近現代の経済学=古代ローマの経済法=ネオ奴隷制社会 だね。

より

上記文抜粋
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借金帝国アメリカは、崩壊の道を辿っている

<記事原文 寺島先生推薦>

US Empire of Debt Headed for Collapse

筆者:ペペ・エスコバール(Pepe Escobar)
出典:INTERNATIONALIST 360° 2023年5月15日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2023年7月7日

 マイケル・ハドソン教授の新刊『古代文明の崩壊:ギリシャ・ローマ文明のオリガルヒ的転換点』は、グラムシを引用するならば、古い地政学的および地経済的秩序が息絶え、新しい秩序が目まぐるしい速度で生まれている、「The Year of Living Dangerously」*という映画のような影響力の大きい出来事だ。
*1982年にピーター・ウィアーが監督し、ウィアーとデイビッド・ウィリアムソンが共同執筆したロマンティックドラマ映画。この映画は、クリストファー・コックの1978年の小説「The Year of Living Dangerously」を映画化したもの。物語は、1965年のインドネシアでのスカルノ大統領の転覆の間に展開される恋愛を描いている。1965年9月30日運動によるクーデターの前夜、ジャカルタの外国特派員たちのグループを追う。

 ハドソン教授の主要な論題はまさに破天荒だ:彼が証明に乗り出したのは、古代ギリシャとローマの経済・金融慣行(西洋文明の礎となるもの)が、今日私たちの目の前で起こっていることの土台となっている点だ。すなわち、帝国というのは金利生活経済に落ち込み、内部から崩壊する。

 そして、これがすべての西洋金融システムに共通する特徴につながる:それが債務の本質であり、それは必然的に複利で膨らんでゆく。

 そう、次のことをどう考える?:ギリシャとローマ以前、西アジア全域にわたって、まったく逆の方法をとる文明が約3,000年存在していた。

 これらの王国は、債務の帳消しの重要性を知っていた。そうしなければ、臣民たちは奴隷に落ちることになり、土地を差し押さえる債権者の集団に奪われ、そうなると、通常、彼らは支配権を転覆させようとする。

 アリストテレスは要点を次のように簡潔にまとめた:

    「民主政下では、債権者が貸し付けを開始し、債務者が返済できず、債権者はますますお金を手に入れ、結果として民主政を寡頭(オリガルヒ)政治に変え、そして寡頭政治は世襲制を確立し、貴族政治が成立する」。

 ハドソン教授は、債権者が支配権を握り、「経済の残りの部分を奴隷状態にする」と、何が起こるかの鋭い説明をしている:これは今日では「緊縮財政」または「債務デフレーション」と呼ばれているものだ。

 そこで「現在の銀行危機で起こっているのは、債務が経済の返済能力を上回る速度で膨らんでいることだ。そして、連邦準備制度が最終的に利上げを開始したことによって、銀行危機が起きた」。

 ハドソン教授はさらに拡大した定式化も打ち出している:

    「金融と土地所有の寡頭支配の出現により、債務による奴隷化と束縛が恒久化された。それは債権者に有利な法的・社会的哲学に支えられている。これは西洋文明以前にはなかったものだ。今日ではそれはネオ・リベラリズムと呼ばれるものだろう」。

 そして彼は、この状況が古代の5世紀以上にわたっていかに固定化されたかを、微に入り細を穿って説明している。現代では「大衆の反乱への激しい弾圧」とか、債務の帳消しと大土地所有者に土地を奪われた小農に土地を再分配することを目指す「指導者を標的とした暗殺」という言葉で耳にすることができる。

 ハドソンの下した判断は非情なものだ:

     「ローマ帝国の人々を貧困に陥れたもの」は、「債権者に基礎を置く法原則を現代世界に」残した。

弱肉強食オリガルヒと「東洋専制主義」

 ハドソン教授は、「社会ダーウィニスト的な経済決定論の哲学」に対して破天荒な批判を展開する:
「自己満足的な見方」が、現代の個人主義の制度や信用および財産契約の保証(つまり、債権者の債務者への言い分を優先させる、家主の権利を借家人の権利に優先させること)へと連なってきた。それを遡れば、「東洋専制主義から文明が進展してきたことを意味するプラスの進化的な発展」とする古典的な古代観となる。

