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逃走


「ハッハー! ざまあみやがれ!」ゼウドの放った矢は馬上という悪条件にもかかわらず、<黒襤褸>の馬の額を過たず射抜いていた。咄嗟に<黒襤褸>は砂へと飛び降り、派手に転げる馬に巻き込まれる事を逃れる。その脇を<灰襤褸>と<茶襤褸>の馬が駆け抜けるが、<黒襤褸>の姿は見る見る内に小さくなって消えていった。

 並び駆ける灰襤褸と茶襤褸の二者は馬に鞭打ち、徐々にであるが確実に距離を詰めつつある。既に彼ら共通の歪み曲剣は月明かりを映し、それは冷えた刀身を暖かい血で濡らすのを今か今かと待ちわびている様であった。

「そんなに撃たれるのが好きかよ! 相当だぜ!」ゼウドは毒づきながらも二丁のゼイローム・ボウガンの弾倉を交換する。「もう二度やれ、ゼウド! 追いつかれるぞ!」手綱を握りながらグリンザールはあらん限りに叫んだ。「この馬では逃げきれん!」

 既に長い旅路を酷使されてきた栗毛は疲れを見せ始め、速力を落とし始めていた。未だ彼らに追いつかれぬのもゼウドによる牽制が効いている故であるが、それもいつまで持つかは不明瞭だ。隻眼であるゼウドの射撃は、元より百発百中のそれでは無い。矢とてその数は限られている。更には全力疾走の馬上での事だ。ゼウド自身もそれを理解しているのだろう。普段より慎重に、決して取り落とさぬよう弾倉を石弓へと装着してゆく。

 その時、右の砂丘より影が一つ跳躍した。半ば夜空に溶け込んだ黒襤褸にゼウドが反応し、グリンザールが無慈悲なる曲線を以ってその声に応えられたのは正しく奇跡と言える、それ程の奇襲であった。ラーグニタッド刀と歪み曲刀が噛み合う一瞬のせめぎ合いの後、空に居た黒襤褸は大きく弾き飛ばされ、驚くほど綺麗に着地するがすぐさま飛び退いた。そこを灰襤褸と茶襤褸の馬が駆け抜ける。

 砂に再び飛び込んだ黒襤褸も直ちに起き上がると、四つん這いになったかと錯覚するほどに低く身を屈めて駆け出す。その速度はあっという間に馬を駆る灰襤褸と茶襤褸を追い抜き、さらには二人の乗る馬に追いつかんばかりに加速した。

「グリンザール! グリンザール! あいつは一体何だ! いつ先回りした!? 少なくともまともじゃあねえみてえだが!」「ワロギス、否、かの迅速さとあの得物、アル=ニヤトの徒であろうな!」「そう云う事を聞いてんじゃねえっての!」背でやけくそ気味に喚くゼウドに、グリンザールは負けじと声を張って馬に今一度鞭を入れた。しかし黒襤褸は恐るべき速力を以って見る見る内に彼らに肉薄してくる。

「……止むを得んか!」一瞬の思案の後グリンザールは鐙から片足を抜き、ゼウドに手綱を託して馬から降りようとする素振りを見せた。「おいグリンザール!? 狂ったかよ!?」狼狽したゼウドの問いに、黒襤褸を睨みながらグリンザールが答える。「もはや殺すしかあるまい。ゼウドよ、俺が黒襤褸の男を仕留める。馬の二人は」「それしかねえかよ!」

 ゼウドは後ろにあてずっぽうに三発ずつ石弓を放つと、鐙に足を掛けてグリンザールと位置を器用に交代する。

「ゼウド、俺を撃ってくれるなよ」「それこそ祈っとけ、竜の仔」それだけ聞くと、グリンザールは意を決し飛び降りて着地、大きく砂塵を撒き散らす。既に彼らに迫っていた黒襤褸は砂の中に臆せず突進し斬りかかるも、瞬く間に二度振るわれたラーグニタッド刀に退けられ、堪らず身を引く。その機を逃すグリンザールではない。黒襤褸よりもさらに昏き影となってその懐に潜り込んだグリンザールは、渾身の力を以って胸を裂かんと剣を振り上げた。しかし敵もさる者、仰け反るようにその致命の一撃を凌ぐと、後転する勢いそのままに爪先でグリンザールの顎を狙う。それをグリンザールが飛び退いて躱すと黒襤褸は追わず、見定めるように腰を落としてグリンザールの動きを伺っていた。

 相手が剣士と呼ぶに十分な手練であることを、彼らはこの激突で確信していた。

 故に動かず、互いに眼前の剣士だけでなくそれぞれの仲間に気を配る。その様を見ていたゼウドは手綱を引いて馬の首を巡らせることで速度を落とさせ、グリンザールが射線に入らぬよう栗毛を歩ませた。黒襤褸もそんなゼウドに対しても警戒の念を向けているようであったが、追い抜いていた灰襤褸と茶襤褸が追い付くと、その殺意を専ら目の前の死に神めいた剣士に向け始める。

「やあやあ陰気な襤褸切れ共! ここは一つ、この憐れな詩人の詩に免じて見逃してはくれんか! 好きな歌があれば聞かせてくれたまえ! 俺の楽器はそれに応えたくてうずうずしてる様だぜ!」ゼウドが声を上げた。しかしてその腕には愛用の東方弦楽器ナーバルドは抱えられておらず、代わりに二つのゼイローム・ボウガンがそれぞれ灰襤褸と茶襤褸に見せつけるように向けられている。それを見た灰襤褸と茶襤褸は左右に分かれて馬を歩ませ、ゼウドと栗毛を挟みこまんと動きだした。

 グリンザールの前には一対の歪み曲剣を手にした黒襤褸が蠍めいて構え、均衡が崩れるその瞬間を待ちわびるように白い息を吐く。

 それを見てグリンザールは僅かに顔をしかめた後、ラーグニタッド刀の切っ先を砂に突き立て、それを左から右に振るい砂地に無慈悲な曲線を描いた。それから一歩分、後ろに飛び退き切っ先を向けて言い放つ。「この線を越えたならば殺す」

 その時砂丘の向こうから、びゅう、という音を立て風が砂を運んで来た。その砂によってグリンザールの描いた半円は一息に吹き消されてしまい、それを見たグリンザールは少しばかり、気まずそうな顔をした。

「…………前に出たならば殺す」グリンザールは律儀にも言い直し、それを聞いたゼウドは吹き出す。その瞬間黒襤褸は叫びを上げて疾駆し、期せずしてそれが戦いの火蓋を切る事になった。



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