学校教育と言う、日本の最大の闇の一つ。その対策にも、天皇の根絶やしだけが日本人を救う。
より
上記文抜粋
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日本人が論理的思考力が低い理由
どうも、りかちゅうです!単刀直入に言いますが日本って論理的思考力が他の国よりも低いんですよ。具体例で言うなら自分で将来のビジョンを考える時間がないなり、みんなと同じじゃないといけないという思想ご強いなどですね。しかも何が一番の問題かというと考える力がないということを自覚している日本人が少ないことです。今の環境が当たり前みたいになっているからもありますが。要は論理的思考力が低いことを分かって欲しいということです。ですので、この記事にて日本人が論理的思考力が低い理由について話したいと思います。
・・・・・中略・・・・・・
日本はどれだけ論理的思考力が低いのか?
前置きの文面だけでは日本人がどれだけ論理的思考力が低いのかに関しては分からないかと思われます。統計で話してないですからね。ですので、まず初めに日本人がどれだけ論理的思考力が低いのかについてビジネス的な観点と教育的な観点から説明したいとおもいます!
ビジネス的観点
実は論理的思考力が低いというのはビジネス的観点から見えるちゃ見えるんです。こちらの統計を見てください!
こちらは1990年代以降の生産性向上要因を分析したものです。人的要素も物的要素も他の国との大差はないです。しかし、マネジメントが最も関係する生産性向上要因(全要素生産性)を見ると日本は他の国より成長してません。要するに日本はマネジメント能力や論理的思考力が欠けていると言うことを物語っているということです。
※統計はこちらの記事を参考にしました!
https://www.google.co.jp/amp/s/toyokeizai.net/articles/amp/288272%3fpage=3
教育的観点
ビジネス的観点から見ても日本の論理的思考力が低いのは明らかですね。実はこの兆候が現れてるのはビジネス的観点だけでなく教育的観点でも表れています。こちらの統計を見てください!
こちらは経済協力開発機構(OECD)が3年ごとに15歳を対象に行っている、「学習到達度調査(PISA)」のです。ちなみに2018年度の結果で76か国が参加しました。参考までに総合順位も載せておきますね。
両方の統計を見ても明らかに読解力が下がっていますよね?というか先進国でこの順位ってどういうことだよって感じですね。読解力に関しては今の時代ネット時代ということもあり情報をキャッチする能力は高いとしても、複雑な文章の中から考えて、正しいか正しくないかを読み取るという能力が低くなっていると分析されています。俗に言う情報処理能力が低下しているということですね。
※統計はこちらの記事を参考にしました。
https://www.google.co.jp/amp/s/times.abema.tv/posts/7032055%3fmobileapp=1
論理的思考力が低くなってしまう理由
上記の内容からしても日本人が論理的思考力が低いし低くなっているのは明らかかと思われます。自覚してないと尚更のことでしょうけどね。ですが、理由が分からない限りこの問題は解決できません。ですので本題でもある日本人の論理的思考力が低くなってしまっている理由について話したいと思います!
1.行きすぎた協調性
日本には行きすぎた協調性というものがあります。本来の協調性はそれぞれの意見を共有し尊重するものです。ですが、日本の場合はみんなと同じ意見でないとダメみたいな協調性です。それもあって大学行って就職するのが正義みたいなノリがあるちゃありますしね。ただこのような協調性はみんな一緒という思考から自分で考えるということをしなくなるのです。日本の協調性に関してはこちらの記事を見てください!
2.日本教育の問題
日本教育にも問題があります。どういうことかと言うと日本の教育って受験のためやテストのためと知識を詰め込む感じなんですよ。本来の勉強って自分の知識を身につけるためなり今後の人生のために学ぶものです。それなのにもかかわらず勉強が暗記になっています。このような教育は考えることをしないでただただ詰め込むだけなので論理的に何かを考えるなんてことをしなくなります。日本の教育のどこが問題なのかの詳細はこちらに書かれています。
3.なぜか分析をしない
これはビジネス的な話ですが日本人って分析しないんですよ。それが顕著に表れているのがGDPねたですね。高度経済成長期、日本のGDPは世界の9%弱まで伸びました。戦後の時焼け野原だったことを考えたら凄いことです。ですが、日本はその当時喜ぶだけで成長の要因は何だったかを検証しませんでした。なんなら、「日本人は手先が器用だから」とか、「勤勉に働くから」とか、「技術力がある」からなど元々の固定観念で成長したんだと思うようにもなりました。要は証拠や論理的な分析を求めてないということです。
論理的思考力を高める方法
上記の要因から踏まえて論理的思考力というものは高めるべきです。いや、高めないと考えるという行為をしなくなります。ということで、論理的思考力を高める方法について話したいと思います!