 それはすべて神話だ。現実はまったく異なる。ローマの極端に弱肉強食的な寡頭政治が、「5世紀にわたる戦争を通じて人々の自由を奪い、債権者に有利な法律や土地のラティフンディウム*への独占を阻止しようとする広範な人々の反対を抑え込んだ」。
*私有地の非常に広大な区画。ローマの歴史のラティフンディアは、穀物、オリーブ オイル、ワインなどの輸出向けの農業に特化した偉大な地所だった。それらは、マグナ・グラエキア、シチリア、エジプト、北西アフリカ、ヒスパニア バエティカで特徴的だった。(ウィキペディア)

 だから、実際、ローマの振る舞いはまさに「破綻国家」のそれだった。「将軍、知事、税徴収人、金貸し、そして軍需商人」が「小アジア、ギリシャ、そしてエジプトから、軍事的な略奪品、貢納金、高利貸しの形」で銀と金を搾取していたのだ。しかも、このローマの荒廃地への接近は、現代の西洋社会では、フランス式文明化の使命を野蛮人にもたらした、とこれ見よがしに描かれてきた。同時にそれは、有名な白人の負担も負っていた。

 ハドソン教授は、ギリシャとローマの経済は、実際は「信用と土地が金利生活オリガルヒによって私有化された後、最終的に緊縮財政になり、崩壊した」様子を一点の曇りもなく明らかにしている。これは(現代に)警鐘を鳴らすものではないだろうか?

 おそらく彼の論点の中心的な核心は次にある:

      「ローマの契約法は、債務者の財産に債権者の要求を優先させるという西洋法哲学の基本原則を確立した。現代では『財産権の保障』と美化されている。公的な福祉支出は最小限に抑えられた。今日の政治的イデオロギー(思考様式)では、これを『市場の手に委ねる』と言う。ローマとその帝国の市民は、基本的な必需品を裕福な後援者や金貸しに依存し、パンと見世物*については公的給付金と政治家候補によって支払われる獲物に頼っていた。この政治候補はしばしば裕福なオリガルヒから借り入れ、自分の運動資金にしていた」。
*古代ローマの権力者は、市民にパンを無料で配給し、コロシアム(円形競技場)で見世物(戦車競技など)を無料で楽しめるようにして、政治に対する不満や反発が起こらないようにした。(英辞郎)

 覇権国(アメリカ)によって主導される現行のシステムとの類似性は単なる偶然ではない。

ハドソン:「これらの賃貸地主に有利な考え方、政策、そして原則は、現代の西洋化された世界がその後を追っているものだ。それが、似たような経済的、政治的試練に苦しむ今日の社会にとってローマの歴史が重要である所以だ」。

 ハドソン教授は、リウィウス、サルスティウス、アッピアヌス、プルタルコス、ディオニュシウス・ハリカルナッソスなどのローマの歴史家が、「市民の債務奴隷化を強調していた」ことを私たちに思い起こさせてくれる。ギリシャ・デルポイの神託も、詩人や哲学者たちも、債権者の貪欲さを警告していた。ソクラテスやストア派の哲学者たちは、「富中毒と金への執着が社会の調和、そして社会そのものにとって最大の脅威である」と警告していた。

 そして、結局は西洋の歴史学からこの警告は完全に排除された。ハドソン教授によれば、「古典学者のごく少数者」しか、ローマ時代の歴史家の文献を読んでいない。こういった負債問題や土地の略奪が「共和国の衰退と崩壊の主な原因である」と説明しているローマ時代の歴史家の文献を、だ。

 ハドソン教授が、また、我々に注意を促しているのは、この野蛮人たち(オリガルヒ)は常に帝国の門前に迫っていた、ことだ:

ローマは、実際には、「内部から弱体化」し、「数世紀にわたって、溢れるほどのオリガルヒたち」によって衰退した。

 したがって、ギリシャとローマから私たち全員が学ぶべき教訓は次のとおり:

オリガルヒ債権者たちは、「弱肉強食的なやり方で所得と土地を独占し、繁栄と成長を停滞させることを求めている」。

プルタルコスもそれを指摘している:

「債権者の強欲さは、彼らにとっても楽しみも利益ももたらさず、自分たちが虐待する人々を破滅させる。彼らは債務者から取り上げた土地を耕すこともなく、立ち退かせた後もその家には住まない」。

