タフでバカなら、狂戦士しかない。まあ、天皇家の家畜らしい。
より
上記文抜粋
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「タフさ」を評価、多様性に不寛容… 専門家が見る陸自性暴力の根源
元陸上自衛官の五ノ井里奈さん(23)が複数の男性隊員から性暴力を受けた問題を巡り、ハラスメントに詳しい神奈川県立保健福祉大学の津野香奈美准教授は自衛隊という組織について「構造的にハラスメントが起きやすくなっていたのではないか。上層部が常に厳しい姿勢を示すことで、環境を改善していくべきだ」と指摘する。
津野准教授によると、一般的に、ハラスメントの発生する要因として、組織の構造や風土の影響が大きいという。同質的で多様性に不寛容▽規律が厳しい▽「タフさ」が評価される▽からかいや過度な冗談が許容されている――などの特徴が挙げられ、こうした特徴は、自衛隊にも多くみられるという。
海外に比べ、日本は「タフさ」や「男性らしさ」が評価されるとの調査結果もある。津野准教授は「そうした組織では排除される女性は攻撃対象にされやすい。五ノ井さんが実名で告発した際、インターネット上などで『このくらいで我慢できないなら自衛官として不適格』などの反応があったことも、そうした傾向の一つの表れだろう」と話す。
五ノ井さんが被害に遭った際、周囲にいた隊員は笑っていたとされる。「からかいや過度な冗談が許容されていると、『笑いのためなら人を傷つけてもいい』という間違った認識が広がり、エスカレートしてしまう」という。
では組織内での性暴力などをなくすためにどのような対応が必要なのか。
津野准教授は、トップが「断固としてハラスメントを許さない」というメッセージを定期的に出し、そのうえで職場で誰かを傷つけるような言動があれば管理職がすぐに注意するなどして「ハラスメントに対する厳しい姿勢を常に示し、隙(すき)を作らないことが大切」と説明する。
さらに組織構造や風土を変えていく努力も必要だという。「例えば『ハラスメントをしない』という項目を人事評価基準に導入すれば、抑制効果が期待できる。防衛省・自衛隊にはこれまでの在り方を検証し、組織を変えていくために新たな対策を取ることが求められる」とする。【安達恒太郎】
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抜粋終わり
そういえば・・・
より
上記文抜粋
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また、建武二年に柏華の蛮中と戦ったときのこと。陣頭指揮していた祭遵は弩の矢を受けて激しく流血したが、動揺する兵士を叱咤激励して一歩も引くことがなかったという。
なかなかの猛将であったといえる。
祭遵の軍隊は、軍紀が厳正で兵士が問題を起こすことがなく、その軍のいる県では、軍隊が滞在していることにすら気づかなかったという。その兵士は極めて精鋭であり、他の部隊より速く行軍することができた。
かつて耿弇、朱祜、祭遵に張豊攻撃の命令が出たが、戦場に真っ先に到着したのが祭遵であった。祭遵は一気に急襲してこれを平定してしまったので、耿弇や朱祜には出番がなくなってしまった。
・・・・・・中略・・・・・
隗囂との戦いでは、公孫述の援軍によって主力の呉漢らが敗走し、長安へと帰還することとなったが、病の重い祭遵は殿として隗囂との最前線に残ることとなった。しかも隴西一帯の豪族たちは、漢軍の敗北を見て隗囂側に寝返ったため、祭遵はますます苦しい状況となった。
翌年、祭遵は陣中に没し、その軍は馮異に引き継がれることとなった。その直後、隗囂も亡くなったので、祭遵の棺が都へと帰ってくることができた。
これは実は驚異的なことである。
将軍が病重ければ指揮できないだけでなく、士気も低下し、まともに戦うことはできない。略陽攻略で引き返し、劉秀の主力が撤退したときも前線に残されており、旅ができないほど病が重かったとみられる。従って戦闘指揮ができたかも疑問である。
また、敵前に寡兵で取り残され、敵を前にしたまま死亡したにもかかわらず敗戦することもなく、その軍は馮異へと引き継ぐことができた。
この一年間、祭遵の軍に混乱がなかったことは特筆に値する。
歴史上、大将が病気に倒れてなお戦うことができる部隊はほとんど存在しない。
唐の太宗李世民は軍事の天才であった。その彼も秦の薛氏への遠征において病気になると敗戦している。大将が病気に倒れれば、戦いについて不安が生まれ、士気が低下して敵に打ち破られてしまうものなのである。
この数少ない例外として祭遵を数えることができる。他には蜀漢の諸葛孔明、唐の李晟の二人がいるだけである。また日本の戦国時代、大友家の部将立花道雪もそのような部隊であったという。
彼らが病に倒れると、不安ではなく大将を守ろうとするためにむしろ士気は高くなった。病や死に乗じて戦おうとする卑劣な敵を倒さんと意気上がる、これは将としての最上級のエピソードなのである。祭遵の兵士が、祭遵なくともその命令を守って戦うことができたことは、その兵士が略陽攻略で活躍したことでもわかる。
・・・・・・中略・・・・・・・
祭遵の兵士育成法
祭遵は、もともと劉秀のもとで軍紀の粛清係をつとめていた。将軍としてもその軍紀の厳しさは最高であった。
しかし、ただ厳しかっただけではない。
祭遵は劉秀の信頼が厚く、しばしば特別に賞与を与えられていた。しかし、給与も報償もすべて兵士に与えたので、私財がまるでなかったという。
子供がいなかったので妾を娶るように薦められても、それを断った。家のことを決して語らなかった。すべてにおいて国家のことを最優先とした。
また、孔子の子孫を国に封じることや五経大夫を置くことを進言した。祭遵は儒に詳しく、孔子の教えを信奉していたのである。
将軍となると、部隊長を選ぶのに儒を基準して選んだ。戦場を前にしても、部下たちとともに儒の作法に基づいて酒を飲み、音楽を演奏し、雅歌を歌い、投壺(壺に矢を投げ入れる遊び)をして遊んだ。悠然として儒者の風があったのである。
儒はこの時代の主要な学問であるから、こうしたイベントに兵士を参加させることは、兵士の教育に熱心であったことを示している。
孔子はかつて「民を教えずして戦わせる、これを棄てるという」と述べた。兵士を教育してから戦わせることが肝要なのである。祭遵は、孔子の用兵を行っていたのである。
人にもし立派な振る舞いをさせたいのなら、まず立派な人物として扱い、立派な人物であるという自覚を与えることである。相手を悪人であると見なして応対すれば、相手は悪人として振る舞うし、有能な人として応対すれば有能に振る舞う──これは心理学でいうピグマリオン効果として知られているものであり、集団に対したとき明確にあらわれる効果である。
すなわち、祭遵は兵士を立派な士人として扱うことにより、兵士に志と自覚を与えその質を高めたと考えられるのである。だからこそ、祭遵の指揮がなくとも自らの意志をもって戦うことができたのであろう。
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抜粋終わり
敗軍の天皇軍を祖とあがめる自衛隊と、
と
名将とその薫陶を得た精鋭とは、あまりにかけ離れているよな・・・て思う。
日本は狭く浅かった。まあ政治・経済・軍事においては、間違いないよね。
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
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