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寂しい何か:2


承前

 文明と商業と合理主義の国、西方国イト。多くの者が希望、あるいは絶望のもとに訪れ、酩酊と退廃の果てに掠れ行く国。その南東に一つの坩堝が在る。

 地に沈む、六十と八の階層より成る積層都市。そこには全ての神秘と欲望の香りがあり、また新たな全てが生みだされ、打ち捨てられ、忘れ去られてゆく。誰もが一つの宵を越えられる事に感謝し、しかして明日の光明を見出せぬまま眠りにつく。地の底では今だ絶えることなく採掘が続けられ、街路では他層への架橋が行われ、多層にてその版図を広げ続けている。上層にていくつかの貴族たちが夜な夜な秘密信仰に耽る中、下層の貧民は上からの落伍者から身包みを剥いで各々の命を繋げつつ、何時かその境遇から抜け出すことを夢見ていた。此処は<灰都>ロヅメイグ。あらゆるものが在りながら、その尽くがどこかぼやけ、霧の如く流れ去る地。

 この日の灰都は、一際冷え込んでいた。

 最下層より霧を伴って上り来るその冷気は、中層の灰都第七図書館にまで忍び込んでいた。平時から静謐な空気を湛えるこの大図書館であるが、この日のそれは半ば肌を刺すような冷たさであり、多くの使用者は重ねた外套そのままに自らの求める書を探し求め、幽鬼の如く彷徨い歩いている。またある者は、方々に用意された机でランタンの僅かな温もりに照らされ、書を開いていた。普段であれば書架の群れと書物の背表紙、そして迷える探索者達を柔らかく照らす灯り達も、この寒さには音を上げたのか、所々暗く沈んでしまっている。歩き回る司書達の幾人かが、それを見咎めては火を入れ直していた。

 そんな大図書館の一角に、寒さに震える周囲など素知らぬとばかりの温もりに満ちた一室があった。この図書館のあるじ、ガーナールサの賢女、赤衣の女史。エニアリス・リーゼルフォーの居室である。

 紅茶の香りが漂い、暖炉のぬくもりに包まれた図書館長室には四人の男女の姿があった。美と書庫の国、ガーナールサの血に相応しい知性を宿した深緑の瞳を持つ、琥珀の髪のエニアリス。給仕として呼ばれた女性司書グアリア。そして黒髪の隻腕剣士グリンザールと、彼と共に道行きを行く灰毛灰眼の隻眼詩人ゼウド。彼らの内エリアニス、グリンザール、ゼウドの三人は、グアリアが暖炉の管理に四苦八苦するのを尻目に机を囲み、此度のエニアリスよりの依頼について話し合っていた。

「それでつまりだ。エニアリスには欲しいもんがある。その持ち主が大事なものを盗まれて困ってる。そこであんたは大事なもんを取り返して、交渉の材料にしようってわけだ」眼帯を撫でながらゼウドは話をまとめた。ぱさりとした灰の長髪が、傍に建てられたランプに照らされて輝いている。「ええ。説明ありがとう、ゼウド君。グリンザール君も、事情はわかってくれたかしら?」灰都、第七図書館の長たるエニアリスは眼鏡を直して、ゼウドの要約に頷いた。

「だから俺も舞踏会に来いと? 意味がわからん。正気なのか?」グリンザールは普段よりもずっと不躾に云った。この陰気な隻腕剣士は他人と関わる事自体を嫌うし、それ以上に目立つことを嫌う。個人の気質も、喪われた左腕も、そのどちらもがそうさせるのだと、詩人も図書館長も考えていた。「俺は行かんぞ」グリンザールはソファから立ちあがり、館長室を後にしようとする。

「待てよ竜の仔。別に、お前に舞踏会で踊ってもらいたい訳じゃあねえんだ」ゼウドはグリンザールの背に向けて云った。「最初っからそんな事は頼んじゃいねえだろ? 座れって。ま、詳しいとこは俺もこれから聞くんだがよ」

 その言葉にグリンザールは渋々ながら椅子に戻り、再び射貫くような瞳でエニアリスを睨んだ。「ある程度、事情は分かった。しかしなぜ俺達のような彷徨い人にそんな仕事を頼む理由がある? ゼウドの腕は確かだが、もっと真っ当な楽士など灰都には吐いて捨てるほど居るはずだ」グリンザールは捲し立てるように云った。吐いて捨てるほど、と言う部分にゼウドが一瞬眉をしかめたが、気を取り直すように紅茶に口をつけ、熱かったのかすぐさま椀を置く。それを見てからエニアリスが答えた。「当然、荒事よ」「だろうな」グリンザールは云って、一息に紅茶を飲み干した。