「プレオネクシア(富中毒)」に注意

 (ハドソンの)中心的な言説を常に豊かにしている、これほどまでに多くのヒスイのように貴重な情報を完全に目を通すことなど不可能だろう。以下はほんのさわりだけだ(そしてこれからもっと出てくるという:ハドソン教授は私に語った。「私は現在、続編に取り組んでおり、十字軍がテーマです」と。)

 ハドソン教授は、お金の重要性、債務と利子が紀元前8世紀頃にシリアとレバントからエーゲ海と地中海にもたらされたことを私たちに思い出させてくれる。しかし、「債務の帳消しや土地再分配の伝統がなく、個人の富の追求を抑制するものがなかったため、ギリシャとイタリアの族長たち、軍事指導者、そして一部の古典学者がマフィアと呼んだもの(ちなみに、イタリア人ではなく北ヨーロッパの学者)が、不在地主に従属労働を課した」と指摘している。

 この経済的な分極は絶えず悪化し続けた。ソロンは紀元前6世紀後半にアテネで債務を帳消しにしたが、土地再分配は行わなかった。アテネの貨幣準備は主に銀鉱から得られており、それによってサラミスでペルシャ人を破った海軍が建設された。ペリクレスは民主主義を推進したかもしれないが、ペロポネソス戦争(紀元前431年-紀元前404年)でのスパルタに対する悲劇的な敗北は、重度の債務中毒オリガルヒに門戸を開く結果となった。

 大学でプラトンやアリストテレスを学んだ人間ならだれでも、プラトンもアリストテレスも、この問題をプレオネクシア(「富中毒」)という枠で括ったことを想い出すかもしれない。これは必然的に弱肉強食的で「社会的に有害な」行為につながるのだ。プラトンの『国家』では、ソクラテスは社会を統治するためには富を持たない為政者のみが任命されるべきだと提案している。そうすれば、彼らは傲慢さや貪欲さの人質にならない。

 ローマに関して問題なのは、文書が何ひとつ残っていないことだ。標準的な物語は、共和国が崩壊した後に書かれた。カルタゴに対する第二次ポエニ戦争(紀元前218年-紀元前201年)は特に興味深いものだが、それは現代のペンタゴンにも似た要素を持っている。ハドソン教授は、軍事請負業者が大規模な詐欺行為に関与し、上院が彼らを告発することを激しく阻止したことを私たちに思い起こさせる。

 ハドソン教授は、次のことを提示する:それが「最富裕家族に公共の土地を与える機会となった。ローマ国家は、戦争遂行の支援として彼らの見かけ上愛国的な寄付(宝飾品やお金)を、遡及的に公的な債務として扱い、返済の対象とした」。

 ローマがカルタゴを打ち破った後、このけばけばしい集団は金を取り返したかった。しかし、国家に残された唯一の資産は、ローマ南部のカンパニアの土地だけだった。この裕福な家族たちは元老院にロビー活動を行い、その全ての土地を自分たちのものにしてしまった。
 
 シーザーが、労働者階級が公正な扱いを受ける最後のチャンスだった。紀元前1世紀前半、彼は破産法を支持し、債務の帳消しを行った。しかし、広範な債務の帳消しは行わなかった。大きく中道的な立場を取ったシーザーは、元老院寡頭政治家たちが彼を攻撃することを止めなかった。元老院寡頭政治家たちは「彼が市民の人気を利用して『皇帝の地位を求める』可能性がある」と懸念」し、より市民に人気のある改革に乗り出すことを「恐れていたのだ」。

 紀元前27年、オクタヴィアヌスの勝利とこの元老(オクタヴィアヌス)がプリンケプスおよびアウグストゥスの称号を受けた後、元老院は単なる儀式的なエリート組織になった。ハドソン教授は次のようにまとめている。「西の帝国は、獲得するための土地も略奪するための貨幣ももはや存在しなくなったときに崩壊した」。繰り返しになるが、現在の覇権国家(アメリカ)の苦境との類似点を見いだす制約は何もないだろう。

「すべての労働者を向上させる」時が来た

 私たちの非常に魅力的なメールのやり取りのひとつの中で、ハドソン教授は、1848年の類似点について「すぐに思いついた」と述べた。私はロシアのビジネス新聞『ヴェドモスチ』に次のように書いた:

「結局、それは限られたブルジョワ革命であることが判明した。それは家賃収入のある地主階級と銀行家に対するものだったが、労働者支持とはほど遠いものだった。産業資本主義の偉大な革命的行為は、確かに不在の地主制度と略奪的な銀行業から経済を解放したものだった。しかし、再び家賃収入階級が金融資本主義の下で復活したため、それもまた後退することになった」。

