の死角』では、「日本の学校から『いじめ』が絶対なくならないシンプルな理由」という論考でそのテーマを深く掘り下げている。一部を紹介したい。
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学校とはどのようなところか。
日本の学校は、あらゆる生活(人が生きることすべて)を囲いこんで学校のものにしようとする。学校は水も漏らさぬ細かさで集団生活を押しつけて、人間という素材から「生徒らしい生徒」をつくりだそうとする。
これは、常軌を逸したといってもよいほど、しつこい。生徒が「生徒らしく」なければ、「学校らしい」学校がこわれてしまうからだ。
たとえば、生徒の髪が長い、スカートが短い、化粧をしている、色のついた靴下をはいているといったありさまを目にすると、センセイたちは被害感でいっぱいになる。
「わたしたちの学校らしい学校がこわされる」
「おまえが思いどおりにならないおかげで、わたしたちの世界がこわれてしまうではないか。どうしてくれるんだ」
というわけだ。
そして、生徒を立たせて頭のてっぺんからつま先までジロジロ監視し、スカートを引っ張ってものさしで測り、いやがらせで相手を意のままに「生徒らしく」するといった、激烈な指導反応が引き起こされる。
この「わたしたちの世界」を守ることにくらべて、一人ひとりの人間は重要ではない。人間は日々「生徒らしい」生徒にされることで、「学校らしい」学校を明らかにする素材にすぎない。
多くのセンセイたちは、身だしなみ指導や挨拶運動、学校行事や部活動など、人を「生徒」に変えて「学校らしさ」を明徴するためであれば、長時間労働をいとわない。
その同じ熱心なセンセイたちが、いじめ(センセイが加害者の場合も含む)で生徒が苦しんでいても面倒くさがり、しぶしぶ応対し、ときに見て見ぬふりをする。私たちはそれをよく目にする。
ある中学校では、目の前で生徒がいじめられているのを見て見ぬふりしていたセンセイたちが、学校の廊下に小さな飴の包み紙が落ちているのを発見したら、大事件発生とばかりに学年集会を開いたという(見て見ぬふりをされた本人〈現在大学生〉の回想より)。こういったことが、典型的に日本の学校らしいできごとだ。
こういった集団生活のなかで起きていることを深く、深く、どこまでも深く掘りさげる必要がある。
学校では自由が許されない
さらにそれが日本社会に及ぼす影響を考える必要がある。学校の分析を手がかりにして、人類がある条件のもとでそうなってしまう、群れたバッタのようなありかたについて考える必要がある。
学校で集団生活をしていると、まるで群れたバッタが、別の色、体のかたちになって飛び回るように、生きている根本気分が変わる。何があたりまえであるかも変わる。こうして若い市民が兵隊のように「生徒らしく」なり、学習支援サービスを提供する営業所が「学校らしい」特別の場所になる。
この「生徒らしさ」「学校らしさ」は、私たちにとって、あまりにもあたりまえのことになっている。だから、人をがらりと変えながら、社会の中に別の残酷な小社会をつくりだすしくみに、私たちはなかなか気づくことができない。
しかし学校を、外の広い社会と比較して考えてみると、数え切れないほどの「おかしい」、「よく考えてみたらひどいことではないか?」という箇所が見えてくる。
市民の社会では自由なことが、学校では許されないことが多い。
たとえば、どんな服を着るかの自由がない。制服を着なければならないだけでなく、靴下や下着やアクセサリー、鞄、スカートの長さや髪のかたちまで、細かく強制される。どこでだれと何を、どのようなしぐさで食べるかということも、細かく強制される(給食指導)。社会であたりまえに許されることが、学校ではあたりまえに許されない。
逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、指導であるとして正当化される。
正当化するのがちょっと苦しい場合は、「教育熱心」のあまりの「いきすぎた指導」として責任からのがれることができる。生徒が加害者の場合、犯罪であっても「いじめ」という名前をつけて教育の問題にする。
こうして、社会であたりまえに許されないことが、学校ではあたりまえに許されるようになる。
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抜粋終わり
「学校」とは、特に日本では「自己家畜化を完成させる工場」で、それに背く子供を殺す「処刑場」なのです。
より
上記文抜粋
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人間はどこまで家畜か: 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書) – 2024/2/21
熊代 亨 (著)
家畜になれば生きやすい。
………では、なれない者は?