1.自分で物事を考える
まずは自分で物事を考えることが大切です。みんなと同じではなく自分はどういう意見を持っているのか。何をやりたいのか。何を食べたいのか。誰といたいのか。他にも色々な具体例がありますがどんなことであれ自分で考えるという習慣をつけることからスタートです!これは全て叶わなくてもいいです。とにかく考えることが大切です。
2.分析をする
先ほども述べたように分析もしないで表面的なことだけでは論理的思考力は身につきません。論理的思考力を高めるためにも何かしら分析するべきです。具体例を述べるなら歴史上人物がどういう性格なのかや、どうしてその出来事が起きたのかなどですね。いわゆるどうしてやらなんでと問い続ける精神ですね。問い続けることで自ずと考える習慣が身につき論理的思考力が高まるかと思われます。
3.文字を書く
頭で考えるだけでは混乱しやすいです。その混乱さをなくしてくれるのが書くことです。書くことで目に見えて自分の考えなどが具体化していきます。また、余計な部分などもすぐにわかります。要するに頭の中で考えていることを可視化する行為ですね。
日本の考え方を変えるべき
論理的思考力を高める方法があったとしてもまずは日本の考え方を変えるべきだとは思います。特に行きすぎた協調性に関しては改善したほうがいいかと思います。みんな同じであることが正義みたいな考えを捨てない限りはみんな考えるということはしなくなるからこそ。また、どんなに反論があったとしても本当のことを言うことが怖くなってしまいます。私的には倫理や法律に触れなきゃみんな同じじゃなくていいだろうとは思いますけどね。ただこればかりは生物学的にもDNAが絡んでくるので100%変えることは厳しいです。
あとは教育制度です。日本の教育って受験に受かるためやらテストで評価するためみたいな教育になっています。これは問題です。学校の勉強とは将来的に必要だから行うものです。具体例を言うと歴史は過去の事例から現代でどう生かすかを考えたり、現代に至るためのプロセスを学んだりするための学習です。それなのにテストや受験が終わったらご縁ないと言うのはおかしいかと思われます。要するに未来に生きる教育にしないと人は考えることはしないかと思われます。
まとめ
日本の教育や行きすぎた協調性とは論理的思考力がなくすということは当たり前だとは思っていました。そう感じるのは仕事満足度ですね。仕事でもやりたいことがなくて熱意がないみたいな人が日本には多いです。転職も逃げるための転職も多いです。要するに何がしたいのかが分からない状況でいる人が多いというのが明らかであるということです。このように論理的思考力が低いというのは何かしらに支障がかかります。ですので仕事であれプライベートであれ考える力は必要だと思います!以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
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抜粋終わり
日本人の協調性が異常なのは、それが「協調」でなく、同調にすぎないからである。
この動画の27分くらいから「和は、羹{スープ}で、同は水。水は足しても味が変わらんの、そんなの意味ね~よね」ってある。
まあ同調して、空気を読んで、DQNの武士やアホの極みの天皇から逃げるのには、必要なスキルだっただろうけど。まあそれでは、生き延びても奴隷になるだけで・・
まあ、この論理思考力が弱いのは、もう一つは明治以降の「同調圧力」「闇教育」の為でもある。
自己否定を刷り込む教育で「思考障害」になる。
日本の学校教育は、基本的に「自己否定日本人家畜化教育」なのですよな。
そもそも、「天皇」という「ナチスの盟友」「第二次大戦S級戦犯」が、未だに日本帝国に「象徴・元首相当」として君臨している。
より
上記文抜粋
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「ボクたちは満州国バージョン2.0に住んでいた!?」~戦後日本は満州国モデルそのもの~
極東軍事裁判の起訴状が提出されたのは、昭和天皇の誕生日である1946年4月29日、大半の囚人が以後、2年8ヶ月間をこの場所で過ごすことになった。そして1948年12月23日、現上皇明仁の誕生日に合わせ7人のA級戦犯の処刑が執行された。しかし、すべての犯罪者が処刑されたわけではない。19人のA級戦犯が不起訴処分となり、翌日自由の身となった。その中に、日本の戦後社会を動かしていくことになる岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、正力松太郎、緒方竹虎、阿片王と呼ばれた里見甫らがいたのである。