 そして、それは彼が「今日の分断にとっての大きな試練」と考えるものにつながる:

      「それは、単に、各国が自国の自然資源やインフラが米国/ NATOに支配されていることから自国を解放するだけなのかどうか―これするだけなら自然資源の地代を課税することによってできる(そうすることで、自分たちの国の自然資源を私有化した外国投資家の資本逃避に課税することになる)。大きな試練は、新たなグローバル多数派の国々が、中国の社会主義が目指しているように、すべての労働者を向上させることを求めるかどうかだ」。

 「中国特色の社会主義」が、覇権国(アメリカ)の債権者オリガルキを恐怖させているため、彼らが「熱戦争」さえ冒しそうとするのも不思議ではない。

 確かなことは、グローバルサウスを横断する主権への道は革命的にならざるを得ないだろう、ということだ:

    「アメリカの支配からの独立は、1648年のウェストファリアの改革であり、それによって他国の内政への干渉を行わないという原則が確立された。地代税―1848年の税制改革―は独立の重要な要素だ。現代版の1917年(ロシア・プロレタリア革命)はいつ起こるのだろうか?」

 プラトンとアリストテレスに発言してもらおう:人間的なやり方で可能な限り早く、だ。

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抜粋終わり

ハドソン教授の主要な論題はまさに破天荒だ:彼が証明に乗り出したのは、古代ギリシャとローマの経済・金融慣行(西洋文明の礎となるもの)が、今日私たちの目の前で起こっていることの土台となっている点だ。すなわち、帝国というのは金利生活経済に落ち込み、内部から崩壊する。

そして、これがすべての西洋金融システムに共通する特徴につながる:それが債務の本質であり、それは必然的に複利で膨らんでゆく。

ギリシアローマ文明とは、奴隷制文明だった。

民主政下では、債権者が貸し付けを開始し、債務者が返済できず、債権者はますますお金を手に入れ、結果として民主政を寡頭(オリガルヒ)政治に変え、そして寡頭政治は世襲制を確立し、貴族政治が成立する」。

ハドソン教授は、債権者が支配権を握り、「経済の残りの部分を奴隷状態にする」と、何が起こるかの鋭い説明をしている:これは今日では「緊縮財政」または「債務デフレーション」と呼ばれているものだ。

だよね。

そして、結局は西洋の歴史学からこの警告は完全に排除された。ハドソン教授によれば、「古典学者のごく少数者」しか、ローマ時代の歴史家の文献を読んでいない。こういった負債問題や土地の略奪が「共和国の衰退と崩壊の主な原因である」と説明しているローマ時代の歴史家の文献を、だ。


「債権者の強欲さは、彼らにとっても楽しみも利益ももたらさず、自分たちが虐待する人々を破滅させる。彼らは債務者から取り上げた土地を耕すこともなく、立ち退かせた後もその家には住まない」。

契約法による「財産の保護」は、「富裕層」なり「不労所得」については、例外も考えないと、社会はまともに機能しなくなる原因になるみたいだ。
まあまともな経済学者~ギリシアローマ契約法の汚染を受けてない経済学者など、日本に存在しているわけがないが~そのような人らの解析を期待したい。

面白いのは、後漢の光武帝だよな。

より

上記文抜粋
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何度も出しているのは、効果がないからではなく、新しく敵地を平定するたびに解放令を出しているためである。あくまでもそのときの解放令であるから、自国領でしか無意味だからである。
 また文面に出てくる売人法と略人法は、劉秀の時代に創設された法律であるとされる。売人法は人を売ることの罪を決めた法律であり、略人法とは人をさらったときの罪を決めた法律である。
 この時代の民間の奴婢の多くは、貧乏であるために妻や子を売るケースと、戦争で女や子どもを略奪してそのまま妻や奴婢にするケースである。そこで劉秀は、人身売買についての「売人法」を制定し、人さらいについての「略人法」を制定した。二つの奴婢の成立状況を狙い打ちにした法律を制定したのである。
 さらに劉秀は歴史的にも驚くべき宣言を行う。
 
 建武十一年春二月己卯(西暦35年3月6日)
「この天の地の性質として、人であるから貴いのである。故に殺したのが奴隷でもその罪を減らすことはできない。(天地之性人為貴。其殺奴婢,不得減罪。)」
 
