知的・あるいは思想的欠陥。「自分の中心の合理主義」・・
上記文抜粋
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>「理性」と「狂気」を区別するのは、常に「理性」側という訳です。従いまして、欧米人は、たいてい当面の敵を「狂っている」とか「狂人」と罵ります。
て思考方法なら、「民主主義」も「多様性」」も実現など、不可能に近いと思いますし、きっと「うまく行かない」とおもえるのです。
今の欧米の民主制て完全に形骸化しているし・・LGBTQの多様性も「???」なことで、当事者の多くの人も共感できないらしいです。
そんなことを感じました。
・・・・中略・・・・・
>「民主主義」も「多様性」」も実現など、不可能に近いと思いますし、きっと「うまく行かない」とおもえるのです。
同感です。問題点は輻輳していますので、論点を整理しますとこうなるでしょうか。
1)日本人の頭の中にある、「西欧像」は、西欧人自身による修正済み自撮写真である
1ー2)徳川末期から、現代までの日本人は、西欧近代文明を西欧人の書物(text)から学んできた。西欧人は、他者に弱みを決して見せてはならないと教育され続けて、こどもから大人になる。
従って、大抵の西欧人は、例外なく、自分の長所、強味を他者にアピールすることがすこぶるうまい。その人間の権利は、本人がその権利を行使することを通じて結果的に実現するから、自分が実現を求めて行使しなければ、誰もその権利を認めないし、認める必要もない。何故なら、本人がその権利を行使しないということは、その権利を自ら放棄することを意味するから。
本を書くのは西欧の知識人であり、西欧人の作法通り、いかに西欧の文物、学芸、政治、経済が素晴らしいかを強調することになる。あるいは、西欧知識人は、自らの学知的見聞を、「~である」と記述する。
「ひとは生まれながらにして自由である」「人間は平等である」、等。
しかし、これは価値命題であり、事実命題ではない。本来正確を期すならば、「自由であるべきだ」「平等であるべきだ」と記述すべきだが、西欧由来の倫理学も、政治思想も、法哲学も、そうは記述されていない。
西欧社会内部では、それらへの異議申し立ては、それぞれ個々の人間が主張するから、先の命題がまちがっていれば、徐々に修正されていく(はず)。
しかし、実際には、財産と教養(表現する言葉)を持つ強い「個人(=自我)」のみがそれを行使でき、財産も教養(表現する言葉)も無い弱い「個人(=自我)」は泣き寝入りするしかない。
西欧社会は、強い個人の「自由」と強い個人の「平等」だけが実現している社会と言える。
従って、大谷翔平は黄色人種だが、とても強い「個人」なので、強い米国人は彼を自分たちの仲間と認知しているにすぎない。
日本人は、西欧人の修正済み自撮り画像、あるいは「えくぼ」だけを見せられて信じてしまい、無修正画像、あるいは「あばた」を垣間見て、驚き裏切られたように感じてしまう。これは西欧文明の卸売商である、日本人知識人の犯罪的行為の帰結。
2)「西欧合理主義」とは、自我中心の合理主義であり、その合理性は自我を中心とした無矛盾性のことであり、自我に背を向けるものは徹底的に排除するものである
3)言い換えると、「自我に敵対するものを合理的に倒すこと」であるから、暴力革命も是認されるし、民族鏖殺も正当化される。現代のグローバリゼーション下でも、核武装している大国が「ジャイアン」であり、非核武装の中小国が「のび太」だから、現代国際社会も、事実上、中世の自力救済の世界とあまり変わり映えしない、といわねばならない。
※下記参照
①欧米的合理主義のなかに内在する不合理は何に由来するのか(1): 本に溺れたい
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2022/02/post-a1d3c5.html
②「自力救済の原理 the principle of self-help」を巡る顕教と密教: 本に溺れたい
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2022/05/post-b69840.html