2007年にニューヨーク・タイムズの記者ティム・ワイナーが「Legacy of Ashes. The History of the CIA」という本を出版。2008年には「CIA秘録」(文藝春秋)として翻訳されているので読んだ方も多いであろう。
https://www.amazon.co.jp/CIA秘録上-ティム・ワイナー/dp/4163708006
ワイナーはこの本の中で次のように書いている。
「2人の戦争犯罪人が、他の戦争犯罪人たちが絞首台に連れて行かれた前日に、戦後三年間入れられていた巣鴨刑務所から釈放された」その2人とは岸信介と、児玉誉士夫である。
岸信介は、1896年山口県生まれ。東京大学の法学部を卒業して農商務省に入り、東条内閣の対米宣戦時の商工大臣であり、敗戦後A級戦犯に指定されたが、釈放され、その後総理大臣になって対米安全保障条約・新条約の締結を行うなど、戦後日本の方向を決定づけた。
児玉誉士夫は、1911年福島県生まれ。戦前右翼の活動家として活躍し、戦中は海軍の庇護の元に中国で「児玉機関」と言う組織を動かし、強奪的にタングステン、モリブデン、などの貴金属、宝石類を大量に集め、それを海軍の力を利用して日本に送り届けた。敗戦後、A級戦犯とされるが釈放された後、中国から持ち帰った巨額の資産を元に、政界に影響を及ぼし、やくざ・暴力団・右翼のまとめ役、フィクサーとして力を振るった。
Anchor Books版に書かれていて、文藝春秋社版に書かれていない文章は、以下。
「Two of the most influential agents the United States ever recruited helped carry out the CIA’s mission to controll the government.」
Anchor Books
「かつてアメリカがリクルートした二人の一番影響力のあるエイジェントがCIAの日本政府を支配する任務を遂行するのを助けた」で、その二人の男とは、岸信介と児玉誉士夫である。
リクルート、エイジェント、この二つの言葉の持つ意味はあまりに重たい。会社にリクルートされて其の会社に勤めたら、其の会社の人間で、エイジェントとなったら、その会社の人間だ。これが会社でもなく、アメリカ政府なのだから、岸信介と児玉誉士夫は、アメリカ政府に雇われて、アメリカ政府のために働く人間になったということを意味している。文藝春秋社版では、この岸信介が「アメリカのエイジェント」だったことを明確に書かないように忖度しているが、戦後、岸信介と児玉誉士夫は、明らかにCIAのエイジェントとなったのである。
そして、CIAの助けによって、岸信介は自民党の党首となり、首相となった。
盟友である児玉誉士夫は暴力団のナンバーワンとなり、CIAに協力した。
岸信介と、児玉誉士夫が、戦後の日本の政治の形を作り、岸信介は、児玉誉士夫の金を使って選挙に勝つことができた。衆議院議員になると、岸信介はその後、50年に渡って日本を支配する自由民主党を保守合同によって作り上げた。
このCIAと自民党との相互関係で一番重要だったのは、金と情報の交換だったようである。その金で自民党を支援し、内部情報提供者をリクルートした。アメリカは、一世代後に、代議士になったり、大臣になったり、党の長老になったりすることが見込める若い人間たちとの間に金銭による関係を作り上げていったのである。岸信介は党の指導者として、CIAが自分の配下の議員たち1人1人をリクルートして支配するのを許したのである。
この部分、Anchor Books版では、次のように書かれている。
「As the party’s leader, he(岸信介)allowed the CIA to recruit and run his political followers on a seat-by-seat basis in the Japanese parliament.」
文藝春秋社版では、そこのところが、
「岸は保守合同後、幹事長に就任する党の有力者だったが、議会のなかに、岸に協力する議員を増やす工作をCIAが始めるのを黙認することになる」と書かれている。
Anchor Books版に描かれた岸は、自分の配下をCIAに売る悪辣な男である。
