みんな悪いのかもしれない。でも一番悪いのは指導者・象徴・権威なのだ。


私は馬鹿なアラフィフなので、簡単にコメントする。


変えるべきは大衆ではない

社会による脅迫

ただ、これは人にナイフを持たせ「これで誰かを殺さないとお前を処刑するぞ」と言った場合、殺人を行う可能性が高まると言っているようなものだ。

そのような行いをしないと、生きていけないような社会に問題があるのであって、その責任を個人に押しつけるのは間違っている。

アーレントの言葉からは、「新しい悪とは凡庸な君たちのことである」というメッセージが感じ取れるが、排除するべきなのはヒトラーのような組織的な悪を行う悪党であって、大衆ではない。

私たちが悪に流されてしまう可能性があることは否定できないし、それは確かな事実だ。

良きリーダーを選ぶ

でもだからこそ、そうした悪を生み出す人物が現れないよう、監視し続ける必要があるのではないだろうか。

心臓病になるからといって、心臓を取り除いたら人間は死んでしまう。必要なのは、そうした病気になるリスクを理解しつつ、治療と予防の方法を探し続けることだ。

ヒトラーのような人物が政権を取らなければ、多くの人は善人のまま過ごすことができる。病気にかからない心臓を開発するより先に、心臓病そのものを予防する方法を探すべきだ。

「みんな悪い」は間違いではないのかもしれない。

だが、権力・権威・権限を多く持つものが、より責任を背負う。

そうでなければ、何のために「命令者」や「それに従う人」って設定を作らねばならないのだろうか・・



明治帝政下では、天皇は、原理的に国防の義務を一身に負っている。そして、その義務を果たすために軍事権と外交権を占有している。
ところが、明治以降、日本が行った戦争あるいは武力行使のうち、明らかに「国防上不可欠」というものは何一つ無かった。日清戦争は朝鮮半島の利権を清国から奪うため、日露戦争は朝鮮と満州の利権を巡るもの、シベリア干渉戦争に至っては沿海州に傀儡政権を打ち立てるためのものだった。日華事変・日中戦争に至っては、誰も何のための戦争か説明できず、太平洋戦争は「半年後に石油が無くなってしまうから、先に叩こう」として始めた戦争だった。
これらの戦争も勝利しているうちは、国防の義務が果たされているとして強弁できるが、敗戦して国土が灰燼に帰し、あまつさえ外国軍によって占領されるとなれば、事情は違ってくる。だが、日本では思想原理が全く未熟だったことも災いし、国防義務を果たさなかったことに対する責任追及の声は高まらず、天皇制がそのまま継続するところとなった。

現在のところ、自民党を中心に憲法改正の主張が高まっているものの、仮に「自衛隊は憲法9条二項に違背しない」旨を書き加えてみたところで、「国防の義務と責任は誰が負うのか(天皇か国民か)」という大命題は残り続けることになる。そして、それは明治帝政下にあって、国防の義務を負いながら一切果たすことができないまま、国土を灰燼に帰した昭和帝が、そのまま責任を取らずに帝位を保ち続けたことの延長上に存在する。
仮に憲法を改正して、国民に国防の義務を課そうとした場合、「俺らに義務を課す前にまず天皇に責任を取らせてからにしろ!」とならざるを得ないからだ。

「天皇」を奉じる・・・この一点で、日本はまともな国家では無いのだ。

社会の過ちは、みんなの過ちかもしれない。

でも、社会を差配する役をもった指導者・知識人・エリートは、圧倒的に知識・権限・責任を持つ。天皇とても例外なく。
それゆえに、庶民よりもはるかに巨大な責任を持つ。

なら、「みんなの責任」っていうなら、より責任の重い、天皇・その閨閥・指導者層・知識人が率先して、処刑台にあがらないと、庶民の微々たる「責任」を果たすなど、不可能なのである。

国家権力は、そもそも「教育」の中身を弄れる・マスコミの報道のコントロールできる、できないハズが無いのだ。「正しい事」を盾に国家・天皇・政権の「都合の悪い事」を消せる・誤魔化せるのだから。

考えるための「道具・方便」の教育を操作でき、考えるための情報を「コントロール」できるのが、国家であり天皇であり指導者なのである。

また、賞罰の件を握り、生死を左右できる。その権力・権力を国家・天皇は握っている。
それだけでも「庶民」比べると、その差は歴然としているのだ。


そもそも「良きリーダー」は、文句を言われてナンボのモノである。


晏子は答えて
「君よ、そんなに責めないで下さい。
臣はこう聞いています。
下の者に直辞がなくなれば上の者は悪事を隠し立てするようになります。
人民がはばかってものを言わなければ、 上の者におごった行為があります。
昔、明君が上にあれば、下に直辞が多く、君が善を好めば、民がものを言わないことがありませんでした。


国君は、神の祀り手であり、民の仰ぎ望む者です。もしも民の生活を困め、祭祀をなおざりにすれば、人々の望みは断たれ、社稷の神は祀り手を失います。
こんな{国君}は無用ですから、追い払われるのが当然です。

天が民を生じその国君を立てたのは、民を統治して本性を失わせぬためです。
国君がいてそれに補佐を設けたのは、国君を教導して度を過させぬためです。
そこで天子{の輔佐}には公が、諸侯には卿があり、卿には分家が、大夫には弐宗{次子の家}があり、士には朋友が、庶人・工・商・雑用係・牧人にもみな親近するものがいて、それぞれを輔佐し、善行があれば褒め、過失があれば正し、災難があれば救助し、失敗があれば革めさせるのです。

周王より以下には、それぞれ父兄子弟がいて、政治の得失を指摘し欠陥を補います。
史官は記録を作り、盲目の楽師は詩を作り、楽工は箴言を誦します。大夫は意見を述べ、士は意見を伝え、庶人は誹謗し、行商人は市場で{議論し}各種工匠は技芸を献じます。
・・・・中略・・・・・・

正月孟春という時期にこれが行われるのは、常規からの逸脱を諫めるためです。
深く民を愛おしまれる天のことゆえに、一人{の君}だけを民の上にのさばらせて放恣を許し、{民を蔽い包容する}天地の本性を自ら棄て去るはずはありません。きっとそんなことはなさまいと存じます。

人の、庶民の言うことの聞く耳を持たず、常軌を逸脱したナチス指導者・天皇。
その責任を、なんで庶民が背負うのだろうか。

しいていえば、奴らを、例えば日本やドイツの場合は、さっさと外征に走る前に庶民が革命蜂起して奴らを皆殺しにしてなかったことだけが、唯一の責任。
そのことをエリート様や国家や指導者にぐちゃぐちゃ言われる筋合いはないのである。

まさに

国君は、神の祀り手であり、民の仰ぎ望む者です。もしも民の生活を困め、祭祀をなおざりにすれば、人々の望みは断たれ、社稷の神は祀り手を失います。こんな{国君}は無用ですから、追い払われるのが当然です。

深く民を愛おしまれる天のことゆえに、一人{の君}だけを民の上にのさばらせて放恣を許し、{民を蔽い包容する}天地の本性を自ら棄て去るはずはありません。きっとそんなことはなさまいと存じます。


我らには責任など無い!

それが「天地の本性」に従って、指導者・天皇・権威を粛清する一つの方法なのかもしれない。



天皇の無い 蒼い空を取り戻す


慈悲と憐みの富む社会になりますように。

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