「自由と民主主義」のために女性の人権を踏みつぶす。byアメリカ。

上記文抜粋・・・・・・・・

アフガニスタンで女性の権利を踏みにじったアメリカ


 アメリカの私的権力やその配下の人びとは侵略、略奪、殺戮などを正当化するため、「女性の権利」を口実として使うことがある。アフガニスタンでも「女性の権利」を守るために国を破壊し、女性を含む人びとを殺害してきた。

 アフガニスタンの首都カブールを8月15日にタリバーンが制圧した。その直前、アメリカを後ろ盾とするアシュラフ・ガニー大統領は国外へ脱出、アラブ首長国連邦へ逃げ込んだと伝えられている。

 ガニーは奨学生としてアメリカのコロンビア大学へ留学、1977年には修士号を、また83年には博士号をそれぞれ取得した。その年からカリフォルニア大学バークレー校で教鞭を執るが、1983年から91年までの期間、ジョンズ・ホプキンス大学でも教えている。1991年には世界銀行へ入った。アフガニスタンへ戻るのは2001年12月のこと。2014年9月から21年8月まで大統領を務めた。

 ガニーが大統領を務めるアフガニスタン政府はアメリカの支援を受けているものの、支配できていたのはカブールの周辺やケシの栽培地など限られていた。言うまでもなくケシはヘロインの原料であり、ヘロインを含む麻薬はCIAの重要な資金源である。

 今ではアメリカと敵対関係にあるタリバーンだが、もともとはCIAとパキスタンの情報機関ISIが組織した武装集団。ミハイル・ゴルバチョフの命令でソ連軍が1989年2月にアフガニスタンから撤退した後、新体制を運営する手先として作り上げたのだ。

 タリバーンは1996年9月にカブールを制圧、その際にムハンマド・ナジブラー大統領を拘束、大統領兄弟の睾丸を切り取るなど残虐な行為を繰り返した。そこでイスラム世界における評判は良くなかったのだが、アメリカの私的権力は好意的だった。例えば、CFR(外交問題評議会)のバーネット・ルビンはタリバーンと「イスラム過激派」との関係を否定、国防総省と関係の深いRAND研究所のザルマイ・ハリルザドも同じ見解を表明する。また、タリバーンのアメリカにおけるロビイストはリチャード・ヘルムズ元CIA長官の義理の姪にあたるライリ・ヘルムズだ。

 こうした関係が壊れる切っ掛けは石油の利権。アメリカの石油企業はタリバーンを使って中央アジアの油田を開発しよう考え、その意向を受けてジョージ・H・W・ブッシュ政権はバクー(B)、トビリシ(T)、ジェイハン(C)を結ぶBTCパイプラインを計画した。その発案者は巨大石油企業のBPである。

 しかし、BTCパイプライン計画にはライバルがすでに存在していた。チェチェンのグロズヌイを経由するパイプラインだ。アメリカがチェチェンを戦乱で破壊した理由のひとつはここにあると見られている。

 このチェチェン工作を指揮することになったCIAのグラハム・フラーはアフガニスタンでズビグネフ・ブレジンスキーの下、ジハード傭兵の仕組みを作り上げた人物。その下にはベトナム戦争でCIAの秘密工作に深く関与、イラン・コントラ事件で名前が出てきたリチャード・シコードがいた。

 シコードがアゼルバイジャンで活動の拠点として設立したのがメガ石油。またジハード傭兵数百名をアフガニスタンからアゼルバイジャンへ移動させるために航空会社を設立、1993年までにメガ石油は約2000名の戦闘員を雇い、カフカスでの工作に使ったという。(F. William Engdahl, “Manifest Destiny,” mine.Books, 2018)

 しかし、タリバーンは1998年1月にトルクメニスタン(T)からアフガニスタン(A)とパキスタン(P)を経由してインド(I)に至るTAPIパイプラインの敷設を計画、アメリカ系のUNOCALではなくアルゼンチンのブリダスを選ぶ。