岸信介は、トップに上り詰めるための策動をする間に、日本とアメリカの間の安全保障条約を作り直す作業をCIAと一緒にすると約束した。岸信介は、日本の外交政策をアメリカの要求を満たすように変えると約束した。それによると、アメリカは日本に軍事基地を保持し、核兵器を貯蔵しても良いということになったのである。
それに対して、岸信介はアメリカの秘密の政治的な協力を要請した。ワイナーは、1994年10月9日付けのNew York Timesに「CIA Spent Millions to Support Japanese Right in 50’s and 60’s. 」(CIAは日本の右翼を助けるために1950年代から60年代に書けて何百万ドルもの金を使った)と言う記事を書いている。そこには、次のようなことが書かれていた。
1970年頃に、日本とアメリカの貿易摩擦が起こっていたし、その頃には自民党も経済的に自立できていたので、自民党に対する資金援助は終わった。しかし、CIAは長期間にわたって築き上げたその関係を利用した。1970年代から1980年代初期に東京に駐在していたCIA職員は「我々は全ての政府機関に入り込んでいた」と語った。
「CIAは首相の側近までリクルートしており、同時に農林省とも同じような関係を結んでいたので、日米農産物貿易交渉で、日本がどのようなことを言うか事前に知っていた」とも語った。元警察庁長官で、1970年代に自民党の代議士になり、1969年には法務大臣になった後藤田正晴は、自分が諜報活動に深く関わってきた1950年代60年代について「私はCIAと深いつながりを持っていた」と言っている。
1958年に、当時の自民党の大蔵大臣だった佐藤栄作が選挙資金の援助をCIAに要求して、その資金で自民党は選挙に勝った。1976年にロッキード事件が起こって日本は騒然としたが、それは、同時にCIAにとって、それまでの工作が暴露される恐れのある危険な事件だった。ハワイで隠退生活をしている元のCIAの職員は電話で、次のようなことを語った。
「この事件は、ロッキードなんかよりもっともっと深いのだ。もし、日本という国のことについて知りたかったら、自民党の結党時のことと、それに対してCIAがどれだけ深く関わったか知らなければ駄目だ。」
このように日本政府は満州国が関東軍によってコントロールされてきたように米国の情報機関によってコントロールされてきたのである。
日米安保条約と日満議定書
作家の保坂正康氏が以下に書いているように日米安保条約と日満議定書には、
いずれも宗主国がその国を属国にしておくための取り決めであるという共通点がある。
*日刊ゲンダイ2020/01/31より引用
吉田も岸も…安保条約と日満議定書の皮肉な共通点
あの60年安保闘争とは一体何だったのだろうか。今なお見落とされている視点を私なりに整理しておきたい。
吉田茂首相はなぜ昭和26年9月7日の夕方にサンフランシスコの第8軍司令部で日米安保条約に単独で署名したのか。
「いずれ問題になるだろうから」と呟きながらである。岸信介首相は何度も「片務条約を双務条約に変えるのがなぜ悪い」と執拗に開き直った。この2つの発言の行き着く先は昭和7年9月に日本政府が満州国と交わした日満議定書に行き着く。この議定書は斎藤実内閣が満州国と交わしたもので、これをもって新たな独立国として認めることになった。この議定書は日本軍の無条件駐屯を認めた上に、秘密の内容(関東軍司令官の推薦者を満州国政府は受け入れるなど)も含み、満州国が独立国だというのは絵空ごとであった。吉田も岸もこれを押し付けた側の官僚として、議定書のカラクリを理解していたのである。そして今、日米安保条約は基地の提供をはじめ多くの点で議定書のカラクリと重なり合う。かつて不平等を押し付けた日本が、敗戦によって独立を損なわれた中で安保条約を受け入れなければならない。2人には耐えられなかったのであろう。しかし彼らはこの屈辱的な条約を「東西冷戦」という言葉をもって免罪にしようと試みた。東西冷戦下であったから、アメリカ側の言い分は受け入れなければならないのだというのが2人の共通点であった。そのため2人は事あるごとに共産主義者の陰謀とか、悪辣な企みといった言葉を繰り返した。共産主義の企みがなければ、この日米安保は必要でさえないのだと。