「此度の舞踏会は、五十六階層の北東に居を構える、ネルヴァン家。彼らの邸宅で行われるわ。ネルヴァンは十年前に当主が変わってから、随分と指輪の蒐集に熱を上げていてね。いろいろと汚いやり方もしていたらしいわ」「そいつァ、同じ貴族からもか?」「ええ、それはもう。指輪一つのために潰された家もあるなんて噂よ。嫌よねぇ」エニアリスはそこで一度云い終えると、自身の紅茶を品のある所作で口に運んだ。

「ハハア、読めたぜ。つまりだ。どっかの貴族様の大事な指輪をそいつらが持ってっちまった。その持ち主は、対価に糸目をつけずにそれを取り戻したがってる。あんたは舞踏会に乗じて俺達にそれを取り返させて、何かしらの対価を頂く腹積もりだな? 金貨十五枚じゃ、ちーと荷が重いんじゃあねえの?」ゼウドは目だけは笑わずに云った。「せめて倍は貰わねえとなァ」

 その要求にエニアリスはあからさまに嫌そうな顔をした後、手布で眼鏡のレンズを拭き、掛け直して答えた。「別に、今回はそこまで大事になる、そういう話じゃないわ。舞踏会をしている間に館に忍び込んで指輪を取り返してきて欲しい。それだけよ」「俺は盗人じゃない」グリンザールはますます不機嫌そうな顔をして云う。「それこそ、本職の者に頼むべき仕事だろう」

「そうね」エニアリスは、そう云われるのを知っていたかのように頷いた。「でも、これは貴方にも利がある話よ。とりあえず最後まで聞いていきなさいな」

 そう言われたグリンザールは半ば諦めて俯いた。グリンザールもエニアリスには若き日より多大な貸しがあり、今までもその貸しが響いて無理難題を言いつけられて来た身だ。自身の言い分を理解した上でまだ話を続けるのであれば、彼女の中では既に己たちが此度の『頼み』を受けることに決まっているのだろう。

 もはや如何に転がした所で、例の如く彼女に従わざるを得まい。あの恐るべき<棘>を向けられるよりはマシだ、と彼は考えた。グリンザールは今までの『頼み』のいくつかとその顛末を想起し、少しうんざりした。

「……続けてくれ。俺の利について、詳しくな」グリンザールは、僅かな抵抗めいて眼を細めてエニアリスに云った。

「それじゃグリンザール君の要望にお応えして、その辺りから教えるわ」諦めたようなグリンザールに気を良くしたのか、エニアリスは笑顔で話し始めた。「私が求めているのは、本よ」「本だあ?」菓子を齧っていたゼウドが心底わからぬ、という風に聞き返した。「当然、真っ当なそれでは無いのだろうな」グリンザールは真剣な面持ちで云った。

「ええ。旧くよりイスギールにあり、今もその地を支配する二十三氏族。嘗て彼らとともに二十七氏族とされながら、今は絶えし四氏族に関する文献……とされているわ」そこでまた紅茶を口に含むと、エニアリスはグリンザールを試すように見る。「<北の果つるところ>、<とこしえに白き大地>。イスギール・ナ・ムルデンか」グリンザールは眉一つ動かさず、それに答えた。「その通りよ」エニアリスは満足そうに云った。

「その本には失われた四氏族の内の名も残らぬ氏族。その信仰と、彼らの用いた秘儀についてが記されているらしいの」「なんだよ、はっきりしねえなあ」「それを確かめるには実際に読んでみる必要がある。いちいち解り切ったことを言わせないで」カチャカチャと、どこからか取りだした知恵の輪を弄っていたゼウドの小言にエニアリスは口を尖らせる。ゼウドはおお怖え、と呟いた後、再び知恵の輪を弄り始めた。

 しばし、ゼウドに呆れたような視線を向けていたエニアリスだが、一度小さくため息をつくと、気を取り直したように云った。「当然、それを手に入れた後はグリンザール君にも読ませてあげるわ。それが私の提示する此度の『利』よ。少しはその気になってくれた?」「ふむ……」グリンザールは口元に手をやりしばし思案する。