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抜粋終わり
西洋社会で言う「合理的」とは「貴方に取っての合理ですよね」ってことなんですよ。
それが「普遍的」であることもあれば、そうではないこともある。
たとえば・・・
民主主義・人権は普遍的だろう。でもそれが「リベラルデモクラシー」だけではない。
それなのにそれを認めれない。
「宗教を離れた在り様」は、ライシテだけでは無い。儒仏道の三教調和{中国ではイスラムもマニ教も共存している}や神仏習合も「ある種の超宗教・無宗教」だけど、それは認識できない。
LGBTQ運動も、普遍性はあるけど、そんなのは信長が女装してたり同性愛にそれほどうるさくない東アジアでは「喫茶去」な話もある。
そういう意味では「西洋流の合理主義は西洋人の自己中心からみた合理的
」なのに過ぎず、「合理主義」の一種に過ぎない。
上記文抜粋
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本書は、法蔵館から出版された同書単行本(2001年3月20日刊)の文庫版です。その単行本も、改訂増補新版で、元の本は下記です。
末木剛博『東洋の合理思想』1970年8月16日講談社現代新書No.235
従いまして、実質半世紀前の著書ということになります。紀伊国屋書店サイトの単行本(2001年版)紹介ページに、本書の原本である講談社現代新書版(1970年版)は、中国語、韓国語に翻訳され、国際的に広く影響を与えた名著、とあります。半世紀前の時点で、西洋の合理思想に対抗するために、東洋に反(あるいは、非)合理思想を求めるのではなく、むしろ西洋合理思想を準拠枠として、東洋の古典古代において育まれた独自の合理思想を、現代の論理記号を表現手段として記述した、というのが本書の著しい特徴です。それが当時としては類書が無い領域を開いた、として評価されたのだと思われます。
しかし、本書をいま繙いて注目したいのは、「結論」の部分です。長くなりますが、該当箇所を弊ブログにて全文引用しておきます。
◆本書引用(文庫版pp.301-5)
無矛盾的な形式を追求する形式論理学はもちろんのこと、矛盾を媒介者として展開する種々なる弁証法も、矛盾律を根本として堅持しなくてはならないのである。そして矛盾律を堅持することは、矛盾を徹底的に排除することである。
欧米の文化は常に自己に矛盾するものを徹底的に排除することによって、自己同一を維持してきたのである。そのお蔭で欧米では科学が発達し、技術が開発され、民主主義が定着し、経済が成長して、輝かしい近代が出現したのである。
しかしこの無類に強力な欧米的合理主義にはおのずからなる限界があり、欠陥がある。
十字軍を始めとして、苛烈な宗教裁判、新教と旧教との間の妥協なき宗教戦争等々、合理的な西洋の世界には再三再四発現した不合理極まりない闘争のくりかえしは何と説明してよいのであろうか。そうした好戦的傾向は二十世紀にまで続き、ついに第一次、第二次の世界大戦を惹き起こしたのであるが、それは対日戦を別にすれば、欧米の仲間喧嘩であり、その合理主義が内蔵する自己矛盾の必然的な帰結と言わねばなるまい。
それならば、欧米的合理主義のなかに内在する不合理は何に由来するのか。
その合理主義は元来矛盾を徹底的に排除して無矛盾性を維持することである。
それが、矛盾を排除するが故に矛盾に陥って自滅しかねない状態になるのは何故であるか。欧米的合理主義は何か根本的な欠陥を内に抱いているにちがいない。さもなければ、矛盾を排除して却って矛盾に陥るはずがない。その根本的な欠陥とは何か。それは欧米の合理主義が自我中心的合理主義である、という点にあると考えられる。
その合理性は自我を中心とした無矛盾性のことであり、自我に背を向けるものは徹底的に排除するのである。
デカルトは神の存在を証明するのに「我思う」から出発し、カントは科学の妥当性を保証するのに「我思う」を証人に立てたが、このように欧米の合理主義は自我を基準として、これに矛盾するものを除き、これに矛盾しないものを保存するという思考法である。