ADHDや社交不安症はなぜ増え続けるのか。進化生物学の注目仮説「自己家畜化」をキーワードに精神科医が論じる、現代の人間疎外。
「一生 壁の中から出られなくても……メシ食って寝てりゃ生きていけるよ…でも…それじゃ…まるで家畜じゃないか…」――『進撃の巨人』の主人公、エレン・イェーガーの台詞です。
実際のところ、人間はどこまで家畜なのでしょう? あなたは文明社会の進展にあわせてもっと模範的に、家畜的にありたいと願いますか。文明の進展についていけない人々に生きづらさを強いることは悪でしょうか、それともそうした人々を文明の内側に回収することが悪でしょうか。結局、私たちはどのような未来に向かうべきでしょうか。(本書「はじめに」より)
自己家畜化とは、イヌやネコのように、人間が生み出した環境のなかで先祖より穏やかに・群れやすく進化していく現象だ。進化生物学の近年の成果によれば人間自身にも自己家畜化が起き、今日の繫栄の生物学的な基盤となっている。
だが、清潔な都市環境、アンガーマネジメント、健康や生産性の徹底した管理など「家畜人たれ」という文化的な圧力がいよいよ強まる現代社会に、誰もが適応できるわけではない。ひずみは精神疾患の増大として現れており、やがて――。精神科医が見抜いた、新しい人間疎外。
・・・・・中略・・・・
体力的にヒトを上回り、脳もヒトより大きかった(知性もヒトと同等か優れていた)のに3万年前に絶滅したネアンデルタール人の不思議については、喉仏の位置が現生人類とは違っていて、ネアンデルタール人はヒトより機能的に気道と声帯が近くて(狭くて)「会話」などコミュニケーション能力に劣っていたとの仮説や、単純に家族単位で住むネアンデルタール人とは違い大きな集団で住んでいたヒトが有利だったなど数々の仮説があったが、現生人類(ホモ・サピエンス)は自己の家畜化(HPA系の縮小)との究極の選択で生き残ったらしいのである。
・・・・・・・中略・・・・・
家畜化(HPA系縮小)で過酷な氷河期(3万年前の最極寒期)を生き延びた人類
2024年3月23日に日本でレビュー済み
『人間はどこまで家畜か――現代人の精神構造』(熊代亨著、ハヤカワ新書)は、人間の自己家畜化を論じているが、精神科医として行き過ぎた家畜化に懸念を表明しています。
「最近の進化生物学のトピックスに『自己家畜化』というものがあります。これは、生物が進化の過程でより群れやすく・より協力しやすく・より人懐こくなるような性質に変わっていくことを指します。たとえば人間の居住地の近くで暮らしていたオオカミやヤマネコのうち、人間を怖れず一緒に暮らし、そうして生き残った子孫がイヌやネコへと進化したのは自己家畜化のわかりやすい例です。人為的に家畜にするのではなくみずから家畜的に変わったので『自己家畜化』、というわけです」。
「そして進化生物学は、私たち人間自身に起こった自己家畜化も論じています。考古学、生物学、心理学などから多角的に検討すると、この自己家畜化が私たちの先祖にも起こってきたというのです。進化生物学の研究者たちが述べるように、自己家畜化は人間が文明社会を築くうえで非常に重要だったはずです。というのも、高密度な集団をつくっていられること・そのなかで共通のルールを守って暮らせること・攻撃性や不安を抑えていられることは動物として凄い性質で、この性質がなければ交易や都市文明などは成立しようがなかっただろうからです」。
「では、こうした人間の自己家畜化がもっと進み、文明社会も進歩していけば万事OKでしょうか?・・・その文明社会が人間にもっと多くのルールを守らせ、もっと攻撃性や不安を抑えさせ、いわば『より家畜人たれ』と求め続けると、その求めについていけずに不適応を起こす人が増えるのではないでしょうか」。
ソ連のベリャーエフのギンギツネの家畜化の先駆的な研究が高く評価されています。
「(ネアンデルタール人に比べてホモ・サピエンスの)脳容量が縮小し、HPA系が弱まり、セロトニンの量が増えた人間は、先祖たちと比べてより争わず、より協力し、より教えたり真似したりすることに長けた生物に進化しました」。HPA系とは、ストレスに対して分泌されるホルモンを司っている視床下部・下垂体・副腎系のことです。