やがて共産主義は倒れた。吉田や岸の判断に寄り添うならば、日米安保の役割は終わったはずであった。しかしこの条約はふたつの意味で残った。ひとつは日本の軍事力を懸念する声に対してアメリカが日本をコントロールするための政策だ。もうひとつは日本人に軍事肥大の声を定着させずにおくという国際社会の期待に応えるためだ。吉田も岸も、日本を軍事的にアメリカの属国にしておくほうがふさわしいと計算したのであろう。日満議定書の文面を読んで、吉田も岸も感じた歴史上の羞恥心は帝国主義的性格だからこそ、より強く感じていたのであろう。(引用終わり)
日米安保条約第五条 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
一方、日満議定書には
日本國及滿洲國ハ締約國ノ一方ノ領土及治安ニ對スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約國ノ他方ノ安寧及存立ニ對スル脅威タルノ事實ヲ確認シ兩國共同シテ國家ノ防衞ニ當ルベキコトヲ約ス之ガ爲所要ノ日本國軍ハ滿洲國内ニ駐屯スルモノトス
上記の条文をよく読んでいただきたい。全く同じことを言っているのがおわかりになるだろう。
戦後駐留する在日米軍は、旧満州国の関東軍
だから、以下のようことは、さがせばいくらでも出てくる。
・米国政府は、日本のアメリカ大使館の借地料未払いのままにしていたが、
アメリカ政府が東京都港区赤坂にある在日アメリカ大使館の敷地(国有地約1万3000平方メートル)の賃料を1998年以降払っていないことが、9月30日の社民党照屋衆院議員の質問主意書に対する政府答弁書で明らかになっている。
1997年までアメリカ政府が支払った賃料はわずか月額20万8千円で、年間では約250万円だった。98年以降は日米間で契約変更について合意できていないため払われていない。これに比べてイギリスの場合は東京都千代田区にあるイギリス大使館の敷地約3万5000平方メートルの賃料は月額で291万6000円、年間3500万でキッチリと支払われている。
・日本の携帯電話は、米軍から周波数帯の返還によって始めて可能になったのである。政治家は一人も参加していない日米合同委員会によって米軍優先の電波の割り当てが決められているのである。
下記のアドレスの日米合同委員会の取り決めを読めば一目瞭然である。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/sfa/kyoutei/pdfs/03_02.pdf
・現在も日本の空域は、下記のように米軍が完全にコントロールしている。
私たちは、長く続く植民地状態に慣れてしまったために異常な状況下にいることを意識しなくなっている。すっかり、植民地根性に染まってしまったのである。
つまり、私たち日本人は、見事に完成した満州国モデルバージョン2.0とも呼ぶべき戦後日本に住んでいると考えれば、今の状況を一番すっきり理解することができるのである。しかしながら、その不自然な社会システムそのものが、金属疲労を起こし、限界が来ているために現在、政官財でいろいろな不祥事が起きていると考えても間違いないだろう。
<属国であることが最大の国益である>という国是から抜け出さなければならない時を日本という国は迎えている。
<参考>ウィキペディアより
日本における満州人脈
満州国の実質的支配層であった日本人上級官僚や当時の大陸右翼、満鉄調査部の関係者などが母体である。二・二六事件に関与して左遷された軍人や、共産主義者からの転向者も多い。ソビエト連邦の経済政策を参考として、満州国の経済建設の実績をあげた。満鉄調査部事件などで共産主義活動の嫌疑をかけられ検挙された者もいる。ここで培われた経済統制の手法は戦時体制の確立や、戦後の日本の経済政策にも生かされていく。岸総理や右翼の児玉誉士夫などの大物が名を連ね、戦後保守政治に影響力を及ぼした。
主なメンバー
岸信介(1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長、1937年(昭和12年)7月に産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長に就任)
佐藤栄作(当時鉄道省から上海の華中鉄道設立のために出向)
難波経一(満州国民政部禁煙総局長)
池田勇人
松岡洋右(1935年(昭和10年)8月2日から1939年(昭和14年)3月24日まで南満州鉄道第14代総裁)
東條英機(関東軍参謀長)
椎名悦三郎(満州国産業部鉱工司長)
後藤新平(1906年(明治39年)11月13日から1908年(明治41年)7月14日まで南満州鉄道初代総裁)
二反長音蔵