一見矛盾を許すかに見えるヘーゲルの弁証法も、「絶対精神」と名づけられる自我が自己に矛盾するものを排除しながら自己を展開していく体系であって、自我中心的合理主義の一典型である。
かかる自我中心的合理主義を要約して言えば、「自我に敵対するものを合理的に倒すこと」という一文に尽きるであろう。この原理を忠実に守れば、暴力革命も是認され、民族鏖殺も正当化されるであろう。
ここに欧米的合理主義の病巣がある。その病巣を剔抉するには、合理主義から「自我中心」という条件を取り去らねばならないが、本書に集録した東洋の合理思想はそうした非自我中心的合理主義のいくつかの範例を提供するであろう。
三、本書に収めた東洋古来の合理思想は欧米流の自我中心的合理主義とはちがって、非自我中心的である。
東洋の合理思想も合理思想の一種であり、その限りで矛盾律に従い矛盾を排除するものである(『韓非子』の「矛盾の説」およびインド論理学の「相違」(viruddha)の概念はその端的な表現である)。
その点では西洋の合理主義と何ら相違するところがない。ただ、西洋の場合とちがって、東洋では自我中心という条件をつけないのである。
それは周易の陰陽の弁証法に典型的にみられるように、自我というただ一つの極を立てて、それに背反するものを排除するのではなく、相反し相矛盾する二つの極を立ててその両極の間に補足しあい、相互に相手を肯定する関係を打ち立てるのである。
相互に否定するものが相互に肯定するのである。これは矛盾のように見えるが、決して矛盾ではない。たとえば、夫婦の関係を考えてみるがよい。同一人物が夫と妻とを兼ねることはできないので、その限りで(すなわち同一人物に関する限りで)夫と妻という両概念は相反し相互否定する。しかし二人の別人AとBに関して言えば、AがBの夫ならば、BはAの妻となり、またその逆となり、夫と妻のという両概念は相互に相手の必要条件となって相互肯定しあう。これが相互に否定するものが相互に肯定する、ということであって、そこには矛盾は見当たらないのである。
つまり、一つの主語に関しては相反または矛盾する二つの概念が、二つの別個の主語に関しては相互に相手の必要条件となり、相互に肯定しあう、という関係である。これは二箇の焦点の結合によって周辺を決定する楕円に似た構造であるから、仮りに「楕円思考」と名づけてもよいであろう。
すると、周易の陰陽はまさに楕円思考的な合理思想の典型である。そして本書に紹介した数多くの東洋の弁証法は(仏教であると否とにかかわらず)このような楕円思考的な構造を共有するのであり、それが欧米の自我中心的な合理主義と異なるところである。
欧米の自我中心的合理主義は自我を独立せる実体と考えることに由来する。デカルトが方法的懐疑の末に到達した「考える我」は一つの実体であって「延長的実体」に依存しない独立せるものである。自我がこのように独立せる実体であれば、自我は自身以外のものに依存するはずがなく、したがって自他二極の間の相互依存のあるはずがなく、つまり楕円思考の成立する余地はないのである。これとは反対に、東洋の合理思想は自我を独立せる実体とは認めない。
すべてのものは独立せる実体ではないので、必ず他のものに依存しなくてはならなぬと言う。この非実体的な相互依存の考えは仏教にあって特に顕著であるが、周易の陰陽にも、老子の虚無自然の説にも、たとえ陰伏的にしても、その根底に潜んでいる。
そしてこの万物の非実体的相互依存性のうえに非自我中心的な合理思想が成立し、楕円思考的合理思想が成立するのである。そしてこれが欧米流の「万人対万人の戦」を超克する唯一の道を暗示するものと筆者は考えている。
◆目次(文庫版)
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抜粋終わり
自我は大事。。
でも「それだけ」では無いでしょう?
「それだけ」なのにすべてとしたのが、西洋文明の狂気の根源だったかもしれない。
でそれは内側から破滅していく、、世界に抵抗し天地に背き自分を自分で喰らっていく・・・それでね・・・ちょうど今、ブリックスにNATO&天皇カルト=ナチスが駆逐されていくように・・・
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みの富む社会になりますように。