 という詔書を発行し、法律の改革を進めた。人が貴い存在であることは、天地、すなわちこの宇宙自体が持つ自然の性質、言うなれば重力のように誰にも変えられない天与のものとし、貴さの起源が人間存在にある以上、貴族も良民も奴婢も貴さは同じであり、同じ刑法が適用されるのだ、というのである。現代の人権天賦説に近いものと言えよう。この言葉は中国における人権宣言として、アメリカの独立宣言にある「人はみな平等に造られている(All men are created equal.)」に相当するものとして注目されている。
 劉秀はこの年に、不平等だった法律を具体的に一つ一つ排除を進めている。春二月、
「あえて奴婢に焼き印したものは、法律の通りに処罰し、その焼き印された者を庶人となす」
 冬十月には、奴婢が弓を射て人を傷つけたときに死刑となる法律を削除した。
 「天地之性人為貴」という言葉自体は『孝経』からの引用であり、曽子の質問に孔子が答えた言葉である。こうした昔から知られた理想を示す言葉、悪く言えば建前だけの空言に、実のある改革を付け加えることで、実際に意味のあるものにしてしまうところに劉秀のすごさがある。聖典に根拠を置くことで誰にも反論できなくしてしまうのである。
 これら一連の詔書は多くの人を驚かせ、感嘆させた。代表的な人物が次の次の代の皇帝である章帝の時代に宰相になる若き俊才第五倫である。第五倫は詔書を読むたびに「この方こそ真に聖主である、何が何でもお会いしたいものだ」と嘆息した。この発言に同僚たちは失笑して、「君は上司の将軍すら説得できないくせに、万乗の陛下を動かせるわけがない」とバカにしたが、「いまだ私を知る者に会うことなく、行く道が違うからだ」と答えた。
 第五倫は、劉秀を志と理想を同じくする同志であると考えていたことがわかる。周囲に自らの理想を理解する者もなく孤高に生きていた第五倫は、何と遙か天上の同じ世界を夢見る同志を見つけたのである。
 奴婢の法的立場は大きく改善された。例を挙げよう。皇帝の側近である常侍の樊豊の妻が自分の家の婢を殺す事件が起こった。洛陽の県令祝良は遙か上の権力者である樊豊の妻を捕まえて死刑にしたのである。
 あるいは県令の子どもが奴と弩で遊んでいたところ、奴が誤って子どもを射て殺してしまう事件があったが、事故としてお咎めなしとされた。奴婢と良民の法律上の平等が守られていたのである。そのため奴婢に対する偏見も少なくなっていた。後漢の第六代皇帝安帝の母は婢であったほどである。
 劉秀は奴婢という制度をなくしたわけではない。しかし前漢の頃、奴婢は奴隷として市場で公然と競売にかけて売られていたが、どうやら後漢では人身売買は禁止されたようである。
 人身売買の禁止は既に王莽が一度挑戦し、混乱の中で挫折し、法令を撤回している。このときの王莽の人身売買禁止の詔から当時の状況が推察できる。王莽は、秦王朝は人間を牛馬と同じように平然と市場で売買する無道な政府であったと非難し、奴婢を私属と名称を変えて売買を禁止すると宣言しているのである。
 このことは秦では人身売買は完全に合法であったこと、前漢でも人身売買が行われていたこと、しかし秦を無道と非難し、前漢について述べないことから、前漢では人身売買は禁止されていたが、武帝以降の貧富の差の拡大と共に、法律が有名無実となり、半ば公然と売買されるようになったと考えられるのだ。
 劉秀はここで再度法律を引き締め、法律の厳密な運用を行った。
 その結果、後漢の奴婢は戦争捕虜や犯罪者として官奴婢になったものと、それが民間に下げ渡されたもののみとなったのである。奴婢の多くは功績を立てた家臣への賞与として、あるいは公官庁に働く役人のために支給されるものが多かったようだ。宮崎市定は奴婢は終身懲役刑であるとしているが、まさに正しい理解である。
 後漢王朝では奴婢の売買に関する記録が残っていない。後漢の戸籍には奴婢の値段が書かれるが、これはもちろん購入価格ではなく、資産税のための公定価格が記入されているに過ぎず、人身売買の存在を示すものではない。
 奴婢の人権を宣言した翌年、後漢の著名な学者鄭興が密かに奴婢を買ったことが発覚して処罰されたと記録される。朱暉伝には、南陽太守阮況が郡の役人である朱暉から婢を買おうとして拒絶される話がある。これらも公的に売買が禁止されていたとすれば理解しやすい。
 後漢では人身売買の代わりに庸という、賃金労働が広まっていた。貧しくなると身を売るのではなく、平民のまま他の家の労働をするようになったのである。より穏当な経済体制になっていたことがわかる。
 それでもなお困窮した者は、戸籍を捨てて流民になった。商人、手工業、芸人などで暮らすようになったのである。後漢は、前漢に比べても顕著に流民の記録が多い。ところがそれが赤眉の乱のような反乱に至るものは多くなかった。生産力が大幅に向上していた後漢では、農業をしなくてもある程度食べていくことができたとわかる。後漢の時代、朝廷からは数年の一度のペースで流民に対して戸籍登録と農地の提供を呼びかけているが、いっこうに流民は減る様子がなかった。郷里に帰らず今いる現地で良いとし、土地も用意すると譲歩しても、流民たちは農民に戻ろうとしなかった。彼らは農地を失ったというより積極的に農地を捨てた、農民でない新しい階層の人々とわかる。当時書かれた『潜夫論』にも農業より儲かるから農地を捨てる人が多かったことが書かれている。
 後漢では奴婢の売買は禁止されたし、また売買の必要性もなかったのである。

