より
上記文抜粋
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集団的無関心によって支えられている集団的西側の前代未聞の悪
現在のガザジェノサイドを、ロシア起源の用語《集団的西側[коллективного Запада]》にて、痛烈に批判する一連の知識人がいるのを繰り返し示してきたが、他方で「集団的無関心」という現象もある。それを私はルソーやフロイトの用語「同一化」の有無でまずは把握しようとしてきたが、この「集団的無関心」がとくに日本において際立っているとしたらーー実際私にはそう見えるーー、たんに「同一化」だけでは説明しづらい。ひょっとして半世紀以上前に丸山真男が掲げたスキーマが役立つのではないか。
要するにガザジェノサイドに「涼しい顔」をし続けている者たちは「私化」へひきこもっているタイプではないか。ーー《私化の場合には、関心の視野が個人個人の『私的』なことがらに限局され、原子化のそれのように浮動的ではない。両者とも政治的無関心を特徴とするが、私化した個人の無関心の態度は、自我の内的不安からの逃走というより、社会的実践からの隠遁といえよう。こうして彼は、原子化した個人よりも心理的には安定しており、自立化した個人に接近する。》(丸山真男「個人析出のさまざまなパターン」)ーー丸山真男の言うように彼らは自立した個人に似ているように見えるからこそ(私に言わせれば)厄介なのだが。
これも何回か掲げてきたが、柄谷行人によるこの丸山真男のスキーマのとてもすぐれた説明がある。以下、それをここではいくらか長く引用しておく。
ここまでは何度か断片的に引用してきたが、引き続く次の節も掲げておこう。
国家権力の前に平等にひれ伏す臣民の造出が、ほとんど抵抗らしい抵抗をみないで成 功したことの背景には、むろん、教育権を国家がいち早く独占したことが大きな意味をもっ ております。国家が国民の義務教育をやるということは、今日近代国家の常識になってお りますが、この制度が、日本ほど無造作に、スムーズに行われた国は珍しいのであります。 なぜかといえば、ヨーロッパでは、教会という非常に大きな歴史的存在が、国家と個人との間にあって、これが自主的集団といわれるもの、つまり、国家によって作られた集団ではなく、権力から独立した集団のいわゆる模範になっております。この教会が、教育を伝統的に管理していた。そこでこの教会と国家との間に、教育権をめぐって非常に大きな争いをどこの国でも経験している。ところが日本では、徳川時代からすでに、たとえば仏教のお寺は完全に行政機構の末端になっておった。つまり日本では、寺院がすでに自主的な集団ではなくなっておった。ですから寺子屋教育を国家教育にきりかえることは、きわめて容易だったわけです。そのほか、ヨーロッパでは、自治都市や地方のコンミューンがやはり国家権力の万能化に対するとりでとなり、自主的楽園の伝統をつくる働きをしましたが、この点でも、日本では、都市はほとんど行政都市でしたし、また徳川時代の村にわずかに残った自治も、町村制によって、完全に官治行政の末端に包みこまれてしまったので、中央集権国家ができ上がると、国家に対抗する自主的集団というものはほとんどなく、その点でも、 自由なき平等化、帝国臣民的な画一化が、非常に早く進行しえたわけです。(「思想と政治」丸山真男集第7巻 p128―129)
この観点から言えば、当人はおそらく「自立化」していると思い込んでいる学者やインテリもそのほとんどは「私化」類型なんだろうよ。で、問いはこの現象への抵抗を日本的宿命として「諦める」か否かだがね。
ラカン派の見方では、学園紛争以後ーーエディプス的父の凋落以後ーー欧米の民自体が、自立化から私化に向かっていると捉えうるかもしれない。➡︎「最悪の時代への突入」
とはいえ欧米は日本的集団的無関心よりはずっとマシである。
ーーと記せば、丸山真男の天皇制批判としての「無責任の体系」(参照)を想起して、天皇制のせいだと短絡的に考える人がいるかもしれないが、柄谷は江戸時代の象徴天皇制についてむしろ肯定的な見方をしていることを付け加えておこう、➡︎「柄谷の「天皇と超自我」をめぐって」
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抜粋終わり
兵法論からみても「無責任」なのは、致命的なんですよね。
天皇は「日本人を守る責務が無い」ことで、もともと「責任」が重くなかったと思う。
でも、明治以降に「唯一の統治権者」になることで、それがぶっ壊れた。
「無責任者」が、トップの組織は当然に倫理も規範も破壊されていくのだよね。
「戦争責任者」を日本は自分らでは処罰できず「外注の戦犯裁判」で決められたA級戦犯を、戦没者慰霊施設に入れる。。てなると、結局は「誰も責任を取らない」=結局誰も統治しない・てなった。
天皇・・てことは「日本国の存在理由」が、無いってことなんだよね。。。
日本人にとって「日本国」は「天皇」なのか・・・それとも「日本人の生存と安全を守る」ものなのか。
天皇が日本国の象徴なら「日本人の生存と安全を守る」為に存在しなければならないが、そうでも無い。
そんなこと言えば、昔なら右翼~現実は売国右翼で売国奴~に殺されてたかもね。
革命ってのは、「国家が存在理由に反したから、その国家処分します」ってことなのですよね。
孟子もいっているよね「国民を守らない=残忍で盗賊=な王・天子は、犯罪者である~ようするに王・天子の視覚を失った~ので、さっさと殺せ」
でも「天皇」は「日本人の生存と安全」を理由や貢献とその責務としてないし。
なので「処分」するにも、それを出来る理由を作れなかった。
革命が無い~国家の存在理由が国民にとってほぼ無い~天皇の万世一系
なら、当然天皇が無責任でも構わんだろうけど。でもそれで政府は組織は、機能するはずもない。
機能しても「指導者・命令者の無責任」で、それも「弱い人・責任の低いもの」が生贄になることで、誤魔化す。。
でも、そうなると、どんどんと誰も組織や社会に信用を失い参画の意識を失っていく。
当然のことで。
参画して、その福利も得ているわけでもないのに、その国家に忠誠や愛着など持てるはずもない。
明治維新で、天皇と日本は、終焉したのです。終わったのです。
明治以降の日本は・・・天皇家の「人間牧場」であり、米英の植民地なのです。
天皇消滅 日本人救助
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みの富む社会になりますように。