人間の自己家畜化に対する著者の姿勢は、「生物学的な自己家畜化を含めた人間の動物らしい性質も私たちの大前提や下部構造で、それを無視した進歩に突き進めばますますの人間疎外は不可避である」という言葉に尽くされています。
『人間はどこまで家畜か――現代人の精神構造』レビュー
・・・・・・中略・・・・・
「間違う」(個人の過失)ではなく「間違わされている」(騙されている)
「人はなぜ子供騙しの簡単な嘘にだまされるのか」 進化心理学から見る集団同調性バイアス
人類は数百万年もの長い間利害が一致する血縁関係にある数十人以下の少人数の共同体で生活していたのです。
(相手が家族とか親族の場合)疑わしくて『納得できない』場合ても、他人の言葉を『とりあえず信じる』ように進化した。
石川 幹人よると、社会全体では『疑う心』は常に少数の例外である。
親しい少数の人間集団では一々相手の言葉を疑うよりも、『人を信じる』方が圧倒的に有利なのです。
ところが近年(数千年前)になって血縁関係に無い巨大な人間集団(社会とか国家)が出現してくる。
共同体内でも支配被支配の上下関係が生まれ、利害が相反するにもかかわらず、人類は以前の『とりあえず信じる』モードのままなので、子供騙しの見え透いた嘘でも多くの人々が結果的に騙される。
荒唐無稽にも思える石川 幹人の『人が騙されるのは人類の進化の過程である』(社会の進化に人類の進化が追いついていない)との進化心理学ですが、3・11以後の政府や東電のお粗末過ぎる嘘八百を信じる多くの人々を見ると、俄然信憑性がでてくるから不思議である。
普通の大人なら絶対に信じないであろう無茶苦茶が、現在平気でマスコミが垂れ流し多くの人が疑うことなく信じている様は、悲惨すぎてとても正気とは思えない。
一億総痴呆状態なのである。
今の日本国の状態は『人類とは、そもそも信じる(騙される)ように進化した生物だった』とでもしないと、到底説明が付かないのです。2021年08月14日 | 社会 なぜ賢い人が間違うのか?
30年前からの地球温暖化、4年前からの新型コロナ騒動と遺伝子操作mRNAワクチン接種強制、2年前からのウクライナ半年前から続くガザ地区ジェノサイド
普通の最低限の科学知識、イロハのイの「大人の常識」さえあれば誰も騙され無い低級な、アメリカNATO、極悪戦争屋リベラルメディアや有識者の子供だましの噓八百(奇妙な大本営発表の真っ赤な嘘)を今も信じている善良だが愚かな人々は大勢いるのですから不思議である。
正常性バイアスと集団同調性バイアスで思考停止に陥っている現代社会に対しての疑問に対し、人類の脳が、普通なら危機管理の「生き残り」時に必須のNPA系を氷河期の3万年前の最厳寒期に(集団の群れの争いを避ける目的で)極限まで縮小するという、自己の家畜化を成功させていたのである。
しかも、一番の問題点は現在の一極集中(首都東京など都市の過密化と一体の地方の過疎化)の進行で、より一層我々人類全般ホモ・サピエンスの「自己家畜化」が進行していて、もはや留まることを知らない。
現在、滅びに向かってホモ・サピエンスはまっしぐらに「定向進化」(具体的な危険に対処する時に一番大事なHPA系の縮小)が異様な暴走をしていた。(★注、人類の脳のHPA系の縮小「幸福ホルモン・セロトニンの増加」は、今の都市化のような異様なヒトの密集状態で有利に働く)
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抜粋おわり
天皇とそれを崇拝する日本人は、「人間家畜化教」の信者で、どんどん屠殺し屠殺されます。
家畜の末路は、大概決まってます。日本人でも天皇でもです。
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みの富む社会になりますように。
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