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抜粋終わり


より

上記文抜粋
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平等を目指す戦い・土地調査を始める

 だが真の平等はただ法律で規定し、それを強制するだけで達成されるものではない。奴婢の多くは経済的格差が生み出したものなのだ。社会学者ケビン・ベイルズは、人類の歴史で奴隷人口が一番多い時代は古代でも中世でもなく、すべての国で奴隷制が禁止されている現代であることを指摘している。人権の平等は、経済の平等の上にこそ実現する理想なのである。
 真に平等な社会を作るには、経済を正しく把握する必要がある。
 こうして始まったのが度田、建武十五年(西暦39年)の全国の土地人口調査である。劉秀は州や郡に命じて全国の田畑の面積、人口や戸数、年齢の調査をしたのだ。詔して、州郡の開墾された田畑と戸数と年齢を取り調べ、二千石の官吏で上官におもねるもの、民衆をしいたげているもの、あるいは不公平なものを調べた。
 だがここで劉秀の改革は重大局面を迎える。ここまで軍備、税制、法律などを大胆に改革を続けた劉秀であるが、強力な反動が来たのである。
 調べる主体である刺史や太守に不公平な者が多くおり、豪族を優遇し、弱いものから絞り取り、大衆は怨み道に怨嗟の声が広がった。刺史や太守の多くが巧みに文書を偽造し、事実を無視し、田を測るのを名目にして、人々を田の中に集めて、村落の家々まで測ったので、人々は役人を道を遮って泣いて懇願した。
 このとき各郡からそれぞれ使者が来て結果を上奏していた。陳留郡の官吏の牘の上に書き込みがあった。「潁川、弘農は問うべし、河南、南陽は問うべからず」とある。
 劉秀は官吏に意味を問い詰めたが、官吏は答えようとせず、長寿街でこれを拾ったと嘘をついた。劉秀は怒った。
 このとき後の明帝、年は十二歳の東海公の劉陽が、帷幄の後ろから言った。「官吏は郡の勅命により、農地を比較したいのです」
 陳留郡の使者は、自分たちの作為の数字を潁川郡、弘農郡と比較して妥当な数値に収まっているか確認するように指示されていたのである。劉秀は言う。
「それならば何ゆえ河南と南陽は問うてはならぬのか」
「河南は帝城であり、大臣が多くいます。南陽は帝の郷里であり、親戚がいます。邸宅や田畑が制度を越えていても基準を守らせることはできません」
 河南と南陽は問うなとは、この二つは例外地域で法外な数値を出しているに決まっているから、真似して数値を作ると痛い目に遭うから注意しろと指示されていたのだ。劉秀は虎賁将に官吏を詰問させると、官吏はついに真実を述べたが、劉陽の答えのとおりであった。これにより謁者を派遣し刺史や太守の罪を糾明した。
 この結果たくさんの地方官が事件に連座した。河南尹張伋や各郡の二千石級の大官が虚偽報告などで罪を問われ、十数人が下獄し処刑されて死んだ。
 他にも鮑永、李章、宋弘、王元といった重臣までが虚偽報告に連座しているが、最も大物は首相級というべき大司徒の欧陽歙である。
 欧陽歙は汝南で千余万を隠匿した罪で牢獄に収監された。当代最高クラスの学者としても知られる欧陽歙の投獄に、学生千人あまりが宮殿の門まで押しかけて罪の減免を訴えた。ある者は髭を剃ったりした。この時代、髭を剃るのは犯罪者への刑罰としてだけであり、当時としては過激な行為である。平原の礼震という者は自らが代わりに死ぬので欧陽歙を助けて欲しいと上書した。劉秀の旧知でもある汝南の高獲は、鉄の冠をかぶるなど罪人を格好をして減免を求めて門に現れた。
 これはおそらく世界初の学生デモである。劉秀のような評判のよい君主が学生デモの対象となったのは興味深い。このとき劉秀と高獲との会話が残っていることから、劉秀は学生たちと対話したようである。しかし結局、劉秀はこうした抗議に対して断固とした態度をとり続け、欧陽歙は獄中に死ぬことになる。

