親が親なら、子も子だ。「帝政日本」という日本人虐殺魔・・・・・・
上記文抜粋
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貞明皇后がハンセン病患者の人体実験にお墨付き
18日付の京都新聞に極めて注目される記事(熊本日日新聞提供)が掲載されました。
<ハンセン病患者 戦中の人体実験 「虹波」治験成績 皇室に報告>
「虹波(こうは)」(写真中)とは、1942年12月から国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園(熊本県合志市)で帝国陸軍によって秘密裏に行われた人体実験で投与された薬剤。被験者は472人(可能性も含めると842人)に上り、発熱やおう吐などの副作用があり、実験中に少なくとも9人が死亡したと報告されています(6月27日のブログ参照)。
その人体実験についての新事実です。記事を抜粋します。
<「虹波」について、陸軍側が1943年に皇室へ出向いて治験成績を報告していたことがこのほど、恵楓園入所者自治会への取材で分かった。識者は「皇室のお墨付きを得ることで、開発の権威を高める狙いがあったとみられる」としている。
宮内庁書陵部が59年にまとめた「貞明皇后実録」で、報告を裏付ける記述が見つかった。貞明皇后は昭和天皇の母で、当時は皇太后だった。
実録には、貞明皇后は43年11月20日午後2時に謁見所で「陸軍技術研究所長の長沢重五、陸軍軍医大佐の松崎陽、陸軍嘱託の村田正太、陸軍嘱託国立癩療養所菊池恵楓園所長の松崎松記」と面会し、虹波に関する説明を受けたとの記録が残っている。
戦後に旧陸軍の研究者らが設立した「感光色素研究会」の機関紙「感光色素」(67年)でも、「43年11月、虹波の癩治療に関する好成績は第七陸軍技術研究所長より、畏くも皇太后陛下に言上せられる光栄に辱くした」と記している。
明治大平和教育登戸研究所資料館の山田朗館長は、貞明皇后が当時、陸海軍の統帥権を持っていた昭和天皇と3カ月に1回程度面会していたと指摘。「皇太后から昭和天皇に虹波の有効性を伝えてもらうことで、予算を獲得し、陸軍内で開発推進に向けて基盤を固める狙いがあったのだろう」と推測している。>(18日付京都新聞=熊本日日新聞提供)
きわめて重大な事実です。
貞明皇后(写真右)は「救らいの象徴」とされ、全国のハンセン病療養所にはその歌碑が建てられ、その誕生日(6月25日)は「救らいの日」とされ、今でも「ハンセン病を理解する週間」として引き継がれています。
「貞明皇后は「救らい」の象徴となっていく。…ハンセン病療養所は限りなく「皇恩」がもたらされる場、というイメージが作られ…絶対隔離政策を正当化する思想的支えとなると同時に、病者にも隔離を受容させ、療養所に入ることが国家的使命と意識づける役割を果たした」(吉川由紀・沖縄国際大非常勤講師「皇室とつれづれの碑」、『入門沖縄のハンセン病問題 つくられた壁を越えて』2009年所収)
その貞明皇后が患者への人体実験にお墨付きを与えていたのです。
さらに見過ごせないのは天皇裕仁との関係です。
裕仁が貞明皇后(実母)に頻繁に会っていたことを山田朗教授が指摘していますが、田島道治の「拝謁記」では、裕仁が貞明皇后を畏怖していたことが記されています。原武史・明治学院大名誉教授はこう書いています。
「皇太后(貞明皇后)を恐れていた天皇は、その意向に逆らうことができませんでした。…「拝謁記」では、皇太后が亡くなる五一年五月までの天皇の皇太后に対する言及の回数が非常に多くなっています」(原武史氏『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』岩波新書)
人体実験に対する貞明皇后のお墨付きとは天皇裕仁のお墨付きにほかなりません。山田教授の推測は的を射ているといえます。
こうした事実は、「救らいの象徴」とされた貞明皇后の実像を示すだけでなく、戦中戦後のハンセン病患者に対する差別・人権侵害、ハンセン病政策と皇室の関係、さらには戦時中の陸軍と天皇・皇室との関係を示す新たな事実として絶対に見過ごすことはできません。
本来、国会でも追及すべき重要問題ですが、大政翼賛化している政党・国会には望めません。学者・研究者、ジャーナリストらによる徹底追及が期待されます。
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抜粋終わり
まあ、親が親なら、子も子だ・・・
考えたら、日本政府と天皇家が、新ころワクチンで日本人を虐殺しつづけるのは、当然なのでしょうね。
天皇を根絶して 日本人を救う
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みに富む社会になりますように