統一教会の「養子縁組」は、一種の「生贄」かもね。。。
上記文抜粋
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マザームーン牧場
ブログ管理者 (2022年11月20日 00:40) | コメント(47)
壺の人身売買なんだが、そもそもあすこの「合同結婚」「というやつが人身売買そのもので、韓国では「壺信者になれば日本の嫁が貰える」と信者を勧誘し、強引に集金なんてやってない。だから、日本嫁が嫁がされた相手というのは、嫁のきてがない田舎の貧乏な農家とかです。
生まれた子供まで布教の道具にするという、まぁ、前代未聞の邪教で、こんなもの抱えこんで便利に使っていたんだから、自民党の罪は深い。
・・・・・・中略・・・・・・・
noname | 2022年11月20日 00:48 | 返信
保守を名乗っている人たちをまず疑ってかかるべきですね。
保守ってなんじゃろw
・・・・・・・中略・・・・・
牛若小太郎 | 2022年11月20日 05:29 | 返信
ジェンダーフェミの連中が信用されないのは、こういう時にダンマリ決め込むところ。
ソープやデリなど性風俗に関しても然り。
それでいて、月曜日のたわわなどどうでもいいことで騒ぐ。
ね、こたつぬこ木下ちがやセンセ
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抜粋終わり
同感。だし、この手の連中は、世界的には耶蘇金の手下で、日本では天皇家の犬なので、あてには出来ない。
あと、これは一種の「生贄」とおもえる。
旧約聖書では、神が時々「人身御供」を求めるし。
バチカン&新教では、「イエスは人類のための犠牲=生贄になって、人類を救った」なのだから。それのカルトが、「子供を生贄にささげろ」ってなる。
その辺のバチカン・新教の「生贄が好き」な事情と、東方教会がそれと決別した論理を、東方教会のサイトからみてみる。
より
より
上記文抜粋
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三位一体に似せて造られた人間は、多くの個でありながら一つのものです。つまり、アダムと私たちは一つのもの一体のものなのでアダムの罪は私の罪、私の罪は人類の罪です。人は、罪の蔓延する世の中に人間として生まれます。
しかし、西方で発展したキリスト教であるカトリックやプロテスタントでは、アダムの罪の結果、厳しい神の罰をも全人類が受け継いだと強調します。人間は生まれながらにして罪人であり、罪人である以上、神の裁きと罰を受けるものであるとし、全く自由意志の力を失ったと教えます。
正教会はこのような「原罪」と呼ばれる考え方を否定します。アダムとエワによって神の似姿は壊されてしまいましたが、まだかろうじてその似姿(神の像)は残っていて保持されている、と正教会は教えます。どんな人間でも、まずはそこに「神の像」を見るべきです(ただしそれが破損していることも事実です)。
人間に残された神の像は、神を求める自由意志を弱いけれども持っています。人類が受け継いだのは神の罰ではなく、破損した似姿です。しかし、神に従うか従わないかの自由意志は、私の選択権として最後まで残されていますが、人間が自分の努力によって、破壊された神の像を回復することは不可能となりました。 「罪」というものをどうとらえるかによって、「救い」についてのとらえ方が変わってきます。
西方教会では、「原罪」の考え方から、全人類に対する神の罰をハリストスが身代わりに受けてくれたことによって救われると強調します。
つまり十字架を、全人類のため、私たちの代わりにハリストスが引き受けてくれた刑罰だったと解釈します。私たちはそのままでは全員地獄行きだけども、私にはその刑罰に耐える力はないので、ハリストスが身代わりになってくれたというわけです。確かに、聖書には、「苦難の僕」という有名なイサイヤの預言があり、そこには、人々の罪を引き受けて受難するメシアの姿が記されています(53章)。正教会でも、この「苦難の僕」は、ハリストスを指すと解釈します。
しかし、ハリストスは罪だけではなく、私たちのすべてを引き受けて十字架にかかったことを見落としてはなりません。
では、正教会の教える「救い」とは何でしょうか。「罪」が「あるべき姿を失う」ことであるなら、「救い」とはそれを取り戻すことです。「罪」が神との分離、神の像の破損であるなら、「救い」とは神との一致であり、神の像の回復です。
「罪」が悪魔、苦難、死と一つのものなら、「救い」とは悪魔の敗北、苦難の終結、死の死滅です。これらすべてを、私たちのためになさったのが、人となった神ハリストスの十字架と復活です。
神が私だちと同じ人間になったという「籍身」によって、すでに私だちと神との一致の道が開かれました。
完全な神の像であるハリストスによって、私たちの神の像は回復されます。そして私たちがどうしても通らなければならない死という究極の不条理を、ハリストスはご自分の死と復活によって、敗北させました。
正教会では「ハリストス、死より復活し、死をもって死を滅ぼし」と復活祭の時に歌います。ハリストスの死と復活は、死の本質を変容させました。死はもはや不敗の敵ではなくなりました。
死を滅ぼすハリストスの十字架は、悪魔の敗北でもあります。ハリストスの十字架は、復活の印です。ハリストスの十字架は勝利の旗です。
ハリストスの十字架は生命を与える力です。洗礼を受けるということは、救いを与える十字架と復活のハリストスと一つに結び合わさるということなので、「信経」で「我、認む、一の洗礼、以て罪の赦を得る、を、」と言います。もちろん究極的にこのハリストスの「救い」をいただくか拒絶するかは、私たち一人一人の意志にかかっていますが、「救い」は人の努力によってではなく神によってのみできることを忘れてはなりません。
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抜粋終わり
{太字は、私の編集}
十字架の解釈が、バチカン・新教とは大きく違うし、復活の意味も違う。
「イエスが生贄になったのでなく、イエスが死も悪魔もぶっ殺したから復活した」
てなると、生贄など「いらんは」になるのが、東方教会~オーソドックスなキリスト教の解釈になるはずですけどね・・・
まあバチカンとかが、異端だからね・・・・
新井白石が、バカにするのも当然な話でね。生贄が有効ならこんだけ人間が死んでいるのに、なぜにそれほど幸福でなく人間は相変わらずアホなのか・・てなるともいえるしね。
バチカンカルトに倣い統一教会も、信者の子供を一種の「生贄」「犠牲」にしたってことだ。
まあ、そもそも日本を汚染している、バチカン・新教・天皇が、「生贄大好き」だから、当然に、統一教会っていう「生贄教」が蔓延したわけだは。
天皇の無い 蒼い空を取り戻す