「……エニアリス。むしろお前は、俺にこそ其れを読み明かして貰いたいんじゃあないのか? そもそも、その書が『読める文字』で書いてある保証など何処にも無い。その場合、お前がどれ程人を用いて解読に挑もうが、結局俺が目を通した方が早いのは間違いないのだからな」グリンザールは努めて尊大に云った。「あら、これは痛い所を突かれたわね」口ではそう言いながら、エニアリスは涼しい顔でグリンザールを見つめている。

 灰都に名高い第七図書館長であり、その職務に少なからず矜持を持つエニアリスに対して、並の者がこのような物言いをしようものなら、良くて図書館から放り出され、悪ければ彼女の得物たる世に唯一残された拳銃、<棘>によっての二の句を断ち切られる事となるだろう。しかしてグリンザールがそれを許されるのは、彼の持つ、文書であればどのような文字で書かれていても意味を忽ちに理解し、ありうべからざる禁忌の文書とそうでないものを正しく見分ける生来の文書解読の才。それをエニアリスが知り、彼女がそれに心底敬意を払っているからであった。

「先に言っておくけれど、文書の解読にはまた別に報酬を払うわ。それが無くとも、グリンザール君にとっては魅力的な報酬だと思うのだけれど。どうかしら? ね、グリンザール君」エニアリスはグリンザールの顔を覗き込むようにして云った。グリンザールは少し顔をしかめた。エニアリスがそう言う仕草を見せる時は、結局、話が自身の思うように進むことを確信し、実際そのようになる時なのだと、グリンザールは十年近く彼女と接した経験から熟知していた。「……俺の利に関しての話はもう十分だ。ゼウドも退屈しているようだしな」

「よおグリンジ。話は決まったみてえだなあ」とうに知恵の輪を外し終え、グアリアの給する菓子を機械的に食らうばかりであったゼウドが待ちくたびれたかのように云った。「ゼウドよ、お前こそもう少し美味そうに食ったらどうだ?」その様を横目に見たグリンザールは僅かに口角を釣り上げ、皮肉めかして云う。

「美味いぜ? 美味えんだけどよお、ワケの分からん話を聞きながらじゃ、とてもじゃねえが気分が乗らん」ゼウドは毒づいて云った。それは彼が、常日頃よりグリンザールがこの世に蔓延ると宣う<魔法>を始めとする、神秘の一切を信用してはいないからだ。

 彼は金貨と、自身の過ごした歳月と、その身に修めた技術こそ、真に信頼に足るものであると考えている。故に、神秘の存在を前提に動くグリンザールを、時に忌々しく思っているのだった。

「お前にもいつか、分かる時が来るだろう」グリンザールが、どこか遠い目をして云った。ゼウドはそれを聞いて呆れた顔をし、また一口、菓子を齧って云った。「ハ! 太陽と月が並んで昇りでもしたら考えてみるさ」

「はいはい、云い合いはその辺になさいな」エニアリスが二人を窘めると、二人は気を悪くしたかのように黙り込んだ。実際のところ彼らにとって、この程度の口論は日常茶飯事であるはずだが、互いに頭の上がらぬ彼女に指摘されたのは、如何せんバツが悪かったようだった。「そんで? どこのお偉いさんだ、その、指輪を取られたってのは?」ゼウドが天を仰ぎながら聞いた。

「ゼウド君は知ってるかしら。六十階層のベルンハルト家、そこの現当主よ」エリアニスが云うと、ゼウドはああ、と納得したかのように答える。「あのオッサン……いや、もう爺さんか。確かにあの爺なら、本は腐るほど溜めこんでやがるだろうな」「一体何者だ?」グリンザールはゼウドを凝視して云った。その視線を意に介した様子もなくゼウドは答える。

「フォルカー・アロイジウス・ベルンハルト。貴族様さ。元はアラクェドでそれなりの地位を持ってたらしいが、父親の代にロヅメイグに移ってきたって話だ。奴さん自身は石材の流通がどうとかで財を成したが、早々に事業を他のもんに任せて、古書物の蒐集に興じてたらしい。そんでその趣味が高じて、何年か前まで第五図書館の図書館長をやってたんだとよ」そこでゼウドは一旦話を切り、エニアリスを見る。「とっくに隠居したと聞いてたんだが、まだ本の蒐集はやめてなかったらしいな」