・・・・・中略・・・・・・

豪族のゲリラ戦と皇帝の謀略戦

 劉秀に衝撃だったのは、建国の功臣である劉隆(二十八星宿十六位)も不正に連座したことで、周囲の者十数人を処刑し本人も庶人とせざるを得なかった。翌年に劉隆が南越討伐に派遣されているのは、その汚名払拭のためのようだ。
 劉秀の断固たる措置に汚職役人は打撃を受けたが、すると今度は郡や国の名門、豪族、群盗が次々と挙兵し、いたるところを攻め官吏を殺害した。汚職役人を粛清したところ、汚職役人と結託した土着豪族が、新しく刷新された役人を殺戮し脅迫を始めたのである。郡や県が軍を出して追いかけて討伐すると、軍の到着とともに解散し、軍が去れば集結した。ゲリラ戦を展開したのである。青州、徐州、幽州、冀州が最もひどかった。
 このゲリラ戦の戦い方は明白に農民反乱とは異なる。農民反乱は山林に集合して流浪するのであるが、この反乱では帰るところがあるのだ。それはもちろん豪族の邸宅である。かつて南陽で侠客として知られた劉秀の兄の劉縯は、殺人事件を犯すなど問題が多かったが、多数の武装した食客を抱えていたため、役人たちも恐れてその門をくぐることが出来なかった。このゲリラ戦は、典型的な豪族のやり口であることがわかるだろう。軍が到着しても、地元の役人は恐れてどこに逃げ込んだのか申告できなかったのである。
 今回の土地調査を、地方の豪族支配に対する中央政府による重大な挑戦と見なした豪族が、レジスタンス、あるいはサボタージュ作戦を始めたのだ。劉秀政権は挙兵当初より民衆反乱軍を自らの基盤にして、敵対する豪族政権を掃討して天下統一し、その後も一貫して民衆側に立った政治を進めていたが、ここでもまた豪族側の抵抗が始まったのである。
劉秀は謀略を用いて対応した。使者を郡国に派遣し、群盗が仲間を訴えて五人につき一人を斬ればその罪を免除した。官吏で現地に赴任せずに道中で待機した者、敵から逃げた者、敵を放した者も、みな罪を問わず、これから敵を討って捕らえれば功績とした。現職の牧、太守、県令、亭長で、境界内の盗賊を捕らえなかった者、恐れて城を他人に任せて逃げた者、みなその責任とせず、ただ賊を捕らえた数の多少を重要とし、かくまったもののみを罪とした。
 さらにかつて赤眉戦で鄧禹軍随一の猛将と知られた張宗を派遣すると、その武威を恐れ、お互いを斬り捕まえて降伏するものが数千人となり、青州、徐州は戦慄した。
 こうして賊は次々と解散した。賊の首領を他の郡に遷し、公田を与えて生業につかせた。これより平和が訪れた。牛馬は放牧され邑の門も閉ざされることはなくなったと伝えている。
 この豪族反乱は、豪族が指導者とはいえ実行部隊は一般民衆である。劉秀はそこで豪族をねらい打ちにするため、かくまった者の罪を問い、首領である豪族の力を奪うため、豪族を他の郡へと転居させて民衆との連結を断ち切り、民衆の罪は問わないで済むようにしたのである。
 劉秀得意の敵を分裂させて自滅させる謀略を採用したのである。この謀略であるが、情報戦の達人耿弇の助言があったかもしれない。というのは、耿弇は列侯として朝廷におり、問題が発生するたびに顧問として策略を献じたとされ、しかも乱の発生した青州こそは、耿弇がかつて平定した張歩の領域だからである。