吉田茂(1907年(明治40年)2月から1909年(明治42年)まで駐奉天日本領事館に領事官補として赴任、1925年(大正14年)10月から昭和3年(1928年)まで駐中華民国奉天・大日本帝国総領事)
星野直樹
大平正芳(1939年(昭和14年)6月20日から1940年(昭和15年)10月まで興亜院蒙疆連絡部経済課主任(1939年10月から経済課長)として着任)
愛知揆一(興亜院華北連絡部書記官)
長沼弘毅(興亜院華中連絡部書記官)
高畠義彦(海南島厚生公司東京事務所責任者)
関屋悌蔵(新京特別市副市長)
鮎川義介(満州重工業開発株式会社総裁)
麻生太賀吉
福家俊一(上海の国策新聞「大陸新報」社長)
甘粕正彦
影佐禎昭(陸軍中将。特務機関員。谷垣禎一の祖父)
石原莞爾(陸軍中将。1928年(昭和3年)10月 – 関東軍作戦主任参謀。1931年(昭和6年)10月 – 関東軍作戦課長。1937年(昭和12年)9月 – 関東軍参謀副長。1938年(昭和13年)8月 – 兼満州国在勤帝国大使館附陸軍武官)
楠本実隆(陸軍少将。特務機関員)
橋本欣五郎(陸軍大佐。1922年(大正11年)4月 – 関東軍司令部附仰付(ハルピン特務機関)。1923年(大正12年)8月 – 関東軍司令部附仰付(満州里特務機関))
古海忠之(満州国総務庁次長)
岩畔豪雄
阪田誠盛
里見甫
笹川良一
児玉誉士夫
大韓民国における満州人脈
大韓民国のチンイルパの中でも最大勢力の派閥である。メンバーの多くは日本統治時代満州国軍人であった。朴大統領などもこの人脈に属していたことからかつての軍事独裁政権下では一大勢力を誇った。民主化が達成された現在は影響力を低下させている。
満州国軍出身者の多くは北部(現在の北朝鮮)が故郷だったが、共産化によって越南して南朝鮮国防警備隊に入隊した。彼らは五族(日、韓、満、蒙、漢)の競争で生き残る能力を鍛え、また満州国軍の日本人顧問に慣れていたので米軍政の顧問制度に適応した。そのため建軍期の韓国軍で日本軍出身者と共に影響力を拡大していった。
主なメンバー
朴正煕(元大韓民国大統領)
白善燁(元大韓民国参謀総長)
李周一
丁一権
*朝鮮半島と満州の関連性を知るにはこの本が参考になる。
大日本・満州帝国の遺産
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抜粋終わり
天皇家の植民地・・・日本列島でもあるのだ。
その中では、日本人は、天皇家と外資の家畜。
だから「闇教育~調教」しか行われない。
より
上記文抜粋
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『報復されないから体罰が起きる?』復讐するは我にあり
名門の大阪市立高校における体罰によるバスケット部主将の自殺問題に関して、元巨人軍投手で大阪出身の桑田真澄が、体罰は『指導者の力量不足が原因している』、『彼我の力関係が一方的である』『体罰をしても報復されないからだ』との3点を強調。
監督コーチの力量不足が体罰の原因であることは野村克也など多数の指導者も指摘しているが、桑田真澄が主張する『報復されないからだ』は誰も主張していない。
唯一桑田真澄だけですね。他と意見が違うのは。
年長の野村克也とは違い、若い桑田真澄は時間が経過していない分、自分の少年時代の体罰を正確に覚えているのですしょう。
高校1年で常勝PL学園でエースになるくらいの素晴らしい素質があった桑田選手でも、少年時代は毎日体罰を受けていたのですね。
少年たちにとって大人の監督コーチの力は絶対であり、選手には抗う力が少しも無いのですよ。
だからいくら禁止しても体罰が横行する。
『選手に体罰があり、責任が重い指導者に体罰がない』
体罰問題に対して『指導者の力不足』や『彼我の力関係が一方的である』は他と同じ一般的な考えで正しくはあるが枝葉末節、些細な話である。
間違いではないが、体罰の本質からは遠い。
勝利至上主義で、選手は些細なミスでも厳しい体罰がある。
ところが勝利至上主義の自己矛盾としてもっと問題な、重大な指導や采配でのミスでは当該責任者に対して体罰が一切無い。
体罰肯定論の石原慎太郎などがいうように体罰が本当に勝利に有効であるなら、ミスをした選手への体罰よりも、ミスをした監督コーチに対して体罰が行われて当然である。
ところが、『下』の弱い立場の者に対してだけ体罰があり、責任が重い『上』の強い者(指導者)に対しては一切体罰が行われない。