「老人にはちょうどいい手慰みだったのでしょうね」エニアリスは菓子を手に取り云った。「丁度、私が読みたがっているかの書を手に入れてすぐに、亡き奥様に送った指輪を、何者かに盗まれたらしいわ」「あの爺さん寡夫だったのかよ」ゼウドが驚いたかのように云った。「通りで仕事熱心なわけだぜ」

「彼が職から退いたのは奥様がお亡くなりになったからよ?」どこか納得したかのようなゼウドの足元を掬うかのようにエニアリスが口を挟んだ。「おっと、そいつは失礼」ゼウドはわざとらしく額を打つ。グリンザールはその様に一瞥もくれず、エニアリスに云った。「成程な。それで、お前は指輪を取り戻すことを条件に、その古書を譲渡するように彼に持ちかけた。そう云う訳だな?」「あら、彼から頼んできた、という線は考えないの?」「ねえな」「然り」エニアリスの反論に二人の彷徨い人はまるで打ち合わせていたかのように即答し、エニアリスはその様を見て不機嫌そうに眼を細めるのだった。

「まあ話は分かったぜ。報酬を倍にするなら、俺は受けてもいい」ゼウドが身を乗り出して云った。「お前はどうすんだ、グリンジ?」「俺は受けよう」グリンザールは眉一つ動かさず云った。「イスギールの書物はこの第七図書館には乏しかったからな。新たな啓蒙を得ることができるやも知れぬ」「そんなもん調べてどうすんだかなあ、こいつは」呆れたようなゼウドの問いに、しかしグリンザールが答える事は無かった。

「それじゃあ、必要なものはこちらで用意してあげるわ。まず、グリンザール君はともかく、ゼウド君にはもう少し綺麗な格好をしてもらう必要があるわね」そうエニアリスは楽しげに云い、それを聞いたゼウドは一度自身の姿を確認した後、思いっきり嫌そうな顔をした。「巻革鎧がダメなのは分かるが、アンタが用意する服を着なきゃいけないのかよ」「当然じゃない。仕事を受けてもらう以上、責任もって支援はしなきゃ。グアリア!」

 エニアリスはグアリアを呼びつけると、幾つかの服の在処を教え、ここへそれらを持ってくるように命じた。グアリアはすっかり慌てた様子で駆け出し、引くべき扉を押して大きな音を立てた後、気まずそうに退出していった。

「……本当にダメね、あの子は」その様を見て、エニアリスは大きく溜息をついた。「なぁおい、エニアリス。報酬、マジで上げてくれよ」それを気にも留めず、ゼウドは恨みがましく云った。「どんな服を着せられるかわかったもんじゃあねえし、貴族連中の前で演奏させられるんだろ? 十五枚じゃあ誰もやらんぜ、この仕事」「最低十五枚、と云ったはずよ」エニアリスはいい加減うっとおしそうに云った。

「貴方の演奏の出来によっては倍どころか四十、いえ五十の金貨をあげたっていいわ」「グリンザール、聞いたか?」聞かれたグリンザールは興味なさげにああ、とだけ答えた。「そう云われちゃあ腕が鳴る。エリアニス、楽しみにしとけよ。不肖ながらこのゼウド、全霊を持ってその場に臨ませて頂く故」そう云うと、ゼウドは大仰な仕草で立ち上がり、自身の持つナーバルドを短くかき鳴らした。

「期待させてもらうわ、ゼウド君」その澄んだ音を耳にして、エニアリスは笑って云った。「グリンザール君もよろしく頼むわよ。実際の仕事を、殆ど貴方一人に任せるのは心苦しいけれど……」「心にも無い事を云うな」グリンザールはぴしゃりと無感情に云った。

「それより、俺にも準備が必要だ。館の地図、指輪の資料、当日の警備。調べるべき事は幾らでもある。それらについても、お前に任せて構わんのだろうな?」そう云うとグリンザールは殺気の籠った視線をエニアリスに向ける。しかしエニアリスはそれを涼しい顔で受け流し、あまつさえ微笑んで見せた。「やる気になってくれたのなら有難いわ。それじゃ、私は資料を持ってくるから、しばらくこの部屋で待っていなさいね」

 そう言い残し、エニアリスは部屋を一度後にした。残された二人の内、ゼウドは既に如何なる詩を披露するかを熱心に思案しており、半ば自身の世界にのめり込んでいる。逆にグリンザールは静かに眼を閉じ、この『頼み』の顛末が、窮地と苦難に満ちたそれにならぬ事を半ば諦めながらに願っているのだった。


3に続く

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