・・・・・・中略・・・・・

 土地調査では、南陽の豪族の大土地所有のごまかしが問題になったが、韓歆こそはまさに南陽の大豪族であり大土地所有者であるのだ。しかも韓歆の問責に強く反対した人物に鮑永がいるが、鮑永も土地調査のとき虚偽報告により罪を問われている。
 そして決定的なのはこの事件が建武十五年(西暦39年)一月のことだということ。「今年は凶作となりましょう」の今年とは、まさに土地調査の年のことなのだ。
 土地調査のような大事業を突然思いついて行動するはずもなく、数年前から練って協議していたはずである。それを示す証拠が、同じく南陽出身の大臣である大司馬呉漢の行動である。呉漢は、妻子が田畑を買い集めて土地を広げているのを知ると、それらをすべて処分させた。自宅も古くなった部分を修理するだけで、新しい邸宅を建てようとしなかったのである。呉漢はこれから始まる土地調査に備えて身辺を整理していたことがわかる。
 この呉漢の行動と連動していると見られるのが、功臣の引退である。建武十三年(西暦37年)に鄧禹、耿弇、賈復、建武十五年(西暦39年)に朱祜、李通が引退しているが、彼らはみな大豪族であり、大土地所有者である。度田において、最も危険な立場になる人物が直前に引退していることがわかる。彼ら自身は劉秀の腹心であるが、その家族はむしろ豪族側の存在である。豪族側の旗頭に担がれる危険を未然に防いだわけである。功臣でも呉漢、臧宮、馬武、馬成、王覇など大豪族にほど遠い存在は政権に残っている。例外が劉隆で、見事に処罰されてしまった。
 劉秀はここまで温めていた土地調査の実行をこの年に決め、大臣たる韓歆に相談したのであろう。そしてその返答が、天を指し地を画し、土地調査などすれば天は怒り「今年は凶作となりましょう」というものなのである。劉秀が韓歆を帰郷させ問責したのは、土地調査強行の意志表示なのである。反対派の親玉が執行者のトップでは話にならない。そして、それに対して韓歆が自殺したのは、大地主豪族グループのリーダーとしての決死の抗議なのだ。
 こうして考えると、なぜ韓歆だけでなくその息子まで自殺したのかがわかるだろう。非難されているのは韓歆個人ではなく、韓歆の一族であるからだ。
 韓歆自殺事件とは土地調査における豪族の抵抗の序章だったのである。

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抜粋終わり
{太字は、私の編集です}

「金持ち」「富裕層」を、如何に「適切に」弾圧するか・・が、社会の繁栄のカギになる。それをしないと、その社会は奴隷制国家になり、その挙句に滅びる・・てなるだろう。

ギリシア・ローマの経済法・契約法は、ほぼ「金持ち優遇」それは「市民~奴隷を使う立場」の人らの権利だけ保証するものだからな。

だから、ギリシア・ローマの伝統の系図は、ローマ帝国崩壊で終焉した。

富裕層を「無条件」には、その権利の執行を認めない社会の方が、実は、富裕層も、それ以外の凡庸な庶民も、安心して暮らせる・・・

だいたい日本も江戸時代までは「西欧の経済法・ローマの契約法」など無関係だからだったからな。明治以降は、その「奴隷制維持の経済法~ローマの経済法・契約法」が、入って、天皇家の奴隷に日本人が成っていったのだから・・・
「神道」のキリスト教=バチカン教化と、西欧の経済法の導入が、日本列島を、天皇家と特にその閨閥とその背乗り信者と外資の天国=在来日本人の地獄に変えたのだ。

改めて言うが「ギリシアローマの契約法」で運営される、現在の西側社会・日本は、「隠れ奴隷制社会」であり、その「リベラルデモクラシー」は、富裕層・勝ち組だけのための「人権・民主主義」しか保証される確証が低い欠陥システムであるのを、よく認識して改善・是正の繰り返しをしないと、今の人権も民主制も・・すでに形骸化しているし、早晩消え失せるのは当然の結末なのである。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように

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