 タリバーンを攻撃したいアメリカにとって好都合なことに、1998年8月にケニアのナイロビとタンザニアのダル・エス・サラームにあるアメリカ大使館が爆破された。アメリカ政府は大使館爆破はオサマ・ビン・ラディンの命令だと即座に断定、タリバーン政権とのパイプラインに関する交渉を停止、この月の20日にアフガニスタンとスーダンを巡航ミサイルで攻撃している。またニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されるの2カ月前、つまり2001年7月にジョージ・W・ブッシュ政権内でアフガニスタンへの軍事侵攻が計画されたと報道されている。

 世界貿易センターやペンタゴンへの攻撃は「9/11」とも呼ばれている。ブッシュ・ジュニア政権は詳しい調査をせずに「アル・カイダ」が実行したと断定、その「アル・カイダ」を指揮しているオサマ・ビン・ラディンを匿っているという口実でアフガニスタンへの攻撃を始めた。タリバーンはオサマ・ビン・ラディンが攻撃を命令した証拠があれば引き渡すとアメリカ政府に伝えたが、いまだに証拠は示されていない。タリバーンは今でもオサマ・ビン・ラディンと9/11を結びつける証拠をアメリカから示されていないとしている。

 そもそも「アル・カイダ」なる組織は存在しなかった。イギリスの外務大臣を1997年5月から2001年6月まで務めたロビン・クックが2005年7月に明かしたように、​「アル・カイダ」はCIAの訓練を受けた「ムジャヒディン」の登録リスト​だ。アラビア語でアル・カイダはベースを意味、データベースの訳語としても使われる。

 タリバーンが1996年にアフガニスタンを制圧する前、この国では女性の権利も男性と同じように認められていた。1978年4月に革命評議会兼首相となったモハメド・タラキは女性のために学校を創設し、貧困層でも大学へ進む道を整備、医療を無料にするといった政策を推進している。(Martin Walker, “The Cold War”, Fourth Estate, 1993)

 女性の権利を認めるタラキ政権をアメリカの私的権力は認めない。アフガニスタンにもそうしたタラキの政策に反発する勢力は存在、学校や大学を焼き討ちし、治安は悪化する。そこでタラキは反対勢力の指導者約2万7000名を処刑したと言われているが、国内を安定させることはできなかった。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 1979年3月にタラキはソ連を訪問、ソ連軍の派遣を要請するが、断られてしまう。その月にイランの革命政府から支援されたアフガニスタンのイスラム勢力がイランとの国境に近いヘラトで多くの政府高官や十数名のソ連人顧問を襲撃して殺害、その際にソ連人顧問の子どもや妻も犠牲になる。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)

 アフガニスタンを不安定化させる工作を進めていたブレジンスキーはソ連軍をアフガニスタンへ引きずり込み、自分たちが用意した「ムジャヒディン」と戦わせて疲弊させようとしていた。ソ連はそうしたアメリカの目論見を察知していたのかもしれない。

 ジミー・カーター政権で国家安全保障補佐官を務めていたブレジンスキーが務めることになる。1978年にアメリカとイランの情報機関、つまりCIAとSAVAKはエージェントをアフガニスタンに派遣、モハメド・ダウド政権と接触させている。軍隊内の左派将校を排除し、人民民主党を弾圧するように指示したのだ。(Diego Cordovez and Selig S. Harrison, “Out of Afghanistan”, Oxford University Press, 1995)

 その指示に従ってダウド政権は左翼、あるいはコミュニストのリーダーを次々に暗殺していくが、間もなくして粛清への反撃が始まる。そして1978年4月に倒され、女性や社会的な弱者の権利を認めるタラキの政権が誕生したわけだ。そのタラキ政権をアメリカは潰し、ソ連軍をアフガニスタンへ引き込むことに成功した。

 アメリカの私的権力はメディアなどを使い、女性や性的マイノリティの権利、人種差別反対、気候変動などについて宣伝しているが、その一方で侵略戦争を続け、労働者から権利を奪ってきた。国の主権も奪おうとしている。彼らが掲げる「タグ」に中身はない。

・・・・・・・・・・抜粋終わり


自由と民主主義のために、女性の権利を踏みつぶす。byアメリカ。

アメリカの利益のために 人権も民主主義も踏みつぶす。 byアメリカの軍産と米英セレブ


あと、

日本の利益のために、日本人を殺す by帝政日本政府

天皇家の利益のために 日本人を殺して売る by天皇家とその犬。


てものだ。

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