桑田真澄の他とは全く違うユニークな、『采配ミスで試合に負けても監督コーチが体罰を受ける事はない。体罰の横行は、仕返しが無いからだ』(安全だからだ)は実に的確で核心部分である。
いくら体罰をしても『相手から報復されない』。
教育現場での体罰やイジメやシゴキなど関連するだけではなく、他のすべての暴力問題での一番大事な本質を突いた素晴らしい指摘である。
『体罰肯定の橋下徹の公務員いじめの理由』
『指導力不足』や『力関係が一方的』は重要な発生要件(条件設定)であるが、これだけでは決して体罰は発生しない。絶対に起きないのですよ。
彼我の力関係が一方的で『報復されない』から、体罰を行うことが可能なのです。
この彼我の力関係の不平等とは、学校における生徒間のイジメにも共通する問題で、多数対少数の圧倒的な『力の不平等』の関係で陰湿ないじめ問題が発生している。
決して自分たちは相手から報復されない。(安全・安心)だからイジメが段々エスカレートしてしまうのです。
体罰といじめは日本の場合は同じカテゴリーの問題ですね。
教員など公務員イジメが大好きな橋下徹ですが、これも同じ理由で自分がいじめる対象から報復されないから行えるのです。
幾らいじめても公務員が少しも抵抗しないから好き放題、やり放題となるのは必然である。
日本も先進国並みの公務員のスト権など基本的権利を認めれば、この問題は簡単に解決する。
『18歳参政権で高校の体罰は劇的に少なくなる』
いじめ自殺が起きて大津市長が涙の謝罪会見を開いているが、より学校側に責任がある体罰自殺が起きた大阪市の橋下徹市長は謝るどころか、無責任にもすべての責任を教育委員会や学校に転化して、入試の中止を強制、廃部とか廃校で恫喝し一番の被害者である子供たちを罰しようとしている。
言語道断の無責任で厚かましい態度である。
学校の体罰禁止でも実は解決は簡単で、直接の当事者である子供たちに対して『基本的人権を認める』ことに尽きるでしょう。
体罰をなくす観点からも、今後は日本国も世界の常識である18歳(高校3年生)での参政権は是非とも必要である。
相手が子供(未成年)だと思うのと、参政権がある大人(成人)だと考えるかでコーチも選手も双方共に対応は違ってくる。
大人には、子供にはない権利と義務が生じるのは当然であろう。
体罰といえば悪名高い旧日本軍でも、海軍は陸軍ほどでは無かったのですが理由は『報復が怖いから』だったらしいですよ。
荒れた海で船から落ちれば到底助からないが、もともと海の男は気が荒い。一方的にやられ放題では済まさないのです。
これは外国でも同じで、陸兵の反乱の例は少ないが海軍の水兵の場合は昔から艦長など上官の扱いが悪いと反乱を起こすのです。
日露戦争直後の1905年に起きたロシア戦艦ポチョムキンの反乱や1918年のドイツキール軍港の水兵の反乱は有名。
昔からどこの軍隊も水兵の反抗には手を焼いていて、アメリカ海兵隊など陸兵を海軍軍艦に乗せるもともとの目的(海兵隊の役目)とは水兵の反乱防止や鎮圧用だったらしい。
『しごきで人が死ぬ日本の後進性』
『指導力不足』や『力関係が一方的(アンバランス)』の条件下、『報復されない』から体罰は発生する。
体罰と瓜二つで良く似たものに日本独自の教育方針である『しごき』がある。
『シゴキ』を売り物にして客を集めて何人も殺した私設少年院である戸塚ヨットスクールは論外であるが、昔昔の敗戦前は私的制裁で有名な旧日本軍のしごきの話は有名すぎるぐらい有名だった。
敗戦後の民主化で体罰やシゴキは劇的に減少したが一部には残り、何十年か昔はしごきで死んだといえば大学山岳部の話だった。(他のスポーツ部とは逆に、旧制大学山岳部ではしごきは無かった)
最近では時津風部屋リンチ殺人事件のような相撲部屋でのシゴキが問題となっている。
これらの死亡例の共通点は、
(1)死ぬのが一番弱い新人であること。
(2)組織の拘束時間が24時間であること。
(3)組織が『美しい伝統』とか『輝かしい歴史』とか、やたらと『歴史』や『伝統』を強調するところ。
などの同じような傾向があるようです。
(1)は、先輩(コーチ)の力量不足を如実に物語っている。
(2)は、やはり逃げ場が無かったことが最悪の結果を招いている。
(3)は、そもそも、その組織が主張している美しい伝統や輝かしい歴史に、根本的に問題がある可能性が在る。
絆(共同体)文化の日本社会の持つ、近代以前の後進性こそが『しごき』が未だに一部で根強く残っている原因なのでしょう。
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抜粋終わり